最終話  春を待つ花の下で(1)

 青々と晴れた空に浮かぶ雲は軽やかで、その空を覆う少し濃いピンク色の桜の花びらは、既にその多くが散って足元を染めていた。

 もう3月の上旬だ。

 急速に温かくなってくるこの時期は、コートを着て外を歩くと少し暑いくらいになる。


 先週末のあの夜にはダウンジャケットを着込んでいたザグルも、今日はパーカーだけを羽織って軽やかに歩いている。

 低い位置にある枝に頭をぶつけては「いてっ」と顔を顰めるものの、花は気に入ったようで何度も頭上を見上げていた。


 川沿いのこの並木の桜はすべて早咲きの桜だ。

 長く離れてしまった故郷の景色の中で一つだけ、ずっと懐かしさと共に覚えていた景色だ。


 まだ寒い時期に、満開の花と甘い香りを漂わせるこの桜並木は、いつも始まりの季節ではなく終わりの季節を見送ってくれる。

 寂しげにも見えるけれど、どこか優しいその在り方が私は好きだった。


 電車とバスを乗り継いで4時間、痛む腰をさすりながらも途中下車し、ここまで歩いて来たのは、ザグルにこの景色を見せたかったからだ。


「これが春ってやつか、いいもんだな」

 嬉しそうに笑うその頭も、点々と散る花びらに染められている。

「喜んでくれて良かった。これからどんどんあったかくなるよ」

 つられて微笑み返すと、不意にマスクを顎まで下ろした彼は腰をかがめ、私の頬に手を添えてそっと唇を重ねてきた。


 ざあっ、と風が吹く。

 一瞬何が起きたのか分からず、目を開けたまま風の音を聞いた私は、体を起こした彼と目が合うと、かーっと頬が熱くなった。


「ひっ、人前だよ!」

「よく見ろ、誰もいねぇだろ」


 ふと見まわすと確かに誰もいなかった。

 休日とはいえ花も終わりかけで少し風があるせいだろうか。

 それにしてもこんな不意打ちが来るとは、流石に予想していなかった。

 あの夜以来、ザグルはこうして遠慮なく私に触れてくる。


 


「申し訳ありません。せっかくの話し合いの場を無駄にしてしまって」


 汚してしまった床やテーブルの片付けが済んでから、私は部屋の真ん中に立って頭を下げた。


「いやいや、そんなことないよ!あれがベストだよ」

「そうですよ、片付けもしないで出て行った人の代わりに謝ることないですよ」

 口々にフォローする皆に頷いていた春馬教授には、「謝るのは私の方です」と逆に頭を下げられた。


「私の方こそ、結局この問題の解決を狭間さんに背負わせてしまいました。もっと私が話すべきことがあると思ったんですが、私が彼に言おうとしたのも同じことだったんです」

 それでも自分が言うより、あなたが言った方が彼の心には響いたでしょう、と教授は少しだけ微笑んだ。


「彼はもう子供ではありません。結衣や正岡に怪我をさせたことも、あなたやザグル君を刺そうとしたことも、本来なら警察に届ける必要があることです。それを揉め事の範囲で済ませる代わりに、私達には近づかないようにと条件を出すつもりでした。でもそれを狭間さんが言ってくれたお陰で、少なからず納得する形で解決できたんです」

 教授にとっても朋也は教え子の一人だ。何とかしてやりたいという思いはあったのだろう。


 それから2日後に教授から電話があり、朋也は知らせを受けてやってきた両親と共に東京へ戻ることになったという。

 今後彼には例外的に監視が付くらしい。

 果たして彼が立ち直れるのかは分からないけれど、少なくとも見守っていてくれる人はまだいるのだ。


 ザグルの方は逆に、監視を見破ってしまったので監視下から外れる代わりに、保護機関の一員として力を貸して欲しいと頼まれた。


 稀人は存在自体が都市伝説のような扱いなので、当然ながら保護機関は万年人手不足らしい。

 そのため機関員の大半は稀人に関わった事のある人か、監視を外された稀人自身なのだという。

 しかも安定していつも仕事がある訳ではないので、殆どの人は別の仕事をして生活しているのだ。


 要するに今までの生活と特に変わりはなく、他に稀人もいない今は万一の時のための情報を貰う程度に留まっている。




 研究室の片付けが終わる頃には、辺りは真っ暗で、私とザグルは近くのコンビニに寄って夕食を買った。

 大学から自宅までは少しかかるけれど、電車の駅までの往復を考えると歩いた方が近い。

 そんな訳で夜道を2人で歩きながら帰っていた時、ふと思い出して大学近くの神社に立ち寄った。


 かつて朋也と帰る途中に何度か立ち寄った神社だ。


 その境内にはいくつか桜の木があるけれど、一本だけ椿寒桜という2月には咲いているものがある。

 故郷の桜に似たそれは、この町で私が一番好きな桜だ。


 近付いて行くと甘くしっとりとした香りが漂ってきた。

 暗がりでも分かる薄桃色の花弁は、足元も不確かな暗がりの中、おぼろな月明かりに眩しく輝いて見えた。


 ひんやりとした空気に沁みるようなその香りを胸いっぱいに吸い込むと、朋也との思い出が蘇ってきた。


「昔私が熱を出してて、朋也がバイトを代わってくれたことがあったの」


 大丈夫だよ、これくらいなら動けないことはないから、と何度も断る私に、朋也はいつになく頑固な顔をした。

 こんなに熱があるなら、動けると言っても絶対ミスが出る。

 それで周りに迷惑をかけたり怪我をしては元も子もないと、彼は厳しい顔で窘めながら私の両肩に手を乗せた。


「彼は『ちゃんと頼ってくれ』って、『友達や彼氏なんてこういう時のためにいるようなもんだろ』って言ってくれたの」


 こんな話をする相手じゃないと分かってはいたけれど、今はザグルがしてくれるように、朋也もかつては私を支えてくれていたのだ。

 たとえ今の姿がどうだろうと、そのために朋也の全部を否定しないで欲しかった。


 そう思いながらザグルを見上げると、私の顔をじっと見下ろした彼は、光る金色の目で頷くように一度ゆっくり瞬きし、

「そうかぁ、悪ぃ奴でもなかったんだな」

と呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る