研究室の集い(3)
一息つこうと2杯目の飲み物を取りに行くと、我も我もと結局全員が席を立って来た。
使い捨ての紙コップは量が入らないし、今日の寒さではすぐに冷めてしまうのだ。
窓の外を見ると雨は止んだようだけれど、風はまだ強そうで木の枝が揺れている。
再び温かいものを口にして、少し落ち着いた雰囲気なったところで、口を開いたのは春馬教授だった。
「さっきのお話ですが、多野君に改めてお聞きしたい点があります。もしザグル君が結衣を慕っていると思ったなら、どうして結衣に出て行けと言ったんですか?」
「それはお話の通りです。結衣が身近に居るからザグル君は心変わりしていると思ったんです。なら結衣にここを離れてもらうのが一番だと思って」
「それはつまり、ザグル君が結衣を追って行ったりしないことが前提ですか?」
そう言えば、と私も朋也の顔を見た。
ザグルと結衣の仲が本当に進展していたなら、結衣を追い出してしまうと彼も出て行く可能性が高い。
いくら今は同居していると言っても、都合よくザグルが私の元に残ってくれるとは限らないのだ。
けれどその質問に対する朋也の答えは、ひどくあっけらかんとしたものだった。
「どちらでも同じじゃないですか。もし結衣もザグル君も居なくなるなら、雪江はまた新しい出会いも出来るでしょう」
「新しい出会い、と言いますと?多野君、あなたがもう一度狭間さんにお付き合いを申し込むという事ですか?」
「それはないですよ。僕は雪江が好きですけど、彼女と会ったり話したりするつもりは無かったんです」
「ちょっと待って、朋也。自分の言ってる意味が本当に分かってる?」
これにはさすがに口を挟まずにはいられなかった。
「もし結衣だけじゃなくザグもいなくなっても、私に事情の説明もしに来ないつもりだったの?自分がしたことを謝る気もなかったってこと?」
「謝るってどういうこと?君のために悪役になるのに、何で僕の方が謝るの?」
きょとんとした朋也の顔には、罪悪感の欠片も見えない。
どうして責められているのか心底分からない、というその顔を見た瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
ザグルだけでも引き止めるのか、何があったのか私に伝えに来てくれるのなら、勝手だけれどまだ理解できる。
けれど彼にはそんなつもりは全くなかったのだ。
「もし朋也の思惑通りになってたら、私は大事な人を2人も突然失くす事になったのよ。理由も分からずに、いきなり取り残されてたかも知れないのよ」
「君のためじゃないか。だいたい彼等は人間でもないし、そこのザグルだって君が面倒を見てるようなものだろう?そのくせ君を裏切ろうとしてるんなら、早く縁を切った方がいいはずだよ」
何の迷いもないその言葉に、私は体が震えだしそうだった。
急速に脳裏に浮かび上がってきたのは、昨夜見ていた悪夢だ。
両親に次いで現れた結衣とザグルは、いつもの夢と同じように私が手を伸ばすこともできず、声も掛けられないままに去って行こうとしていた。
しかし私の両手首を握って放そうとしない朋也は、私には何の情も執着もない顔をしていた。
あの恐ろしい夢がもう少しで現実になるところだった。
それなのに、朋也はそこに何の責任もないと思っているのか。
「私のためって何!? そんなこと私は一度も望んだことないわ! 2人が人間じゃないなんてことが何の関係があるの? そんな自己満足のために2人を手にかけようとしたの!?」
体中の血が一気に頭へ上って来る。
たまらず激高して立ち上がったとたん、テーブルにガツンと足が突き当たり、衝撃で紙コップが転がった。
飲みかけのココアがテーブルと床に広がり、私の膝まで飛び散ってくる。
驚いたように腰を浮かせたザグルが、私の足元にしゃがむのが視界の端に入ってきた。
けれど私の視線は、目を見開いた朋也の顔から離せなかった。
「もし結衣とザグルが恋仲になったら、確かに寂しいけど私は2人を応援するわ。気まずいって言うなら引っ越してくれてもいい。2人が動けないなら私が出て行ったっていい。でもその前に2人と話して、お別れだけはちゃんと言いたいの。大事な人にお別れも言えずに去られたらどれだけ辛いか、あなたには話したはずじゃない……!」
心臓がドクドクと鳴る音が耳の中まで響いていた。
一息に喋ったせいで息が切れ、ぶつけた膝にもじわりと痛みが広がっていく。
こんな事になって初めて分かったのは、私の頭には人間か稀人かなどと言う区別はもはやなく、ザグルや結衣を本当に家族のように思っていたという事だった。
もし2人を突然失うことになれば、きっとそれも私の悪夢になる。
なのにそれを知っていた筈の彼は、私の言葉でそれを思い出すどころか、むしろ裏切られたかのように呆然とした顔になった。
「どうしてそんなこと言うのさ……。結衣とザグル君は大事でも、僕は邪魔だってこと?」
どうしてなの、と呆然としたいのは私の方だ。
朋也は付き合っていた頃、確かに私に優しかった。
今も私を好きだと言ってくれた、その言葉にも嘘はないのだろう。
ザグルと結衣の写真を送ってきたメッセージも、きっと私を助けるために送ってきたものだ。
そんな彼を信じていたくて私はここまで来てしまった。
私を本当に大切に思ってくれるなら、私が何を大切にしていて何を望んでいるのか、きちんと話せば分かってくれると思っていた。
けれど今の彼は、昔のように私を愛しているわけじゃない。
幸せになって欲しいと、私のためだと言いながら、彼はずっと報われない自分の思いだけに囚われている。
私の思いをこれだけ言葉にしても、彼の顔には受け入れるどころか、私への不信感が浮かぶばかりだ。もう私の言葉では理解し合うことも、彼をその泥沼から救うこともできない。
私が甘かったのだ。
君のためだと言いながら、自分の願望を満たすためだけに動いている朋也と、私は何も変わらない。
彼を止めたいのなら、もっと覚悟して彼だけを救うことを考える必要があったのだ。
でも今の私には、彼にそこまで心を尽くす事はできない。
今の私が側にいて欲しいのはザグルや結衣だ。
ならば私は最初から、2人を守る事だけを考えなければならなかった。
視界がゆらゆらと不安定に滲んでいく。
頭に上っていた血がそのまま目から流れ出ていくような、そんな錯覚を覚えるほど熱い涙が溢れてきた。
「落ち着け、ユキ。泣かんでいい、お前が泣くことはねぇんだ」
穏やかな声と当時に、ザグルの大きな手が私の頭に乗せられた。
そのままポンポンといつものように軽く叩いていた手は、すぐに労わるように頭を撫で始めた。
11月のあの日から、冬の寒さに凍える私をこの手はいつも守ってくれていた。
何度も何度も、折れそうになる私を励まし、時には忠告し、私の思いを知ろうとしてくれた。
ザグルだけじゃない。
今まで朋也との間に起きたことを全て伏せ、今日も一人で立ち向かおうとしていた結衣も。
自分が稀人に関わっている事すら知らずに居た私を、ずっと見守っていてくれた見知らぬ人達も。
それなら一つだけ、私が言わなければならないことが残っている。
「朋也」
「なに?」
顔を上げて朋也の顔を見ると、彼はこちらをじっと見ていた。
その瞳はあくまで澄んでいて、きっとこのまま何も言わなければ、同じことを繰り返していくのだろう。
一つ息を吸い、お腹に力を入れる。
これから自分が言うことを、忘れないように自分の記憶に刻む。
「あなたはもう、私にもザグルにも結衣にも関わらないで。稀人を同じ人だと思えないなら、稀人にも保護機関にも、2度と関わろうとしないで」
震えないように両手を握り締め、足を踏ん張って噛みしめるように言葉を紡いだ。
こんな事を言うくらいしか、もう私が彼のためにできることはない。
もう愛されない苦しみから逃げて。愛せない者の顔を見ようとしないで。
それが一番難しいのだとしても、そうしなければ彼はずっと報われないままだ。
瞳を揺らした朋也の顔には、みるみる失望したような色が広がっていく。
それを見る私が本当に辛いのだと、彼はいつか気付いてくれるのだろうか。
やがて目を伏せ、ふっとため息をついた後、もう一度顔を上げた時には、彼はどこか遠くを見るような目をしていた。
「……そっか。よく分かったよ。雪江にはもう僕は必要なかったんだね」
諦めたようにぐったりと背中を丸めた彼は、それ以上一言も喋らなかった。
そのまま彼は、部屋の片付けのために皆が動き回っている間に、春馬教授に挨拶をして、風の吹く夜の街へと去っていった。
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