第2話


「リュカ……リュカ! ああ、どうしてっ!?」


 目の前――自分の腕の中で幼馴染のリュカティアが血だらけの顔を辛そうに歪めて、それでも微笑もうとしてくれている。

 カイルは自分より少しだけ年上のその少女の体を抱き締めるかのようにして、声にならない嗚咽おえつを漏らす。

 リュカは自分の腹部を左腕で押さえながら、右腕をカイルの頬へと伸ばす。押さえられた腹部からはおびただしい量の血が流れていく。

 その血が少女の内にある命の量だということに瞬間、カイルは気づけずにいた。


 ただその血だらけの片手を握り締めながら、カイルは目を見開くことしかできなかった。


「逃げて……カイ……」


 リュカの口元が微かに動き、そう言葉を紡ぎぐ。そうしてまた、弱々しくではあるが苦痛を堪えて精一杯に微笑んで見せる。


「わたしは、だいじょうぶだから……カイは早く、逃げて……」


 そう言ったあと、耐え切れなくなった痛みに少女は顔を歪ませた。

 息は荒く、その呼気の一つ一つがカイルの心中を切り刻んでいく。


 と、瞬間――


 より一層近くで聞こえた甲高い金属音に、カイルは反射的に顔をあげた。

 そこに鈍い光沢の鋼色の背中が映し出される。だがそれよりも、カイルはその鎧を着た背中越しに見える巨大な影に目が釘付けられた。


 それは見たこともない異形の怪物だった。

 人間に限りなく近い体躯、しかしそれは背の高い木々が並ぶこの森の中であってもまるで退けを取らずに圧迫感を有する。その巨体の上に乗っかる顔のようなものは、まるで人の顔であって人の顔でないものだ。

 髑髏どくろと形容すればいいか。人間の頭蓋骨から肉だけを全て削ぎ落とし、皮だけを貼り付けたようだ。そして無論、人のそれよりも何倍もの大きさを誇る。

 

 ――魔物――


 瞬時に思い至ったカイルの頭の中で、ようやく閉ざされていた空間が、動かなかった時間が流れ始めた。

 状況が錯綜さくそうする中、カイルはまたしても途切れそうになる思考を必死で巡らす。


 巨大な骸骨がいこつの魔物に対峙し剣を構えているその背中に、カイルは見覚えがある。それは親友のアッシュのものだ。

 背が高く、いつも落ち着きがあって、級友たちの中でも抜きん出て剣技の才があると大人達から褒められていた。

 その頼もしい背中はしかし、異形の怪物を前にじりじりと後退せざるを得ない。


「アッシュ!」


 カイルはその背中に叫んだ。自身の頭はまだ混乱していたが、それでもその親友の見るに耐えない状況に対して咄嗟とっさの声を上げていた。


 片腕の中に血まみれの少女を抱いたまま立ち上がり、無意識ながら手に握っていた剣をアッシュの肩越しにいびつな魔物へと向けて構えるカイル。


「なにしてる! 早く逃げろっ!」


 だがカイルの行動は目の前のアッシュの鋭い一喝によって止められる。


 アッシュは顔半分だけをカイル達に向けて、その険しい表情を垣間見せた。骨太で精悍せいかんな造りをしていてもどこか茶目っ気があった親友のその顔は、今までに見たこともないほど切迫したものとなっていた。

 雨に濡れたこげ茶色の髪から滴っているものにはきっと、自身が流す冷や汗も混じっている事だろう。


 にも拘わらず、彼の声の調子には一片の悲壮感や不安感が漂わない。

 この状況の中で一番冷静であり、何を優先すべきかを心得ている人間のものだ。


 しかし、その精気のある言葉とは裏腹に、目の前で魔物から自分たちを遮るように立ち臨んでいる親友の姿はどう見ても危うい。

 分厚いはずの鋼鉄の甲冑は、側面の脇腹の辺りから腰に向かって引き裂かれており、そこから流れた血がアッシュの右足の布地を黒く染め上げている。体中のそこかしこにも同様の深い傷があるのではと思わせる程、憔悴しょうすいした血の気のない顔色だった。


 自分の腕の中の血塗ちまみれで横たわる幼馴染の少女、自分の目の前の傷だらけで疲弊しきった親友の背中、そして奇怪な呼吸音のようなものを発してこちらににじり寄ってくる巨大な化け物。

 その光景を見て、ようやくカイルの中の空白が完全に取り除かれる。


 そう、この不気味な化け物の存在が全てを物語っていた。


 魔物討伐軍への参加という、城内で訓練ばかりをやらされ、退屈していた若き兵士候補生たちにとっての最高に胸躍るような実地演習。

 それをあまりにも気楽に考えすぎていた罰なのか。訓練生たちにとってはいつもより刺激的でより本格的な演習だったそれらが、過酷極まりなく、情け容赦ない実戦へと変貌した。


 いや、戦闘ですらなかった。


 始まりにず、彼らを引率する側だった教官たちがこの化け物等に喰らい殺された。

 カイルたち訓練生はその悲鳴と怒号で、この化け物たちの襲来を知ったのだ。


 その後は酷いものだったとしか形容できない。訓練では剣を振れても、いきなりの襲撃――しかも、自分たちを指示してくれる人間は真っ先に殺されていた。

 そんな中で、資料にすら出てこない異形の魔物たちと渡り合える訓練生など数えるほどもいなかった。


 目の前の不気味で奇怪な化け物。それらは少なくともルバルディア周辺、いやもしくはブランスタ大陸全土ですら未だ確認された事のないかも知れぬ、一切が未知の種族であった。

 この未知という事態こそが人間を一番恐れさせる。

 いかに強力な魔物といえども、その生態を知って研究をすれば対応できる手段を見出せる。

 だが全くの未知の存在とは、それ自体が恐怖を呼ぶのだ。


 そんな魔物が何故こんな街道近くに出没したのか。教官達の話では、討伐する魔物が蔓延はびこる地点まであと一日は掛かる強行軍だと言っていた。なのに何故こんな人の手で開拓され整備されている地域に凶悪な魔物が。 

 それすらカイル達には解らない。


 いつもの馴染みの級友たちと他愛ない話ではしゃいで、教官たちに叱られていた。彼らにとってこの遠征は楽しくてスリルある訓練でしかなかった。

 馴染みの級友たち、みんないつもはふざけてばかりいるがとても気心の知れた良い奴ばかりだ。

 アッシュだけではない。リースにカルム、ラッグスに、ラズやウィンネル。それに祖父の都合で小さい頃から城にばかり預けられていたカイルと、まるで似たような境遇の幼馴染の少女――リュカ。


 幼い頃、騎士になると豪語したあの日。

 リュカは自分の事をおっちょこちょいで直ぐ調子に乗るから心配だなどと言い、挙句には世話焼きの癖で自分も救護兵として入隊するなど言い出した。

 そして、カイルが訓練生となった頃には、年上だった彼女は正式な救護班員として軍に付属する毎日だった。


 そのリュカが今度の遠征にも参加していると聞き、カイルは浮かれきっていた。

 その事をアッシュたちに冷やかされもしたが、城の訓練で辛楽を共にしてきた仲間たちと幼馴染の少女――家族にも似た存在たち。


 だが、そんなかけがえのない仲間たちは、突如として現れた化け物によって無残にも殺されていった。


 リースとカルムの二人組はいつも教官たちを怒らせてばかりの問題児だった。それでも普段はふざけて見えていても、二人とも責任感のある芯の強い人間だと知っていた。その二人は、他の仲間たちを逃がすために真っ先に魔物に向かっていった。

 ラッグスは無口で地味な存在だが、誰よりも冷静に状況を把握していた。そして遥か前方を往く本隊に報せに行くべきだと主張し、生き残った数少ない正規兵に混じって魔物たちで溢れる街道へと身を乗り出していった。

 ラズは剣技が不得手でも、地の利や兵法の博識を活かして森の中へ逃げ込もうと提案した。実際、長い手足を持つ怪物たちにとって入り組んだ森は動きを鈍らせて分断させる効果を成していた。

 気が弱く繊細でとても兵には向かないウィンネルでさえも、自分達の活路を開くために懸命に戦っていた。


 だが気付けば、一人また一人とかけがえのない仲間たちが傷つき倒れていく。

 その状況に憔悴しながらも、必死でリュカや傷ついた仲間をかばい、剣をふるっていた。


 しかし、この魔物らの個体としての強靭さはもとより、その圧倒的な数の力により追い詰められていった。ここまで逃げ切れたのが奇跡的ですらあった。


 カイルは自分に全身を預け、立っていることさえできないリュカを見る。

 その腹部の傷、自分が不覚だったが故の過ち。挟み撃ちにされ、身動きを封じ込まれ、リュカに魔物の接近を許してしまった。

 護ることが出来なかった。魔物の歪な爪が彼女を捉えた瞬間、カイルは絶叫することしかできなかったのだ。

 その間、自分とリュカを庇いながらボロボロに消耗しつつも戦っていたアッシュ。その傷ついた背中を見せる親友は、さも当然のように自分達は逃げろと言う。


 気味の悪い土気色の顔を震わせて、その怪物は威嚇いかくするかのように左右の異様に長い腕を振るう。

 気持ちが悪いほど長い四肢を持った人の体に、バランスの取れていない大きな髑髏の顔。体全体も死人のように土気色で、鱗のようなものが覆っているため光沢を放っていた。


「――はぁッ!!」


 こちらに振われた異様に長い腕を剣で打ち払ったアッシュが、鋭い気合とともに剣を構えて突進していく。

 だがおそらく、その行為に勝算や策はない。ただ魔物達の注意を自分に引き付けるためのものでしかないのだ。


 薄暗い森の中からまた新たに二体、姿を見せる青白い肌をした怪物たち。状況は絶望的すぎた。

 だからアッシュは必死になってカイル達だけでも逃がそうとしていたのだ。


「一人じゃ無理だっ! アッシュ!」


 カイルはそれを頭で理解できていても、心の内で認める事ができない。

 アッシュだけでない、もう既に何人もの仲間が自分を犠牲にしてまでも友を守ろうとしたのだ。 

 もうこれ以上大切な仲間の死など見たくなかった。たとえどんな小さな勝機であっても、一人よりも二人のほうが確率は大きくなる。

 だからカイルは、剣を掲げて突進していくその背中に続こうとした。


 アッシュは剣技の天才と呼ばれ、教官達も今すぐにでも入隊試験を受けれそうだと褒めていた。

 そのアッシュですら歯が立たない魔物に、カイルが加わった程度では望みは薄いかもしれない。

 だが残った全員が生き延びられる方法はそれしかないと確信していた。


 ――目の前の魔物を全て倒して生き延びる。


 深い傷を負ったリュカはこれ以上動けないだろうから、カイルはそれしか方法は無いと固く信じていた。「今度こそ必ず護る」と、その決意を引き締めて。


 息絶え絶えのリュカを近くにあった巨木の根の狭間、ぽっかりと一人分の形に空いた陰に隠し、剣を振り上げて複数の魔物相手に立ち回るアッシュの背中に駆け寄る。


 後ろから切羽詰まったリュカの叫びが聞こえるが、内容など聞かずとも理解わかっていた。アッシュと同じように、自分だけでもいいから逃げろという言うのだ。

 その要望にカイルが頷く筈もなかった。


 まず隙だらけになっているアッシュの後ろに付き、その背中を護る。そしてこの魔物たちを全て撃ち倒して全員で生き延びる。

 もちろん同じ過ちは繰り返さない。リュカの元には一匹たりとも魔物を行かせはしない。

 今この場で、全ての魔物を一掃して終わりだ。


 そんな状況をまともに見れていない人間の夢想、脆いだけで終わりそうな希望をカイルは本気で信じていた。

 それを未熟といえばそれまでだが、カイルは信じて疑わなかった。


 今、誰もが自らの命と引き換えでいいからたった一人を生き延びさせようとする中、最大級の希望を秘めたカイルがはしる。


「だあああああーっ!!」


 自らを鼓舞するかのような雄叫び。

 新たに森の陰から現れ、今まさにアッシュの後ろへと鈍い動作で回り込もうとしていた魔物の背中に、カイルは飛び掛って剣を突き立てた。

 体重を乗せた必殺の一撃で、まずは一匹を仕留めるつもりでいた。


 だが――


 現実とは言うまでもなく無機質なもの。

 たとえどれだけカイルの願いがよどみないものだったとしても、そこに用意されている結果に何ら影響を与えるものではない。


 必殺を狙ったカイルの剣筋は、しかし角度も速度も未熟であった。

 魔物に致命傷をあたえる事あたわず、背中のその肉をえぐるように斬り裂きながらも刃は臓器にまでは達せずに終わる。


 そこからは、カイルが生きてきた中で体験すらしたことのない世界。


 剣を突き立てられた魔物は悲鳴のようなものを上げつつも、その恐ろしい膂力りょりょくで張り付くカイルの体を片手で掴み上げた。

 重力の感覚が消失したことを感じた次の瞬間、巨大な壁が突如としてせり上がり、そこにもの凄い速度でぶつかったかのような錯覚。それが地面だと判断する間もなく、揺らぐ視界に不気味な髑髏顔が大口を開けている光景だけが飛び込んだ。


 その次の瞬間、自分になにが起こるのかなど考えも及ばない。

 ――いや、おぼろげには理解できていた。あの大口が教官の頭を首ごともっていった光景をカイルは思い出していたからだ。


 だが現実は、もっとこくなものであった。


 その大口に持って行かれたのは自分の首ではなかった。

 その魔物が喰らいついたのはカイルの頭ではなく、直前に体ごと割り込んできたアッシュの左肩。正確にはアッシュの左肩から腕にかけての全部だ。


 飛び込んできたその顔には一切の躊躇ちゅうちょなど見えない。

 おそらくアッシュは、反射的にカイルを庇うために体一つで突っ込んできたのだろう。だから剣さえ構えずに利き腕をさらけ出したのだ。ただ、夢中で。


 化け物は自分が喰らいついた獲物の肉をむさぼるように首を振るい、顔を引き上げた。そうする事で、生肉を引きちぎり骨を砕くような嫌な音が広がった。

 そして崩れ落ちるアッシュの体。

 それには剣を握った左腕が見当たらない。いや、腕だけではない。首の付け根付近から丸ごと、左半分の上半身が無くなっていた。


「あ……あ……――あああっ!!」


 そこでようやくカイルの口から言葉にならない悲鳴がこぼれる。


 今まさに目の前でゆっくりと崩れ落ちるかのような親友の体を必死で抱き留めた。

 もはや腕と言わず、肩から胸にかけて肉が、骨が、そして肺臓が、――消失している。

 その部分から大量の血液が、決壊した堤から流れ出る汚水のようにどうっとあふ出す。あれだけ血を流しながら、まだこれ程にあったのかと思う量が体外へと排出される。 


 アッシュの顔に、もう表情はなかった。

 その虚ろな瞳がとてもあの親友のものとは思えなかった。


 アッシュの肉体の一部を噛みしごきながら飲み込んだ化け物は、まるで小骨か何かのようにその左手に握られていた剣を吐き出した。

 その映像が妙に生々しく、人間のそれとよく似ていたことが、まるで無力で自分を嘲謔ちょうぎゃくしているかのようにカイルの眼には映る。


 瞬間、ほとばしる絶叫。

 

 自らの剣はまだ、その魔物の一部かのように背中に突き刺さっていた。

 カイルは、先ほど化け物が吐き出したアッシュの剣を掴むと、それを相手の喉元に向けて力任せに振り抜いた。

 不意を突いた電光石火の一刀。

 勢いよく噴出した魔物の血が、カイルを上塗りする。魔物の血も赤かったのか――白濁していきそうな意識の中でカイルはそんな事をぼんやり思った。


 だが、意識が遠のきそうになりながらも、カイルの体は反射的に動いていた。

 奇妙な呼吸音を発して近づいてくる魔物たちを雄叫びと共に迎え撃つ。


 アッシュが死んだ。

 だが、その事を深く考えられない。

 今はただ、内より湧き出る激情を吐き出すのがやっとだ。胸の奥から止まることなく、熱いマグマがたぎってくるかのようだ。

 今はその発露に身を任せたかった。


 がむしゃらに剣を振るうカイル。

 それはもはや、訓練で一日中やらされている剣術などというものではなかった。まるで棒切れを振り回すかのように、カイルは叫びながら魔物に斬りかかる。


 剣技の天才と呼ばれたアッシュですら歯が立たない相手に、そんな短絡的な方法がいつまでも通用するはずが無い事はカイルも理解していた。

 おそらく自分は殺される――だが一匹でも多くの化け物を道連れにできるなら構わない――そんな風に漠然と考えていた。


 だがカイルは、そう考えると同時に何か大切なモノを忘れているような不安に駆られる。とても大切な何かがそこにあったような、そんな錯覚に囚われる。


 しかし、目の前の怪物たちへの怒りがそれらを強引に塞ぎ込む。

 ただカイルは剣を振るうことだけに集中する。


 追い詰められたねずみは猫をも噛み殺すという事なのか、強大すぎる相手を一匹、二匹とそれでも仕留めていく。

 だが魔物の数は減るどころか、どこからともなく湧いてくるように増え続ける。

 

 首の後ろで寝かすように掲げた剣を突進してくる魔物の首めがけて水平に居抜いぬく。弧を描いた剣が魔物の下顎ごと喉を斬り裂き、そして噴き出す鮮血。

 返す刃は勢いを殺さぬよう、脇手に迫っていたもう一体に対して鋭い一閃。だが距離が今ひとつ足らず、魔物は切り裂かれた胸口を押さえながら、もう片方の腕をカイルに向けて突き出す。

 その単調な攻撃を懐に飛び込んでかわし、突っ込んできた相手の体重を利用してそのわき腹へと力一杯剣を突き立てる。刃は魔物の背中側へと肉をいて到達する。


 そして魔物の体に足を掛けて剣を引き抜きながら、「なんだ、こんな簡単なものだったのか」――と、内なる自分が冷ややかに呟くのだった。

 今まで教官に怒鳴られて、それでも上手くいかなかったものがこうも容易くできてしまう。

 そこに白昼夢のような非現実感を覚える。今の自分なら何でも出来るのでは、と。


 そしてカイルはさらに攻撃の手を増やしていった。

 今までは、向かってくる相手に対して間合いを計りながら絶対の距離で剣を振るっていた。だが勢いに乗ろうと、自ら足を踏み込んで魔物たちに斬りかかっていく。


 ぬかるんだ足場など気にも留めぬよう、カイルは自分のよりも重量のあるアッシュの長剣をその重みに任せて振りし切る。

 魔物たちは、膂力は凄まじくとも動きは緩慢で、何より森の木々は魔物達にとっての障害物にしかならない。その隙をき、魔物たちとの距離を詰めていく。


 だがそれは、カイル自らが進んで魔物たちの中心へと踏み入っているようなものだ。

 今までは、数がそれなりにいようと入り組んだ木々が巨体の魔物達の動きをさえぎり、おのずと一体ずつの行動に走らせていた。

 カイルは今、自分から死地へと進み出てしまっている。


 そしてそれを気づいた時には、既に三体の魔物に取り囲まれていた。


 前に二体と後ろに一体、奇妙な呼吸音でにじり寄りながらプレッシャーをかけてくる。

 「意外に知恵が回る」――また、内なる誰かが呟いたような気がした。だが同時に、それらがこの奇妙な高揚感と麻痺感の終わりを告げていた。

 

 もういいさ――もう十分だ――ここで終わりだ――お前達が全てを終わらせた――お前達が全てを奪ったんだ――俺の大切なものを根こそぎ全部――お前達が奪ったんだ――俺の全てを――

 

 そこで、ふと気がつく。


「すべて……?」


 その自らの呟きに、忘れかけていた大事なものがよみがえる。


 ――全てではない! ――まだ生きている! ――リュカはまだ生きている!!


 その瞬間、カイルは忘れていた恐怖が呼び覚まされたのを知る。失いかけていた生存への願望が瞬時に巻き起こる。


 自分が死んだらリュカはどうなるか。あの傷ではおそらくあそこからままに動けない。ならば、おとなしく魔物どもに喰われるのを待つしかない。

 自分の死がそのまま大切な少女の死であるこという事実に、カイルは戦慄する。そしてそんな事も気づけずに自ら墓穴を掘ってこんな状況に立っている自分を激しくののしった。


 瞬時にこの場から脱出を試みるが、それができない事はもはや言うまでもない。


 それでも機会を窺うカイル。

 しかし、三体の魔物達はそんなカイルの様子の変化に気づいたか、さらに包囲を狭めて今にも飛び掛らんとする勢いだ。

 そして、その事態は思っているよりずっと早くにやってくるだろう。


 果たしてその時、自分は生き延びられるだろうか? 


 いや、生き延びなくてはならないのだ。


 カイルはアッシュの剣を正面から横に寝かせて構え、前方の二体を牽制する。

 だが言わずもがな、後ろがガラ空きだ。本来ならばこの状態だったアッシュの後ろに立ってやるつもりだったのに、アッシュのいなくなった今、自らが同じ境遇に立たされる。


 だが自分はおいそれとは死ねない。

 リュカのためにも、そしてアッシュのため、散っていった仲間たちのためにも。


 少しの静寂が訪れ、間合いもタイミングも十分だと感じたか、カイルを取り囲む三体の魔物が一斉に動いた。


 はじめに前方の二体が同時に爪を剥いて襲い掛かってくる。

 剣は一本だ。どちらかに斬りつけたとしても確実にどちらかに殺される。ならばと、カイルはその二体の位置の丁度中央になる場所に向かって自らの身を投げ出した。


 確たる策があって飛び込んだのではない。ほぼ賭けに近かった。おそらくどちらか一方がアクションを停止していたならば、実現できなかったであろう。

 だが、両方の中間に飛び込んだカイルを魔物たちはどちらもが仕留めるつもりでいた。その結果、手足の無駄に長いこの化け物たちの歪な爪は互いが互いを傷つけあうという始末になった。


 悲鳴を上げる二体の脇をすり抜け様に左右への剣撃。

 傷は深くないだろうが牽制の効果は十分あった。切り裂かれたことで二体は退き、後ろからカイルを狙っていた魔物に対しての障害物となる。

 こうして、三体ともを前方に収めることに成功した。


 この魔物たちはその一撃で人間を容易にひしげさせる程の力を持つが、それ以外の部分――特に動きの緩慢さや知能の低さが目立つ。

 これならばなんとか切り抜けて逃げおおせることも可能なのではと、カイルは感じ始めていた。


 そんな考えを巡らせるカイルはしかし、自分の後方から徐々に忍び寄ってくる新たな影には気づいていなかった。

 そう、魔物はこの三体だけではない。今もなお魔物の数は増え続けている。


 それを失念していたカイルの代償は大きい。――いいや、大きすぎた。


 気づいた時、既にその新しい化け物は完全に自らのその長大な腕が届く範囲へと至っていた。

 振り返ったカイルは驚愕する。そして今度こそ本当にその爪が自分の肉をえぐり、死ぬということを予感させた。

 その魔物の腕がぶれるように動いた時、だから思わず目をつぶってしまっていた。


 そう――

 次の瞬間に、自分と魔物との間に両手を広げて割って入ったもう一つの影にカイルは気づいていなかった。


 風を切る擦過の音と、恐ろしい打撃の音。

 来るだろう衝撃に身を強張らせていたカイル。

 だが、違和感に、目を開いた。


 そこに映っていたものは、醜悪な魔物が今まさに下から上へ突き上げるかのようにして腕を振り切った様と、それによって空中へと投げ出されたリュカの体だった。


 わけがわからなかった。


 ――なに?

 ――なぜ?

 ――どうして? 


 カイルの中で疑問符が並べ立てられる。


 遅延しているの視覚か? 判断力か? 

 ゆっくりと幼馴染みの少女が雨の降りしきる黒い空へと舞い上がるその無音の光景に、カイルの脳が対応できていないのか?


 その淡い栗色の髪が振り乱れて広がった。


 流れるような美しいその髪に触れるのがカイルは好きだった。その長い髪をめるといつも彼女は恥ずかしそうに俯く。それでも嬉しそうに顔をほころばせるので、カイルはその髪が大好きだった。


 けれど今、その長く艶やかな髪は雨と血で張り付き固まって、いつもの様にふわりとは広がらない。

 雨に混じって赤いしずくをふり撒きながら、まるでボロ切れのように宙へ昇っていく。

 そのままこの森を抜けてしまうのではないかという高さまで行き着いて、今度は同じようにゆっくり下降してくる。

 そうして本当に濡れた布切れを投げ捨てたかのように、鈍い音を立てて泥の地面にへばり付いた。



 意識の空白は何秒間のことだったか。 



 一瞬の内にどれだけの思考が脳を通り過ぎ、その中で一つでも脳に留まったものがあっただろうか。すべてが流されるままに進んで、その中の一つでいいから自分の意識を介入させ得るものがあったろうか。

 ただ目の前の出来事は意識とは裏腹に滞りなく進んだ。


 そして響き渡るは声にならない絶叫。

 言葉にできない嗚咽。


 カイルは半狂乱になりながら彼女の元に駆け寄った。

 本当にぐしゃぐしゃの布切れのようになったその体を抱え起こす。


 聞こえてくるのは、反転した世界での慟哭。


 それは誰あろう――

 カイル自身のものだった。


 体から全ての力が抜けていく。

 リュカの亡骸なきがらを抱えたまま、カイルの意識も肉体もまるで溶けてなくなってしまうかのように。

 その無防備すぎる現状に、微かな理性が警告を鳴らす。

 だが今のカイルにはどうする事もできなかった。



 あれほど強く誓ったにも拘わらず、自分は何をしていたのだろうか。



 同じ過ちは二度と繰り返さない。――その言葉が、カイルの中で空虚さを伴って反芻はんすうされる。

 あれだけの重症で動くこともままならなかったはずのリュカが、カイルの身代わりとなった。


 自分は何のためにここにいるのか。どうしてこんなにも苦しい世界に居続けなければならなかったのか。

 それらの答えが音も無く、色彩すら消え失せて、自分の腕の中にあった。


 アッシュが――

 みんなが――

 繋いでくれた自分の命。

 リュカを護るための命。


 みんなはそこまで考えてはいなかったかもしれない。けれど、守ってもらった自分のこの身で、リュカを救うことは出来たのだ。

 それを全て無駄にした。

 みんなの思い、決意を犠牲にしたというのに、リュカを護ることができなかった。


 あの時、早く行けと叫んだアッシュの言葉を素直に聞いていれば、少なくとも傷を負ったリュカを連れて逃げはできただろう。

 なのに己の力量も弁えずアッシュの足枷あしかせになりに行った。

 その結果、アッシュは自分の代わりにその身を差し出し、あまつさえ護ってみせると誓ったリュカの命までも犠牲にして、今また自らが救われた。


 ならば全員が自分のためになげうったその決意を絶やさないために、必ず生き延びなければならないのではないか? 

 ――カイルの意識の隅に浮かんだその最後の義務は、しかし、溶けゆく意識と肉体に阻まれてなんの意味もなさなかった。



 不気味な魔物たちはゆっくりとカイルの元へと近づいてくる。



 だがカイルの世界は既に反転している。

 そう、ここはもはや今まで居た世界ではない。悲しみと苦しみの慟哭がカイルを死の世界へと誘っていた。

 カイルの肉体は、未だそこにあるだろう。しかし彼の精神だけは先に、肉体を離れて死の国へと迷い込んでいた。

 そこで声にならない叫びを上げているカイルもいずれ同じ場所へと至る。

 ただそれよりも先んじて、苦しみに押し潰されようとする精神が死を望んだのだ。



 終わった。



 ほんとうに全て終わってしまった。自分の生きる意義も価値も理由も存在しなくなった。


 自分の愚かさを呪った。

 自分の無力さを恨んだ。

 自分の全てを否定した。

 こんなにも弱くて小さい自分を消し去りたかった。


 かけがえのない人、かけがえのない時間、かけがえのない思い、――全て失くした。

 そう、全てを無駄にした。


 終焉しゅうえんはこんなにも速やかに進行していき、最後の締めくくりを見せる。影しか見えなくなった歪な化け物が、腕を振り上げている。

 カイルはそれが自分の望んだ結果だといわんばかりに、その光景を受け入れた。



 だと言うのに――



 その世界の終わりを告げる鐘の音は、朗々たる響きを含んで彼に語りかけてきた。

 一切の淀みも迷いも感じさせない程強く、明確な意志で以て、ただカイルに「生きろ」と投げかけた。

 全てを諦め、放棄したカイルに、より過酷な条件を突きつける。


 もはやカイルの精神の歯車は狂っていたのか。

 それは彼の頭の中だけに響く、何であるかすら判別できないものだ。


 しかし、どこか遠い世界で繰り返されているようなその声に精一杯の反論を放つ。


「生きる理由なんてどこにある!? 全部失くしたんだ! 今、ここで! 俺が今ここ居る必要なんてない! もう……もう全部終わったんだ!!」


 カイルは誰とも知れない声に向かって叫んだ。

 あらゆる激情がカイルの中で渦巻き、もはやそれが憤りなのか哀嘆なのかただの自棄やけなのかすら判断できない。

 ただ、今にも途切れそうな意識の中、カイルは叫び続けた。

 存在しない筈の何かに対して必死で声を荒げていた。


 しかしその叫びに応えるかのように、響いていた声がより明確な言葉と肉質を以って返ってくる。

 何処からか響いてくる筈だった声。それが明瞭さと質量を伴い、次第目の前から聞こえ出した。



 カイルは息すら忘れて、ただその光景に見入っていた。



 そして、聞こえない筈の何者かの言葉が、現実のカイルの鼓膜を揺らした。


「それが理由になる――」



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