決意を新たに(2)

 最初は子供が店内を走り回っていて、ザグルが声を掛けて止めたのだが、しばらくするとまた走り出したという。

 母親は店の入り口近くの日用品の棚の方にいて、子供がどこに居るのかも分かっていない様子だった。

 そのうちに店の奥へと走ってきた子供は、組み立て式の家具の見本が並ぶ棚にぶつかり、間の悪いことに誰かが適当に置き直したらしい棚が落ちてしまった。


 子供を心配そうに見ていたザグルはそれに気付き、走って行ってそれを受け止めたのだ。


「よく無事でしたね!?」

「ほんとに。空の棚だったから良かったんですけど、ザグルさんが見てくれてなかったら、あの子が大怪我してたかも知れないです」

 そう言うと、伊沢は初めて緊張が解けたようにふっと息を吐いた。


「あのお母さんは全然見てなかったんですよ。子供が叱られて泣きそうになってるとこだけ見て、私の方を睨んできたんです。それでザグルさんが余計に怒っちゃって」

「大変でしたね。お疲れ様です……」


 母親の方もザグルに苦情は言いにくかったのだろう、たまたま近くにいたばかりに巻き込まれた伊沢には、とんだ災難だ。

 そう思って労うと、伊沢は首をぶんぶん横に振った。


「あれはほんとに向こうが悪いですよ! 私も謝らなくていいって思ったし。助けてもらったのにお礼も言わずにクレームつけて来るなんて!」

「あ、ザグル君には怒ってなかったんですか?」

「だってそりゃ、面倒だから適当に頭下げちゃえばいいのにって思うけど、私のことも庇ってくれたのに……。結局謝らせる事になっちゃって悪かったです」


 怒ったり申し訳なさそうに目を伏せたりと、ザグルをフォローするように喋っていた伊沢は、不意に私の顔を見てにこっと笑った。


「正岡さんが気にかけてたの、分かる気がします。付き合いにくいとこもあるけど、すごくいい人なんですね、ザグルさんって」

「ああ、いえまぁ、そうですね」


 思いもよらない言葉に、一瞬私の反応が遅れてしまった。

 だが伊沢はそれに気付かなかったのか、

「それじゃ、ちょっと休憩してきますね」

と急いで向きを変え、足取り軽く更衣室へ向かって行った。



 私はそんなつもりで彼に声を掛けていたわけではない。

 仕事上の監視対象で、かつ孤独なのを見かねて何とかしてやろうと思っていただけだ。だがそんな事はもちろん口に出せなかった。

 毎日声を掛けていても、決して仲が良かったわけではなく、ただ一方的に気を遣っていただけ。

 それが周囲にはバレていたのが妙に恥ずかしかった。


 そんな奇妙な羞恥心を更に刺激したのは、戻ってきた店長の興奮した話しぶりだった。


「いやぁ、本当にどうなる事かと思ったんだけどね。やっぱり保護者になる人は違うんだと思ったよ」


 稀人であるザグルが謝らないのなら、その保護者が謝れと客に怒鳴られ、電話をすると狭間がすっ飛んできたらしい。

 その狭間が廊下に立つザグルに何やら声を掛け、応接室に入ってきて頭を下げた直後に、ザグルが後を追って飛び込んで来たという。


「保護者さんは何と仰ったんですか?」

「いや、そこは聞こえなかったんだけどね。ザグル君も言いたがらないし。でも本当に反省していたんだよ、周りを困らせてまで意地を張るような事じゃなかった、ってね」


 正直ここまでとは思わなかった、と頭を掻きながら店長は私に頭を下げた。


「君にもずいぶん助けられてたようだね。毎日彼に声を掛けてたんだって伊沢から聞いたよ。彼が思い直してくれたのも君のお陰だろうね、ありがとう」

 そう言って笑顔で肩を叩かれて、私は急に居た堪れなくなった。



 私は本当に何もしていない。これから少しずつ動こうとは考えていたものの、今まではただ、ザグルが拒まないから一緒に食事をしていただけだ。

 彼の困りごとを解決してきたのは、これまでも今日も、保護者の狭間雪江だ。

 ザグルが信頼しているのも彼女で、おそらく彼女が掛けた言葉だからこそ彼は思い直したのだ。


 よりによって今日は、休憩室の前で助けを求めるような顔をしたザグルを、私は無視してしまった。


 子供を助けたのも、伊沢を庇ったのも、自身の行動を反省したのも彼の優しさだ。

 そしてそんな彼の良さを引き出したのは、稀人については何も知らないながら、彼を理解して支えている一般人の狭間だ。

 それなのに、伊沢も店長もまるで私が手助けしたかのように言い、お礼まで言われる始末である。


「私は何も力になれていませんよ、本当に。何もできなかったんです。狭間さんが居なければどうにもなりませんでした」

「ははっ、そんなに謙遜することないだろう」


 店長は笑って取り合わなかった。

 そのまま休憩室に向かう背中を見送りながら、私は恥ずかしさと言葉にならない悔しさで、両手を握り締めていた。




 その日はクレーム対応で仕事が進まなかった分、ザグルが終業時刻後も働くと言ってフロアに残ったので、私は休憩室で彼の帰宅を待った。


 せめて一言、彼に詫びたかった。

 多少なりとも私を信頼してくれていたからこそ、あの時助けを求めていたのに、一言も声を掛けなかった自分が情けなかった。


 誰もいない休憩室は寒くて、今更のようにザグルの存在感を思い出してしまう。

 彼は窓際でいつも一人だったし、周囲が自分を避けているのも分かっていたが、それを厭うことはなかった。


 避けたいなら避ければいい、近付きたいなら近付けばいい。

 彼の背中がそう言っていたからこそ、私は迷わず隣に行けたのだと、ようやく気が付いた。



 ふとTさんとのことを思い出して、自然と苦笑いがこぼれた。

 彼女を助けたかったのなら、周囲も彼女自身も限界になる前に言うべきことを言えば良かったのだ。

 穏便に、人の気に障らないように動く私の性格を、Tさんは分かっていたのだろう。


 だから私を突き放してくれたのだ。

 彼女は周りが見えない人ではなかったし、とても優しい人でもあった。

 そして同時に、他人の目を気にすることに価値を置いていなかったのだ。


 それを理解できずに哀れんでいた自分の愚かさを、よりによって監視対象の稀人に気付かされるとは、想像もしていなかった。



 完全に陽が落ちたころ、腕を組んで窓の外を向いたまま半分寝ていた私は、突然肩を叩かれて飛び上がった。


「帰らねぇのか?ここ寒いだろ」

 びっくりして振り返った私の顔の前に、腰をかがめたザグルの顔が迫っていた。


 大きな金の目と白い牙が目と鼻の先に見えて、一瞬噛みつかれるのかと思って心臓がバクバクした。

 だが彼は驚く私の顔を見てすぐに離れると、備え付けのお茶を2杯淹れて戻ってきた。


「ああ、ありがとう」

 ほいと渡されたそれを口に含むと、いつの間にか冷え切っていた体に、熱いお茶が沁みるようで心地いい。


 だめだ、謝るつもりで待っていたのに、気を遣わせてどうするんだ。

 本気で情けなくなってきて、思わずため息が漏れた。

 それをどう解釈したのか、ザグルは首を傾げながら私の頭に手を乗せ、まるで子供をあやすようにポンポンと軽く叩いた。


「悪かったな、俺がいねぇ間、あんたが俺の分の仕事もやってくれたんだって聞いたぜ。迷惑かけたな、大丈夫か?」


 どうも誰かが余計な話を吹き込んでしまったらしい。

 逆に謝られて心配までされて、私は泣きたくなってくる。


 謝らなければいけないのは私の方だ。

 自分で決めた務めも果たせず、むしろ周囲に誤解を撒いてしまった上に、当の本人に慰められている。

 だというのに、彼と一緒にいると自分を責める気持ちはボロボロとほぐれて、ああ良かったと安堵してしまった。



「大丈夫だよ、大丈夫。君の方こそ疲れたんじゃないかい?」

「まぁ疲れたっちゃあ疲れたが。そうだ、あんたの名前はなんてぇんだ?俺はザグルだ」

「そう言えば自己紹介してなかったね。私は正岡だよ、ザグル君」

「マサオカ。マサオカだな、覚えた。よろしくな」


 そう言ってザグルはにこっと人懐っこく笑い、手を差し出してきた。

 握手しよう、というそのサインにこちらも手を差し出すと、指まで筋肉質な大きな手でがっちり握られた。


「こちらこそ、これからもよろしく。私で助けになれる事なら、できるだけのことはするよ」

「おう、あんがとな!」


 本心からの約束のつもりで言うと、ザグルは嬉しそうに歯を見せた。


 どこまで私の気持ちを汲んでくれたのか、正直に言って本当に分からない。

 私が思っているよりずっと浅い気もするし、そう見せかけてかなり深く理解してくれた気もする。

 だがどうあれ、名前を聞いてくれたのは仲良くなろうという意味だろう。それだけは確かだ。


 その気持ちに今度こそ応えようと決めて、私はザグルの手をしっかりと握り返した。


 彼を見守り、力になれる事は出来るだけしよう。

 監視や保護の必要な異邦人ではなく、もっとお互いに理解し合える友人として。

 そう心に決めたその日が、私の務めのスタートラインとなった。



 余談だが、翌日からザグルは何故か私を「マサオ」と呼ぶようになった。

 それを聞いた従業員がみんな私をマサオと呼ぶようになったので、以来私の名前はマサオになってしまった。

 その呼び名の理由を知るのは、それからだいぶ後の事になる。

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