第4話



 目覚めの悪い朝、と言うのは本当に嫌なものだと感じる。

 あるいは、昔の夢をみてしまったからだろうか。どちらにしても、今が最も気分の悪い朝だということに変わりはなかった。


 あの夢、悪夢といっていいものなのだろう。時折、自分が夢の中で見る光景を思い起こすだけでも吐き気がしてくる。

 だが、それを忘れようとは思わない。

 忘れてしまえば全てが無意味に終わりそうな気がする。全てが、無かった事のようになってしまいそうだった。


 事実、今この国ではあの出来事を記憶の奥底へと流してしまっている者がほとんどだろう。

 しかしそれ自体を非難することはできない。

 苦しみも辛さも忘れられるからこそ、今日を、そして明日を生きていこうとできるのだから。人間とはそういう風に出来ている。

 それは都合の良いものではあるが、必要な事なのだ。


 あれからもう、8年近くが経っていた。


 今ではこの国だけでなく、世界全土に共通して平和で安定した暮らしができるようになってきている。未だ開拓地付近の農村では魔物の被害に脅えているという話だが、都市に近い地域ではそんな事がまるで嘘のように感じられる。

 凶悪な魔物たちはほとんど駆逐されていき、残っているのは脆弱で無害に近い獣やそれに準じた下位の魔物達ぐらいだろう。


 そしてそれは名誉除隊の勲を授かり、老い先短い己の一生を保障された己自身も感じていることだった。


 老いた男は寝台の上、起き上がりもせず長く息を吐く。


 あの時以来、『白の翼』の存在は消されてしまったに等しい。部隊は再編されることもなく過去のものとされた。

 その理由は、もはや部隊を存続させる必要が無くなったからだ。

 確かに国内の造反者や反戦工作員の摘発に排除、敵国に対する諜報活動から偽装工作、破壊行為までをも統括する――王宮親衛隊という名をかたった特殊任務遂行の精鋭部隊は、他諸国との和平が成立した時点でその存在の意味を大きく失っているに近い。


 寝床から起き上がりもせず、そんないつもより長い物思いにふけっていた。

 もう高齢に差し掛かるだろう彼は、深く刻まれたしわで飾られた自らの顔を覆った。


 この歳になれば、朝起目覚めるのでさえ辛く感じてしまう。

 それに、今日はいつもに増して気分が悪かった。


 一年前まではまだ現役で、城内の訓練生たちを指導していたものだ。だが引退し、こうしてすることもなく日々を持て余してみると、自分がいかに老いれたかを感じさせる。   

 これまで考えもしなかった事柄をつらつらと思い浮かべてしまうのも、歳のせいであろうか。


 王宮親衛隊『白の翼』の最初にして最後の団長を務めた上げた男――“炯眼けいがんの大鷹”、“リーゲルスの英雄”などと呼ばれ、敬われそして慕われた元ルバルディア突撃騎馬隊の第7軍騎士団長レヴァンス・クロードは、その重い体を引きずるようにしてベッドから這い出た。


 今日は朝からやらなければならない仕事がある。

 仕事といっても国からの功労金で暮らす毎日だ、公共の仕事などがあるわけではない。それはあくまでも私事だった。

 しかし、今の自分にとっては何よりも重大な用件だった。


 ――もう、行ってしまったか?

 そんな懸念をふと覚え、レヴァンスは庭へと通ずる大枠の窓を引き開けた。


 独りで暮らすには余りに敷地の広いこの屋敷も、国から授かったものだ。

 その広い屋敷に見合う広々とした庭の一角、老いた一頭のためだけにこしらえた贅沢な馬小屋で、かつて戦地を共に駆った愛馬に餌の干草をやっている若い男の姿が見えた。


 その姿を確認して、レヴァンスはそのまま庭へと通じている引き戸をくぐり、寝巻き姿のまま構わずに芝生の上へと足を運んだ。

 そしてそのまま、男のほうへと歩いていく。


 広い庭を横断して男の元へと辿り着くだけでもそれなり労を要するが、今の彼にとってはそんな話よりも重大な事がこの先待っていた。


 男もこちらに出てきたレヴァンスに気づいたのか、鹿毛かげ色のその毛並みを撫でながらこちらを向いて待っている。


 レヴァンスは男と愛馬がいる場所のすぐ手前までへと至った。


 若く美しいと言って差し障りない男だ。

 真っ直ぐ流れるような長い金髪に、愛嬌のあるまるく大きな空色の瞳、太めのしっかりと形の整った眉。その表情から垣間見せる稚気のようなものと相まって童顔と錯覚してしまいがちだが、よく注視すればしっかりと成熟した男の色香もある。

 そう言った具合の、他人を惹きつけて止まない魅力的で端整な容貌の青年だった。


 レヴァンスは広く晴れ渡った青空のようなその瞳を見て、感慨深げに思っていた。あれは息子のラウスのものではなく、その妻であるイザベラ譲りのものだろうと。思えば息子が連れてきたその娘も、誰もがうらやむほどに美しかった。


 目の前にいる青年、それは彼の孫カイル・クロードに他ならない。


 いつもなら、カイルはこの屋敷にこんな朝早くからはいない。

 自分の跡目を継ぐかのように異例の若さで突撃騎馬軍の第7軍特務騎兵中隊の副長にまで出世したカイル。彼は城内での暮らしは元より、公務なりで忙しく、この家に帰ってくることはまずなかった。


 その彼が今此処にいるということは、それなりに特別な理由があるからだろう。

 そして、レヴァンスはその特別な理由を少なからず知っていた。


 だから、ただ一言をカイルに向けて呟いた。


「行くのか?」


 レヴァンスのその素っ気ない端的な物言いに、カイルは笑った。

 引き取って以来ずっと見てきた、人懐っこく他人を安心させる笑みだった。


 カイルは、笑いながら答える。


「いろいろ考えたんだけど、こうすることが一番だと思ったから」


 レヴァンスの主旨を含まないその言葉にも、カイルはなんの違和感もないようそう言葉を返した。

 彼がここに来たことは、別段レヴァンスと取り決めてあったことでない。だが長年面倒を見てきたレヴァンスは、孫が必ず自分の許へ顔を見せにくると予見していた。


 しかしカイルにもレヴァンスにとっても、もしかしたら今この場で行うこのような会話はまるで必要ないのかもしれなかった。

 微かにだが、二人ともが今何を思ってこの場にいるのか――それを互い察し合っている。


「それにさ、実は向こうでいろいろやらかしちゃって……実は、なんかもう隊にいるのが気まずくなっちゃったんだよね。参ったよ、ははは……」


 わざとらしく、高い調子の声で能天気に笑うカイル。


 幼い頃より育ててきた孫の性格を把握しているレヴァンスは、その笑い方が触れて欲しくないものを誤魔化す時に使われるということさえ知っている。

 だからレヴァンスは、したり顔でまだ何かを言いつくろっている孫の台詞を最後まで言わさず、重々しい咳払い一つで吹き払う。


「全部聞いておる。こんな屋敷にこもっていようとも、城内での出来事は嫌でも耳に入ってくるのでな」


 レヴァンスが“炯眼の大鷹”というその二つ名に恥じない鋭い眼光で自分の孫を睨みつけた。

 睨みつけられたカイルはと言えば、うそ臭い能天気な笑いから引きった苦笑いにその顔を変えている。


「あーっと……そ、そうなんだ。全部聞いてるのか。じゃあ、もう俺から言う事も何も無い……かなぁ?」

「ああ、全部聞いておる。お前が隊を抜けたいが為に隊員たちの前で上官であるロレンを罵倒し、殴り掛かるなどというくだらん『芝居』をうったいうこともな」


 さらに顔の強張りを激しくしているカイルに止めのように言って除けたレヴァンスは、そうして相変わらずふざけたような孫の顔色を覗きみた。

 ロレンとは、カイルが所属している第7特務騎兵中隊の正式な隊長であり、そしてカイルの直属の上官でもある。


「あー……やっぱね……」


 そう言ってガクッとうな垂れる仕草をするカイル。

 その一連の動作も間の抜けた滑稽なものだが、どこか愛嬌がある。それはひとえにカイルの生来の気質によるもの。


「くっそぉ……。じいちゃんにバラしちゃったのは、他でもないロレンのおっちゃん本人だな」

「馬鹿者が――あ奴ほどに嘘が下手な堅物がそうおるものか。人選を誤りすぎだ」

「まあ、確かに……人選については、俺も後から憂慮したけどさ……」


 口を尖らせて、何かぶつくさと言い訳をしている孫に対して、 レヴァンスはその眼光をゆるめることなく口を開く。


「あのロレンがお前のくだらん馬鹿知恵に協力したこともだが、なによりカイル、何故なぜ隊を抜けるためだけのことにそこまで回りくどいやり方をした?」


 身振り手振りを付け加えて弁解を始めようとしていたカイルを、しかしレヴァンスは真剣な表情で重々しく遮っていた。


「確かに立場としてそこまでの地位にある今のお前なら、そう簡便に隊を抜けるなどとできんだろう。しかし、そんなやり方をする以外にも方法はあった筈。お前自身が隊を抜けることを本気で考え至ったのならば、然るべき筋を通して出来たことだ。――何故そんな馬鹿げたことをした?」


 レヴァンスはずっと気に病んでいた。

 あの日――あの遠征の日、全滅した訓練生の中で唯一カイルだけが生き残ったあの凄惨な出来事のことを。


 そう、あの絶望的な状況下で、カイル一人だけが辛うじて生き残った。


 レヴァンスがあの森の奥深くまで到達した時、その目に飛び込んできた光景は、無数に転がる魔物達の死骸とその中心にいたボロボロになったカイルの姿だった。

 カイルはその腕に幼馴染のリュカのむくろを抱いていた。

 単純な孫の性格だ、レヴァンスにだってカイルがその娘に好意を持っていたことは知っている。そしてそれが如何いかむごいことなのかも。   


 心身共に傷つき切ったカイルはしかし、確かに生きていた。


 それはレヴァンスの必死の祈りが神に通じたからなのかどうか判断はできないが、しかしカイルはたった一人で生き残った。

 だが果たして、カイル自身にとってそれが幸運だったのか、それは何とも言いがたい。


 何故なら、あの苛酷な戦場の中、生きて仲間たちの最後を見送らなければならないという――そして次々と死んでいく仲間達から取り残されるという体験が、どれほど人の正常な精神を害する事か。百戦錬磨で様々な戦況を生き延びてきたレヴァンスはそれを知っているからだ。

 そんな状況に果たして精神的にも未熟なカイルが堪え切れたのだろうか。


 それは、レヴァンスに量りかねることだった。


 少なくとも表面的に見れば、カイルはその直後こそは確かにひどいものだったが、時間が経つにつれて普段の表情を取り戻していったように見えた。

 しかし、心に負った傷というものは目に見えるそれとは大きく異なるもの。目に見えるそれとは違い、その傷の度合いも治りも他者から判断することなどこの上なく難しい話だろう。


 果たして自分は、そんな痛みを抱えた孫に対して何をしてやれただろう?


 自分のような剣を握ることぐらいしか出来ない無骨漢に、そんな傷を癒すための手立てを何かしてやれたのだろうか。

 カイルはあの日、あの酷い出来事を経験してもなお、騎士団に入隊するという夢を諦めずに見事成就してみせた。

 そして、前例の少ないその若さで今の地位まで昇進してきたのだ。


 だがもし、それがカイル自信の意思ではなかったとしたら?


 妻に先立たれ男手一つでカイルを引き取って育ててきたようなものだ。

 自分のような騎士になる以外――国の名を背負って戦うこと以外できないような男に、両親を亡くした幼い子を確かに育て上げれるなど思っていなかった。

 自然とカイルもレヴァンスにならった生活を余儀なくされてきたのだろう。


 だがそれでも、カイルが自分も立派な騎士になりたいと言ってくれた時は心底嬉しく思った。

 騎士に育て上げたくてカイルに剣術や作法を教えてきたわけではなかった。だが自分にとって唯一の家族が、自分と同じ道を歩むことを決めてくれた事に、レヴァンスもまた人並みに喜んだものだ。


 しかしそれが本当に、カイル自身が思い悩み、それでもそう決心してくれたことでは無かったとしたならばどうか? 


 子供は親の背中を見て育つという。


 その親代わりが、ルバルディア騎士団の最先鋭だったとしたならば?

 もしかしたら自分はカイルに無意識に騎士になることを強制していたのではないか? 

 そんな無言の圧力が常にカイルを圧迫してきたのだとしたら? 


 ――そしてそれは、あの遠征の日より後からも変わらずにカイルに纏わり付いていたのではなかったのか。 

 だからカイルは騎士になることを諦めなかった。いいや、成らざるを得なかったのではなかろうか。


 レヴァンスがこれまで感じていたそんな不安が、一気に彼の内を駆け巡る。

 本当にカイルを傷つけていたのは他でもない自分であったのかもしれない。



 まだ朝靄の晴れない中、郊外の一角にある広々とした豪邸――その中心に設けられた広い庭で、二つの人影が長い沈黙を守っていた。



 カイルはその問いに直ぐには答えようとせず、ただ神妙な面つきで祖父の表情を読み取っていた。

 そのレヴァンスもまた、自ら口を開くことはない。


 彼は恐れていた。自らの過ちが今ここに至って確実となり得るのを。そして、そんな不安を今ここに至って覚える自分を恥じていた。

 カイルが生きていたということに安心しきって、その後は何もしてやれなかったどころか、自らがカイルを圧迫していたかもしれない。

 カイルの痛みはそれ以降も続いていた。――いや、それ以降のほうが遥かに辛かったであろうにも拘らずだ。



「……じいちゃんには、まだ話していないことがあるんだ……」


 唐突に、何の前触れもなくそう切り出した。


 その切り口に、レヴァンスもまた体を強張らせるように身構える。遂に、自分の過ちを認めざるを得なくなったことを確信した。

 そして果たしてその時、自分は何と言って孫にびればいいのだろうか。そういう思いと同時に、謝罪の類や自責の念などを今になって打ち明けたところでは何にもなるまいと――そうも自覚していた。


 許されることのないという罪の意識、何よりもそれを背負うことこそ己ができる唯一の贖罪しょくざいの形だろう。 


「俺には、やらなきゃいけない責務が一つだけある」

「責務?」


 カイルは一呼吸おいてからそう言葉を紡ぐ。

 レヴァンスは予想していたものとはまったく違ったその言葉に、思わずいぶあしげな声を返す。 

 

 しかし、カイルはただその空色の瞳を遠くへと向けるようにして、まるでその先にあるものを見極めようとするかの様に――あるいはその先にあるものを知っていても尚見つめることを止めないかの様に、ただ表情を揺らめかせる。

 その瞳は、幾重もの感情が折り重なってできた独特な色合いを示していた。

 それが哀しみ故なのかどうかを判断できる術を知らぬレヴァンスは、ただ目の前の孫の次の言葉を待った。


「俺が果たさなくてはならない責務……それは何の変哲もないごく当たり前の事なんだ。ただ『生きる』ということ」


 吐き出されたその言葉は、自分や他の誰が吐き出すよりも深く心の内に響いてくる気がした。

 その理由を少なからず理解しているレヴァンスには、自身が言葉を口にする権利もないように思える。


「誰もが当たり前に享受できて、誰もが平等に権利を持っているように思えることなのに……幾つかの命は、それを果たすことができずに終わってしまうんだ」


 カイルのその悲痛とも取れる呟きに、レヴァンスは更に自らの拳を握り締めることしか出来なくなっていった。

 今の自分に――背負うべき罪を目の前にした自分に、今ここで何を言うこともできない。ただその事実を受け入れる。


「だから、初めも俺は憎んでいたんだ。誰もが当たり前に手に入れられる幸せを、何の躊躇いもなく奪っていく存在を……。そして、それが憎かったからこそ、俺は今までやってこれたんだと思う」


 カイルの言葉はそこで一旦止まる。

 その言葉の内には、何故だか少し自嘲気味な響きを含んでいる気がした。


 レヴァンスはそんな孫の顔を見やったが、その表情を何と言って表わせばいいのか判らない。

 ただ、幾つもの感情がその胸の内を巡り、言葉にできないそれらを自分の中に留めておこうとするかのような――そんなどうしようもできない程切なく、それでも穏やかな表情だった。


「それが理由。俺の果たさなければならない責務と一緒に芽生えた、俺が剣を振るい強さを追い求めていた理由だったんだ」

「理由、だった?」


 その言葉に思わず反応を示す。


「俺はもう剣を振るえない……その理由で剣を振るっていく事ができない。――じいちゃん、俺さ……わかんなくなったよ……」


 呟くように、そして問いかけるように、カイルの声は少しだけ震えていた。

 強い迷いとそれと同じくらいの強い思いが平行した不明瞭な感情、しかしそのけ口はレヴァンスに向けられたものではなかった。


「この先ずっと憎しみを持って戦うことが、本当に俺が今ここに『生きる』という事に繋がっていくのか……わかんなくなったんだ……」


 カイルはやり切れないように顔を歪めた。「一体何を?」というような疑問も差し挟めない程に強く、そして悲しい声と共に。



 また、短くない沈黙が場を覆う。



 レヴァンスは目の前の孫が一体何にこれほど迷い、そして追い詰められているのか、今ひとつ掴めずにいた。

 それでも今この瞬間も何かに挑み、必死で答えを出そうとしていることだけは感じ取っていた。


「俺はいつだって、強く在ろうとしてきた。それは、なんのはばりもなく奪われていく命たち……それを護り、戦うことが騎士としての役目だったから。それは解っているんだ。でも俺には『誰かを護る為に、誰かを殺していく』ということが、本当の意味での俺の歩んでいくべき道なのか……判らなくなったんだ……」


 無慈悲に殺められ、蹂躙じゅうりんされる民を守るために剣を振るうことは、国を背負って立つ騎士としては当たり前の行為だ。それが判らなくなったという事は、つまり騎士として、兵士として国のために戦うことができなくなったということだろうか。

 そうレヴァンスは思い至った。


 が、しかし――

 カイルの言葉の奥のそのさらなる奥にはまだそれだけでは言い表せれない何かが有るように感じて、返答出来ないでいた。


「あの時、あの遠征での出来事……。俺は一瞬にして、何よりも大事な仲間たちの……リュカやアッシュたちの命を目の前で奪われた。だから俺は、二度とそんな理不尽を許さないために強くなろうと思った。二度と失わないで済むよう、二度と自分の無力さに泣いて、自分の弱さに絶望し、自分を見失うことのないように。

 それから、そうじいちゃんみたいに――国に生きる全ての命とその平穏を護るために戦い、そしてその重さを背負いながらも決して歪むことなく、折れ曲がることなく真っ直ぐに立っていられるじいちゃんみたいに、俺はなりたかったんだ」


 カイルはその真摯な眼差しを正面の祖父に向ける。

 その瞳の揺らぐことのない輝きは、それがカイル自身からあふれる全てだとも取れるほどによどみなくんだ色合いを見せる。


 レヴァンスは少しだけ狼狽うろたえていた。まったく自分の予想とは違っている孫の言葉一つ一つに。

 そして同時にそれらの中に、目の前の孫が宿す只ならない何かを垣間見た気がした。


「じいちゃんはあの遠征の事を全部自分のせいだなんて思って……そのことで自分をひどく責めていたけれど、そんな事はないよ。じいちゃんが罪の意識を負うことなんてないんだ。ただ罪があるとするなら、弱かった俺が……救うことのできなかった俺自身が……全ての責任なのかもしれない。

 だから俺は、俺がそう望んで剣を取ることにしたんだ。小さい頃から見てきた、じいちゃんのように強くありたいと願ったから。もう目の前の理不尽を繰り返させないだけの力をこの手に欲しくて……俺は騎士として戦うことを選んだ」


 カイルの言葉はどこまでも淡々としている。

 まるでそれは罪を犯し、その罰を甘んじて受け入れることを望んだ虜囚のような、どこか達観した表情であった。


 レヴァンスはそのことに大いに驚く。


 それは他ならないレヴァンス自身の、あの遠征からの数年間の心持ちと全く同じであった。そして少なからず、自らの胸の内をカイルが読み取っていたことにも関係していた。


 レヴァンスは無意識に緊張し、乾いていた喉の張り付きを押し込めながらも、静かに口を開いて返す。


「……それは違うぞ、カイル。弱さは決して罪なのではない。それを罪だというのなら、我らが成し遂げてきた騎士の役目――弱き者の盾となり、そして力無き者たちの剣となることの意義までもが亡くなってしまう。我らはたとえ弱く無力な人間であっても、当たり前に生きられる世界のために闘ってきたのだ。あの日、力が及ばなかったお前だったとして、誰がそれを罪ととがめるものか」


 言葉の端々に悲痛さを感じさせるレヴァンスの口調にも、カイルは変わらぬ穏やかさでたたずんでいる。

 その姿がいつも以上にもろく見えて仕方がなかった。


「わかってる。じいちゃんや団員の仲間たちがその理想にじゅんじていることも。でも……いや、だから俺はわからなくなってしまったのかもしれない」


 カイルはそう同じ言葉を繰り返した。


「この先ずっと自分の守るべきものの為に、何かを壊していくこと――命を奪っていくということが」


 カイルからこぼれ落ちるように呟かれたその言葉をレヴァンスは聞き逃すことはなかった。

 その刻まれた皺の数と同じだけの強い覚悟を胸に刻んできたこの老兵は、自身の孫の多くの痛みを孕んだその一言に先細った感情の端に鋭く胸を刺され、ただ見つめ返した。


「俺はさ、じいちゃん……あの日失ってしまった皆……アッシュ、リース、カルム、ラッグス、ラズ、ウィンネル、そしてリュカ達の為にも……決して中途半端な覚悟で剣を振るい、殺めていくことはできないんだ。俺自身のためだけじゃない。みんなの為にも、俺は……俺のこれからの全てを精一杯に胸張って“生きたい”んだ。

 だから隊を抜けようと思った。ここ数年、人の住む土地を伐り広げていくため……遠い辺境まで追い詰めた魔物たちを、さらに駆逐するための軍を興している現在いまの騎士団に……確信が持てなくなった」


 レヴァンスはその苦しみに揺れる孫の表情を――そしてその言葉の意味するところを察して、言葉に詰まった。


 彼はルバルディアという国に仕えてきたこの五十年を振り返って、自身の任務に、忠誠に、一度の躊躇ためらいを覚えたことは無いとは言えない。それでも、それらを補って余りある己の信念を持ってきた。

 だからこそ『白の翼』という、特別な任務を与えられる精鋭達の先頭としての職務を遂行できた。レヴァンスに命じられる役割は一般の兵にあてがわれるそれとは違い、その内容が真っ当であり、人道や正道に沿っているとは言えないものも多かった。しかしそれでも、国のため、忠義のため、レヴァンスは自身の感情を殺しながら任務をこなしてきた。

 ただ国の誇りと、守るべき民のために。


 だからカイルの発言に心をにじませた。


「カイル、お前が今抱えている迷いは理解できなくもない。だがそれでも、自分が守ると決めたものの為には、不条理な選択をしなければならん時があるのだ。それに、お前は奴らを……」


 許すことができるのか――

 そうレヴァンスは続けるつもりだった。


 だがその言葉を吐き出すよりも早く、カイルはかぶりをふった。


「わからないよ。……はっきり言って、俺はまだあの時のことを清算できずにいる。きっと、まだ俺は憎んでいるんだと思う。この先、許すことができるのかなんて……わからないんだ……」


 カイルは俯いてしまっていたその顔を上げ、目の前の祖父を再び見つめ直した。


「でも違ったんだ、じいちゃん。そうじゃなかった。俺が迷っているのはそういう事じゃないんだ。隊に入って、色んな場所を渡り歩いてきて、色んな戦いを切り抜けてきた。そしてようやく、気づいたんだよ俺……同じだってことに」


 伝わってくる声は儚くも取れたが、噛み締めるようにその口調は確りとしていた。そうして言葉を続ける。


「俺たちと同じだってことに。憎んで、恐れて、牙を向いていたのは……片方だけじゃない。どちらでもあるんだって事に……気づいてしまったんだ」


 いつの間にか、レヴァンスを真っ直ぐに見つめるカイルのその瞳に、うっすらと光を反射する雫が留まっていた。その瞳を盗み見るまでもなく、カイルの声は震えていた。


「俺達が剣を構え振り下ろすのも、魔物達が牙を向き襲い掛かるのも、……結局一緒の理由だったんだよ。俺達も魔物も怯えていただけなんだ。ただよく分からないお互いの存在に。自分たちが生きるために敵を滅ぼそうとして、牙を向いているのはどちらか一方じゃない。どっちも一緒なんだ。そう思った時、俺は……構えた剣を振り下ろすことができなくなったよ」


 やり切れないという表情で再び顔を少しだけ俯かせるカイル。


 今この世界では、それまで争いあっていた人類がようやく統一された理想を掲げ、人類の安寧な生息圏の拡大を図っている最中だ。

 そんな世界の流れの中で一人の若者が、その胸に滞る幾重にも折り重なった強い迷いと強い意志に秘められた感情を吐き出せた瞬間だった。


 レヴァンスは魔物や敵国の兵を斬り捨てることに、これほどまで強い思いを込めていたことは無かった。それは一個の生命を奪うという大それた事と自身の役割とを秤にかけた時、吊り上がった方を自らの手で捨てさるという――片方を麻痺させ、考えないようにしてきたという事に他ならない。

 それをレヴァンスは無意識の内にやってきたのかもしれない。


 だがそれ自体の責めを後に受ける事になろうとて、戦いの最中にそれらを引っ張りだすことはしない。何故なら、たとえそのことが大罪であるとしてもレヴァンスは望んでその道を歩むであろうからだ。

 この男は、一人でも多くの民が平穏に暮らせる日が来るならば、自ら進んで咎人とがびととなることを選ぶ人間だった。


 しかしそんな老騎士の孫は、それではいけないと口にする。

 命を護るために命を奪うことが、本当の意味での正解ではないと。


 その言葉にレヴァンスの心はひどく揺らいだ。


 己の理想を胸に――国の安泰のため五十年という時間を費やしてきた。

 それを真っ向から間違っていると否定する若い存在が今こうして目の前にいる。その青年の言葉が、この老いた騎士の心中を波立たせているのだ。

 だが、彼が今まで築き培ってきたものが崩れることはなく、またその言葉の端々、細部にまで亘って受ける印象は決して不快なものではない。

 むしろレヴァンスにとってのそれらは、心地良いものとして感じられた。


 それは、その思いをぶつけてきたのが自身の孫という存在だったからであろうか?


 ――いいや、違った。


 きっとそれは、その思いの丈をぶつけてきた人物のその瞳があまりに熱く、あまりに強く、そしてあまりにも真っ直ぐ彼に向けられていたものだったからに他ならない。

 その奥底から湧き出る熱を感じたレヴァンスは、感応して込み上げてきた自分自身の思いの欠片も肺に溜めていた空気と一緒に長い息で吐き出していた。


 レヴァンスは少しずつ理解し始めていた。


 そして理解していく内に、この目の前の男に尚も問いたださなくてはならないことがあると悟った。それが、彼の親としての最後の務めだったから。


「お前の言い分はわかった。だが、一体どうするというのだ? 生命とは等しく、周りの他の生命を犠牲にした上で成り立っていく。その事実は易々と何かに取って代えられるものではない。お互いの一切を侵蝕しないで済む共生や共存といった、机上の空論がまかり通るものでもあるまい」


 レヴァンスは問うた。――できる限りの厳しい口調で。


「わかってる。俺の言っていることは、そんなに簡単に答えを得られるようなものじゃないって。それでも見つけ出すための手立てを放棄したくはない。このまま諦めてしまいたくはないんだ。俺の考えは甘いのかもしれない。自覚できていないだけで、相変わらずに浅はかなのかもしれない。だけど自分の出来る限界までは、俺の思い描く最大限の理想を――俺に歩める最良の道を選びたい」


 長い言葉が流れ、カイルの意気もそれに乗って加速する。


「じいちゃん、俺はさ……強く――本当の意味で強く在りたいんだ。失ったかけがえのない人達のため、自分の弱さや愚かさに後悔を残したくない。俺はもう、自分の無力さに囚われて大切な何かを失いたくない」


 朝もやの庭園にカイルの声が朗として響き渡る。


 その声に含まれるのはまるで相反するもの。弱さと強さ――どうにも出来ない心の脆さと確固たる志だった。

 相容れぬ筈のそれらがカイルの内にしっかりとした根を張って成立している。


 レヴァンスはそれら整然とならず不恰好に吐き出されるそんな思いの丈だけで、満足だった。

 嬉しくもあった、眼の前の存在が。

 その人物の無限に拡がり蓄えられていくものが。


 レヴァンスはその孫の姿にふと、息子のラウスの影を見たような気がした。

 自分はラウスのことを軟弱な気質だと思い込み、騎士たる者の子ではないなどと考えていた時期があった。

 だがそれは違ったのだ。

 ラウスも、その子供であるカイルも、本当は心の奥底に計り知れない程の力を秘めていた。それは上辺だけ撫でていれば気付きもしない小さな出掛りに見え隠れしている。しかし本当に必要な時、それは本物となり得るのだ。


 その気質をカイルが受け継いでいてくれることが、ラウスの存在をこの世界に繋ぎとめていてくれるようで――

 レヴァンスはたまらなく感じた。たまらなく誇らしく感じた。


「本当は自分でも、俺の思う考え方が正しいのかなんて見当も付いてないんだ。自分の全ての思いを上手く整理できてるワケでもないよ……。本当はまだ、地に足すらついてない考えのかもしれない。だからかな、隊を抜けようと思い至った時でさえ、俺は直接じいちゃんに話しするのが怖くてさ。不安になってさ。……はは、出来れば何も言わずに旅立とうとまで考えてたんだ」


 しばらくして、激情が去り頭から熱が引いたのか、カイルの表情は泣き果ててすっきりとした時のようなものになっていた。

 晴れやかさと若干の恥ずかしさを含んだ、そんな表情を見せている。それはどこかカイルにお似合いの顔と呼べた。


「それで馬鹿げた芝居をうったというのか。お前というヤツは……」


 カイルは祖父のそのいつも自分の馬鹿げた失敗を呆れたように叱る口調に、同じく自身が叱れた時に見せるバツの悪そうでいて、それでも明るい顔を見せて返した。



 またしても、長い沈黙がその場を覆う。

 だがそれは決して先程までの重苦しい沈黙などではない。



 そして――



「行くのか?」


 再び、同じことを訊ねるレヴァンス。

 だが今度のそれは、これまでにない程晴れ晴れしい気持ちで言葉がついて出たものだ。


 また少し、間が空く。


 カイルは熱くなった目頭を拭うようにしてから――


「うん。じいちゃん、俺行ってくるよ」


 そう言って笑った。


 その笑みはいつものように純粋で暖かく、彼――レヴァンスの宝とでも言うべき何にも代えられないものだ。

 不思議と誰もが意識することなく安心してしまえる、そんな笑み。


「そうか、気をつけて往け」


 そう言うと、あっさりと背を向けて来た道を戻っていくレヴァンス。門出を祝う言葉も、別れを惜しむ言葉も、奨励の言葉も、全て必要なかった。

 大丈夫、大丈夫だ。

 カイルがああやって笑えるなら、大丈夫に決まっている。そう信じているからだ。


 レヴァンスは歩きながら、胸に込み上げてくる熱いものが血液に乗って体中を行き渡っていく感覚を覚えた。

 それを言葉でなんと表現したらよいものか、はっきりとは言い表せない。

 ただそれはとても心地良く、とても暖かいものものに感じられた。


 ゆっくりと離れていく祖父をしばらく見守っていたカイルもまた、その足を別の方向へと向ける。 

 わかっていた。言葉はなくとも。

 それは、この世界でもっとも近しく、かけがえのない家族という存在同士だからに他ならない。


 小屋の中で、レヴァンスの愛馬だけが、違う方向に歩んでいく二人をただ交互に見続けているかのようだ。



 朝靄はすでに晴れている。

 露を乗せた庭の草々に朝日は差し込んだ。

 離れていく二人は振り返ることはない。

 それでも、日の光は二人に同じく降り注いでいく。




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