第3話



 薄暗い木立の中をレヴァンスは馬を走らせている。

 軍馬のいななきと、乱れた呼吸音、そして土砂を蹴るひづめの鈍い音以外にはまるで響かない静寂の只中を。


 森の中は今まで走ってきた街道沿いとは違い、魔物や兵士の死体であふれかえっていることはない。

 ただ深い静寂と闇が辺りを支配している。


 街道沿いには生存者が見当たらなかった。

 何一つ動くことのないむくろがただ累々るいるいと転がっている様子。それは否応なしにレヴァンスの心中を掻き乱した。

 本当はそんな光景から精神の一部が目を背けたかったのかもしれない。

 だがともかく、街道付近や目立った平地や丘などに生存している者の気配が全くないことから、もしかしたらこの森の中に生き残った兵士たちが逃げ込んだかもしれないという考え至った。


 入り組んだ木々の中であっての身動きのしにくさは、むしろ魔物の方に大きく負荷をかける。

 そう考えた兵士たちがこの深い森の中へと退いた可能性は高い。

 生き残った兵士がいるなら、その正規兵達が候補生達を連れていることがあるかもしれない。


 そんな自分自身、都合の良い話だとは割り切っていたとしても、今のレヴァンスには魅力的で現実味のある考えだった。


 降りしきる雨のせいで、不定形な地形の連続する森の奥はまるで人の侵入を拒むような造りとなっている。

 それでもレヴァンスは暗い森の中、雨の音にかき消されそうな程の小さな物音でも聞き逃すまいと神経を尖らせて手綱を引く。
















 目の前には、金色に輝く獣。

 月の光を受け、眩い光彩を放つかのようにも見える流麗なる体躯。

 そして同じくかげった月のように、黒に縁取られた深い色合いの黄金の瞳。  

 その瞳にカイルは釘付けられた。


 月――

 一体いつ雨は止んだのか。


「今、お前が感じた絶望――その感情こそがお前をさらなる『生』への過程へと導く。全てが終わりを告げたからこそ、全てを始めるに値する。お前が失ったあらゆるものは、今ここより始まりとして自らの内へと蒔くことで、その揺るぎ無い思いを残す事となろう。だがそれを決めるのは他の誰でもない、お前自身だ」


 目の前の巨大な狼。――いや、狼の姿をしたそれがカイルに語りかけていた。


 カイルは呆然とその様を見続ける。

 さっきまで目の前にいた歪な魔物たちは何所に行ったんだろうか? ――その内でカイルはそんなことを考えていた。


 果たして、ここはもうさっきまでの世界ではないのだろうか。

 

 ここは死後の世界か。

 全てが反転した世界なのか。


 そんな世界で出会った、おそろしいまでに神々しく美しい獣。


 そんな獣がさらに語りかける。

 一切のよどみも感じさせない透明すぎる声で。


「さあ、選べ。お前の世界はすぐそこで途切れようとしている。その崩れ行く世界と共に、お前に向けられたあらゆる希望を内に残したまま消え行くか。お前に託されたその思いを全て形にするために、苦難と後悔の道のりをここより始めるか。それは、お前にしか選べぬこと」



 カイルにはその獣が語りかける内容がよく解からなかった。いや言葉の意味など頭に入ってこないのだ。


 頭が混乱している。


 そもそも、どうして巨大な狼が自分に喋りかけているのか? 

 それより何より、どうして人間の言葉を喋れているのだろか?


 カイルはもはや自分が正気ではないと、一切の小波もたたない湖面のような静かな瞳に見つめられ、その事を知った。


 獣は言った。

 選べ、と。

 

 一体なにを選択できる権利があるというのだ。

 自分には選べる選択肢も、選ぶ理由もない。カイルが望むのは終焉であり、それをもたらす為にこの獣は到来したのではないのか。


「もしお前が、再び歩き続けることを望むのであれば、私はお前にその内なる思いと同じ数だけの『チカラ』を与えてやれる。そして、それを以てお前が何を成し得るかを見定めよう」


 相変わらず、目の前の獣が何を言いたいのかは解からない。

 それでもカイルはその神々しい黄金の瞳を見つめ返した。


 そして、ようやく自らの口で言葉を紡ごうとする。

 まるで何年も口を開いてなかったかのように、喉は張り付き渇いていた。喉が潰れるほどに叫び、泣いていたからだろうと、内心で納得した。


「チカラだって? ……そんなものは欲しくない。あんたが神だろうと、悪魔か何かで俺の魂が目当てだろうと、どうだっていい。ただ出来るのなら……そんなものより、俺の全てをあんたに差し出したっていいから……リュカを……みんなを生き返らせてくれ!」


 かすれる声を押さえ込んで、カイルは目の前の獣に叫んだ。


 そう、もし叶うのなら自分の全てを差し出すから奇跡を起こして欲しかった。

 終焉を望んだ心に、カイルの生の感情が湧き返る。

 時間を巻き戻してでも、失ったものを取り戻したかった。それがどこまでも都合の良く身勝手なものだとは、自覚していた。


 獣はその瞳に相変わらずの静寂さをたたえたまま語りだす。


「それは不可能だ。そして、もし可能であったとしても、彼らはそれを望みはしない」


「彼らって誰だよ……? 俺が望むだけじゃ足りないのかよ?! 俺がいま、全部を差し出すっていってるんだ! あんた悪魔だろうと神だろうと、それで十分じゃないか! 俺はもう生きたいなんて思わない! だから代わりにみんなを生き返らせてくれっ! 俺の命一つじゃ足りないっていうのなら、せめて……せめてリュカだけでも……!!」


 自分があまりにも無茶苦茶で、馬鹿げた理論で言い立てているのは知っている。

 けれど、ここはその無茶がまかり通る世界なのだと思っている。――いや、願っている。

 何故なら狼が自分に話しかけているのだ。それが無茶でなくなんだというのか。



「お前が今、そうやって心から救いたいと願っている――”彼ら”だ。その強い願いが私をここへと誘った。だからこそ、それは叶えられぬ」


 しかしそんな不条理な世界で、獣はカイルのその甘い願いを打ち破る言葉を口にした。


 カイルはその言葉を聴き、愕然とし、そして次に自嘲した。


 この獣がなにを言っているのかをはっきりと知った訳ではない。それでも、その言葉に含まれた意味合いを読み取ることはできる。

 つまりどんなふざけた世界であっても、そんな甘えた戯言は通らないということ。



「何だよそれ……! 俺は……俺はこんなトコに来てまで、また皆に救われるのか? 救いたいと! 守りたいと願って! それすら叶わないのに……俺はまた自分だけ……皆を犠牲にまた自分だけが助かれっていうのかよ!?」


 たとえどうあってもこの絶望と後悔が晴れることはない。それこそが自分の贖罪しょくざいなのかもしれない。

 しかし、カイルはそんな風に全部を達観しきれないでいた。



「お前が本当に望むものは何だ?」


 黄金の獣が憂いにも似た表情を見せて囁きかける。考えれば考える程おかしな話だ。目の前の狼に表情などあるはずもないのに。

 それでもカイルはその獣の表情が見えた気がした。


「本当に望むもの? 何を言ってるんだ……」


 怪訝に声をあげる。しゃがれて聞き取れないような茫然とした声を。


「お前が望む失った世界とは何だ? お前が取り戻したいと願うその世界に、自らの存在を含めていないのは何故だ? お前が望むその世界には、初めからお前の居場所が無かったのか?」


 居場所――

 そう目の前の獣が語った言葉に、息を呑んだ。


 自分は居場所を求めて、あの大切な時間に戻りたいがために、こんなにも必死になっているのではないのか。

 あのかけがえの無い世界、馬鹿らしいほど楽しくて愉快な毎日、自分が取り戻したいのはそんな当たり前だった毎日だ。


 そしてそれは、他でもない自分自身のため。

 どこまでも傲慢な願望。しかしそれがカイルの――いや、人間としての根本たる願望だ。存在を確立するためのかけがえの無い要素。カイルにとってそれが仲間たちであり、リュカだった。



「……でも……でもっ! 俺のせいなんだ!! 俺が弱くて、浅はかだったばっかりに、みんなを失う結果となったんだ! それなのに、自分だけが生き延びるなんて……!!」


「お前を救うためにその存在を費やした彼らは、お前の死を望んだのか?」


 その言葉はあまりに卑怯だった。

 少なくとも、今のカイルにとって。


 どこまで冷静で、無機質なような声がカイルを揺さぶる。

 こんな非現実な世界で、非現実な獣の言葉が、カイルの心の内の真実を照らし出していた。


 今、ほんとうに自分がやらなければならなかったこと。

 それは悲しみの慟哭どうこくを上げ、自らの無力さにひれ伏すことではなかったのだ。


 そう、生きるということ。


 リース――

 カルム――

 ラッグス――

 ラズ――

 ウィンネル――

 アッシュ――

 そしてリュカも。


 全員が必死に仲間を守って生きるということを放棄しなかった中で、自分だけがそのことを最後の最後で放棄していた。

 諦めてしまっていた。


 誰もが必死だった。自身を省みないほどに。自分も仲間も含めて生き延びるために戦っていた。

 その思いはカイルだけのものではない筈だ。


 しかしその思いが遂げられないまま倒れていき、そして結果、最後に残ったのはカイルだった。

 にも拘わらず、最後に残ったカイルはそれらの思いを引き継ぐことをやめてしまった。


 それこそがカイルの罪。

 自分ひとりだけ、投げ出してしまったのだ。



 ようやく、カイルは自らのその罪を知った。



 何一つの感情も読み取れない声でカイルのその真実を暴いた獣は、やはり一切の澱みを持たない響きで同じ言葉を繰り返す。


「さあ、選べ。お前の世界の終わりはすぐそこまで来ている。お前に託された幾つもの思い、全てを無駄にするか、全てをその内に受け止めるのか。それはお前自身の問題だ。たとえお前が世界の終わりを選んだとして、その選択に何者も干渉することはない。全てはお前自身のこと」


 悲しみと絶望は絶えずカイルの中を周回している。

 それでもカイルは、何より自分が描いた最大限の希望を思い出していた。


 全ては終わったからこそ全てを始めるに値すると、その獣は言った。

 ならばリュカやアッシュ達のことも全て忘れて、新らたなかけがえのない仲間を見つけ出すということなのか? 

 ――いいや、それは違う。


 カイルはようやく思い至った。


 彼らの思いを継ぐということが何よりも、彼らを生かすことになるのだと。

 彼らの思いを無駄にすることこそ、彼らの存在を――その思いを――殺してしまうということを。


 そんなことは解っていた筈だったのに、自分は悲しみと苦しみに耐え切れず、こんな世界で出会った不可思議な獣にそのことを思い知らされた。



 だからカイルは再び描いた。

 彼自身が一番だと思う希望の在り方を。



 そして、世界は再び反転する――



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