二人のもう一つの始まり

「ふざけるんじゃねぇ!!」

 バシィ、とかなり大きな音がして、気付くと俺は谷田の横顔を平手で殴っていた。

 よろけた谷田は戸口でそのまま頭を打ち、呆然とした顔のままその場にしゃがみ込んだ。

「や、谷田さん!」

 悲鳴のような声で男を呼ぶと、雪江が慌ててその側にしゃがんだ。

 怪我はしていないか、頭を打ったけれど大丈夫か、と雪江が彼の様子を確かめるその横で、俺は頭が真っ白になっていた。


 この世界に来てから、いやその前から、俺は人間に暴力を振るったことは無かった。

 明らかに体格も腕力も劣る相手に暴力など、決して振るってはいけないと、親父もお袋も喧嘩の度に俺を叱った。

 戦となれば話が別だが、俺たちはみな子供の頃からそうやって躾けられる。

 だというのに、雪江を侮辱された瞬間、そんな理性は頭から消し飛んでしまっていた。


 すぐに救急車が呼ばれ、谷田は奥さんに付き添われて出て行った。

 静かな田舎の住宅街が一時大騒ぎになり、警察に事情を説明しなければならなくなって、俺と雪江はもう年越しの準備どころではなくなった。



「お疲れ様、ザグ」

 一段落ついたころにはすっかり日が暮れ、保護機関の支部の者達にもさんざん叱られて、帰宅した俺はもう動く気力もなかった。

 誰もいなくなった居間のソファに身を沈めると、深い溜息が漏れてくる。

 そんな俺の顔の前に、雪江は小皿に何か黄色い物を載せて差し出した。


「今日作ってくれたリンゴきんとんだよ。食べてみて」

 そう言いながら自分の分も小皿に取り、小さなスプーンで口に含む。途端に幸せそうに目を細める雪江を見て、俺も恐る恐る口を付けた。

 そして驚いた。あれだけ砂糖を入れた甘味の塊のような料理なのに、口の中で溶けていくようなその味は、ほどよく甘くてリンゴの酸味が効いていた。


「あ……うめぇなこれ」

「でしょ? 普通は栗きんとんって言って栗で作るんだけど、うちではいつもこのリンゴきんとんなの。意外と食べやすいでしょ」

「ああ、マジで美味い。なんかこう、疲れが取れる味だな」

「ふふっ、今日は大変だったもんねぇ」


 しみじみとそう言う雪江の顔にも疲れが滲んでいるが、その割にはむしろ愉快そうだった。

 帰宅してから彼女にも怒られると思って覚悟していたのだが、逆に俺を労わろうとするその様子に、ほっとしつつも疑問が口をついて出た。


「なぁ、ユキは怒ってねぇのか?俺のせいで色々台無しになっちまったのに……」

 殴ってしまった谷田にも悪かったが、一番迷惑が掛かったのは雪江だ。幸い谷田は大きな怪我もなく、すぐに病院から戻って来たが、俺はそれが分かるまで何もできなかった。


 頭が真っ白になっている俺の代わりに事情の説明をしたり、保護機関に付き添って叱られたり、親戚中から「あんな乱暴な奴と結婚したのか」という視線で見られたりしたのは雪江だ。

 せっかく大勢で集まって楽しむはずの年末が、俺のせいで台無しになってしまった。


 だが彼女は、むしろ驚いたように目を見開くと、静かに首を横に振った。


「怒る理由が無いよ。ザグの力で殴ったのは良くないだろうけど、私だって引っぱたいてやりたかったもの。それにさ、ザグは私のために怒ってくれたんでしょ?」

「けどよ、俺がもうちょっと自制できてりゃ、こんな事にはならなかっただろ」

「それが分かってない人なら、私だって分かるまで叱るよ。でもザグはすぐに反省してたじゃない。やっちゃいけない事やっちゃった、って泣きそうな顔してる人に、それ以上怒る必要なんてないでしょ」

 言いながら雪江はこちらに体を向けると、めいっぱい腕を伸ばしてきた。

 えっ、と驚く俺の首に腕を回してくると、そのままぎゅっと抱き締められた。


「大丈夫だよ。今日の事だって、分かる人は分かってくれてる。分かんない人も居るだろうけど、それは仕方ないことだし、いつかは分かってくれるかも知れないし」

 細い指の冷えた手で、俺の後ろ頭をゆっくり撫でながら、雪江は胸元に顔を寄せて来た。

 一度も俺を恐れたことのないその彼女の態度が、今はとてつもなくありがたい。

 雪江の体は俺よりはるかに小さいのに、安心していいよ、と全身を包まれているようで、俺は胸が一杯になった。



 出会った時はどこか足元が危うかった雪江は、今やその手でしっかりと、俺を支えてくれるようになっていた。

 元いた世界では料理も出来ない奴は一人前じゃない、ここに居るのは子供までいるのに半人前の連中ばかりか、などと思っていたが、俺だってまだまだ半人前だったのだ。

 だが雪江は、周囲との関係にきちんと気を配り、俺の考えも理解し、その上でずっと面倒を見てくれていた。

 十歳の年の違いなどあって無いようなものだと思っていた俺は、とんでもない勘違いをしていたのだ。


 その事に初めて気が付いた俺は、今までずっと、言おうと思いながら言えなかったことを、その時やっと口に出すことに決めた。


「なぁユキ、そろそろ子供作ろう。今の俺とユキなら、ちゃんと育てられる気がする」

「うん、いいよ。頑張ろう」

 二つ返事で頷いてくれた雪江を抱きしめ返すと、雪江はまた幸せそうに微笑んでくれた。


 彼女を、そして生まれてくる子供を守れる一人前の男になろう。そして雪江がそうしてくれたように、俺ももっと、この世界と人間たちを理解する努力をしよう。


 明日から始まる新しい一年に、俺は心の中で強くそう誓ったのだった。

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