決意を新たに(1)

「何で関係ねぇやつに絡むんだ!? 俺に文句があんなら俺に言えよ!!」

 静かな店内に響き渡る怒鳴り声に、レジにいた従業員も客も一斉に声がした方を振り返った。


 声が上がったのは店の奥の方、組み立て式の家具などが置いてある辺りだ。

 子供が大声を出したり、客が電話で怒鳴るのを耳にすることは時々あるが、言葉の内容からして店内で起きている揉め事だ。

 しかも腹の底から響くような低く大きな声は、普通の若い男のそれではない。


 品出しをしていた従業員がしばし手を止めて、棚の隙間から声がする方を探るように窺った。

 私のいたレジはその直後に客が切れたので、すぐにカゴを置いてその場へ向かったが、その間にも怒鳴り声は続いている。

 相手は女性のようで、負けじと大声で怒鳴り返しているのが聞こえた。


「あんたたちの仕事ができてないから客に怪我をさせるところだったのよ! それを注意したら居直るつもりなの!?」

「だったらその場で俺に言えばいいだろうが! 関係ない奴に文句言うのはおかしいだろ!?」


「ろくに教育も受けてない、態度の悪いバイトに言っても仕方ないでしょうが!! こういうのは上の責任でしょ?」

「そっちは自分のガキの面倒もろくに見ねぇで、あぶねぇっつっても聞かなかったんじゃねぇか! 親のくせに躾もしねぇで、叱ったら態度が悪いってなぁどういう了見だ!?」


「はぁ!? 子供が走り回るくらいは当たり前でしょ! そんなことも考えずに店を出してるわけ!?」

「わけ分かんねぇ理屈こねんなよ! ここはガキを走らせる場所じゃねぇ、物を売るのが目的の場所だろうが!」


 ようやくその場に駆け付けると、子連れの母親と思しき客とザグルが、鬼のような形相で睨み合っていた。


 母親の後ろでは、男の子がその手をしきりに引っ張っているが、母親は足を踏ん張ってその場から動こうとしない。

 一方でザグルの脇でも、怒鳴り合いを止めようとしているのか、伊沢という若い女性の従業員が両手を上げて声を掛けていた。

 話の内容からするに、ザグルへの苦情が彼女に飛んだのだろう。



 母親の方は悪質そうなクレーマーだった。私たちならそれ以上は相手にせず、失礼にならない程度に受け流すところだが、ザグルは真っ向から正論で受けていた。

 おそらくこういう手合いの人間に当たったことがないのだろう。

 彼は真面目で人に気を遣う性格なので、ただ苦情を言われたのが不満というわけではないだろうし、相手の言い分が明らかにおかしいのだ。


 おまけに客が自分には言わずに、側にいた伊沢に絡んだことで、余計に怒っているらしい。

 当の彼女は困り果てているのだが、その姿は目に入らないようだ。


 声を掛けようとしたその時、店長がその場に駆け付けた。

 ザグルの指導役は、怒鳴る2人の様子に怯んでしまったのか、近くに来ているものの声を掛けられずにいた。

 店長は4人をすぐそばの従業員通路へと誘導し始めたので、ひとまず怒鳴り合う声はそれ以上広がらないだろう。


 となれば私は他の従業員と客へのフォローが先だ。

 そもそも何があったのかが気になるが、今は無関係の私が口を挟むのは無理だ。後で事情を聞こう。


 そう決めて仕事を続けたが、昼休憩に入っても事態は収まっていなかった。



「君の態度に問題があったんだよ。きちんとお詫びできないなら仕事を続けてもらうわけにはいかないよ」

 暖房の効かない風の吹き抜けるバックヤードの廊下で、ザグルは腕を組んで顔を顰めたまま、店長と揉めていた。


「態度が悪いってんなら、あの客の方がよほど悪かったはずだ。なのにこっちから謝るのはおかしいだろ」

「相手の態度が悪かったら自分も悪くていいわけじゃないだろう? ましてや相手はお客様だよ」

「何でそんな理屈が通るんだよ? あの客が俺に文句言ったんなら分かるが、関係ない奴にいきなり絡んだんだぞ。そんなのが客か?」

「誰がお客様かを決めるのは君じゃない、私だよ」

「なら好きにすりゃいい。あんたには詫びる理由があんだろうが、俺にはない」


 2人とも抑えた声だったが、同じようなやり取りを繰り返していたのだろう、店長の目には疲れが滲んでいた。

 対するザグルの表情は、頑固に無表情だったが、どこか憐れむような目をして店長を見下ろしていた。



 ザグルのいた世界では、オークが人間に近い社会を形成していたとはいえ、物の売り買いはほとんど無いという話だった。

 お金さえあれば欲しいものはだいたい買えるこの国では、どうしても売る側より買う側が有利になる。


 だがザグルの育った環境では、他人から買えるものは少なく、買うと言っても物々交換となるので、売る方が気に入らないと買えない。

 その違いのせいで根本的に価値観が合わないのだろう。



 やがて説得を諦めたのか、店長は休憩室の隣にある応接室へと入って行った。

 開いたドアの隙間からは、例の母親と子供が座り、伊沢が向かいに立っているのがちらっと見えた。

 客の方もとうに疲れ切っていると思うのだが、ザグルの頑なな態度に意地になっているのかも知れない。


 フォローに入りたいところだが、いつもフロアを仕切る店長と、品出し2人が居ない状況をカバーしていたため、私自身も疲れていた。


 ひとまずザグルの横を通り過ぎ、着替えて休憩室に向かう。

 通り過ぎざま彼の顔を見ると、その顔にも疲れが見えていた。

 休憩室のドアを閉める直前、ふと顔を上げた彼は口を開きかけた。

 しかし私がドアを閉めようとしているのを見て、また視線を地面に落としてしまった。


 声を掛ける余裕は無かった。

 休憩を取らずに話をするには疲れていたし、そもそも価値観が違う相手を説得するのは手間がかかる。

 自分の仕事はあくまで、同じ仕事をしながらザグルの様子を見守ることであって、彼が職場で困らないように世話をすることではない。


 そう頭では理解していても、何となく彼を裏切ってしまったような気がして、昼食は半分も食べられなかった。



 悶々としたまま食事を終え、少し様子を探ろうと従業員通路に出たその時、不意に応接室の方で子供の泣き声が聞こえた。


「ぼくが悪かったの、お母さん!ぼくのせいだよ」

 泣きながらも大声でそう訴える声が、半開きになったドアの隙間から聞こえてくる。


 ふと周囲を見回すと、通路に立っていたはずのザグルの姿が見当たらない。

 とうとう子供が耐えられずに、事態を収めようと声を上げ始めたのか。

 それなのにザグルが先に帰宅してしまったとしたら、もはやここで仕事を続けるのは無理だろう。


 絶望的な気分になりかけたその時、応接室から例の母親が慌てた様子で出て来た。


「今度から気を付けてくださいね! ほら、帰るわよ」

 甲高い声で捨て台詞のような一言を放つと、母親は何かにひどく驚いたような顔で、子供の手を引いて逃げるように部屋から出て来た。


「おにいちゃん、ごめんね」

 強引に手を引かれる子供は、何とか後ろを振り返りながらそう言って頭を下げた。

「いいや、俺が悪かった。ごめんな」

 それに答える声は、聞いたこともないような優しげな声だったが、明らかにザグルのそれだ。


 えっ、と思わず立ち止まった私の前で、母親はバタンと応接室のドアを閉めると、子供を抱え上げて足早に通路を抜けて行った。

 その後を追って店長が飛び出していき、遅れてスーツ姿の小柄な女性とザグルも出て行った。


 一体何が起きたのかさっぱり分からず、私は棒立ちのまま3人を見送った。

 ともかくも客は納得して帰った様子だし、ザグルはきちんと詫びていた。

 直前までの私の考え事など一瞬で吹き飛ばされ、安心する筈のところなのに、心はまるで追い付かずに呆然としてしまった。


「あ……正岡さん。もう戻られるんですか?」


 最後に部屋から出てきたのは伊沢だった。

 本来なら彼女も追っていくところだったのだろうが、あまり大人数で出て行くわけにもいかない上に、休憩も取れていないのだろう。


 だがその表情は、疲れよりも驚きの方が勝っているようだ。


「あまり食欲がなくて出て来たんです。えっと、何が起きたんですか?」

「それが私にもよく……さっき出て行った女性がザグルさんの保護者だそうですけど、あの方が代わりにお詫びし始めたら、いきなりザグルさんが来て土下座したんです」

 そう言うと、彼女はそもそもの発端から話をしてくれた。

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