分かり合えない思い(3)

 ぽつんと雨が落ちてきて、地面にうつ伏せにされた僕の耳にひやりとする雫が当たった。

 と思ったとたんにバラバラと温室の屋根に当たる雨の音がし始めて、背中で

「うーつめてぇ、さみぃ」

とぼやく声がした。


 騒ぎを聞きつけた数人の学生と教授が集まって来て、どうやらその中の誰かが警察を呼んだらしい。

 首だけを回して雪江の姿を探すと、彼女は結衣に寄り添って温室から出てくるところだった。


「どうすんだ、こいつこのままケーサツってやつに引き渡すのか?」

 僕の腕と背中を押さえつけていた稀人の男は、保護機関の一員らしい男にそう声を掛けると、不意に脇の下に手を突っ込んできた。

 そのまま羽交い絞めの状態で引き起こされ、近くの建物の軒下へと運ばれる。


 自分で歩く、放せと小声で抗議すると、

「運んでやってんのに文句言うんじゃねぇ、縛って雨ざらしにすんぞ」

と耳元で凄まれ、フンッと鼻息まで吹きかけられた。


 遠目にしか見た事がないが、予想通りガラの悪い男らしい。

 おまけに体も息も獣臭くて鼻が曲がりそうだ。

 雪江は一体どうしてこんな奴と同棲しているのかと、動かせない腕で頭を抱えたくなった。



 こいつの存在がなければ、僕はそもそも今日ここに来ていない。

 でも同時にこいつに止められなければ、僕は雪江に気付きもせずに怪我をさせたかも知れない。


 手に持っていたナイフは結衣から取り上げたもので、それで人を刺そうというつもりは毛頭なかったが、通路に立ち塞がる人影をどかそうと、脅すように向けていたのは確かだ。

 よりによってそれが雪江だという事に、僕は声を掛けられるまで気付かなかった。


「ザグ、怪我してない?」

 こちらに真っすぐ近づいてきた雪江は、僕の頭より上の稀人の顔を心配そうに見上げた。

「ああ、何ともねぇよ。ユキは大丈夫か?」

 さっき僕を脅しつけた声とは打って変わって、雪江に答える声は安心させるように穏やかだ。

 ザグ、ユキ、と親し気に呼び合う2人の視線は、間に挟まれた僕を完全に素通りしている。


「私は大丈夫。結衣も背中を打っただけだって。正岡さんは分からないけど」

 そう言って雪江が視線を移した先で、正岡と呼ばれた男は集まってきた学生たちと警備員に対応していた。

「警察呼んじゃったみたいだけど、こんなとこ学部の人間じゃなきゃ来ないからね。迷ってなきゃいいけど」

 雪江の隣に立った結衣は正門がある方向を見てそう言った。


 敷地の北西に位置するここは南東にある正門から遠く、案内板にもないので、確かに部外者が来られるような場所ではない。

 集まっていた人間が解散すると、正岡という男はスマホを見ながらこちらへやって来た。


「警備員の方に説明してきました。学生同士のちょっとした揉め事で、怒鳴り合いになっただけですと。警察には代わりに説明してくださるそうです。それと会長がこちらへ着いたそうなので、研究室に移動しましょう」

「えっ、春馬教授もいらしたんですか?」

「ええ、ここで起きた事を伝えたら、多野君ときちんと話し合いたいということでした。よろしいですね、多野朋也君」


 いきなり名前を呼ばれて、僕は反射的に体を強張らせた。

 両親や結衣の事を考えれば当然だったが、僕の名前は保護機関にもとうに知られていたらしい。

 しかもその会長は、学部の教授の一人だった春馬教授なのか。


 確認と言うより念押しのように言った正岡は、にこかやな顔のまま目を眇めた。

 その視線の妙な迫力に、訳も分からず「は、はい」と頷いてしまう。


 混乱する僕をよそに、結衣はすたすたと講義棟の入口へと歩き出し、雪江は何か言いたげな顔をしたものの、すぐに結衣の後に続いた。



「マサオ、どこまで行くんだ?運ぶんならこいつの足持ってくれ」

「ああすみません、すっかりお任せしてしまいましたね」

 稀人に呼ばれて振り向いた正岡は、にこやかに笑うと僕の両足に手をかけてきた。

 ぐいっと持ち上げられて体が宙ぶらりんになり、そのまま連れて行かれそうになる。慌てて僕は声を上げた。


「待ってくれ、自分で歩く!もう放してくれ、話ができるなら逃げる気はないんだ」

「そうですか、そうしていただけるとこちらとしては助かります。ですがまた突き飛ばされてはかないませんからね。ザグル君、そっちの腕持って」


 一見穏やかそうな顔をしているが、正岡はこの場で一番僕に刺々しい視線をくれている。

 左の肘をその正岡に、右を稀人、ザグルにがっしり掴まれた。


 羽交い絞めからは解放されたが、今度は両脇から引きずられ、まるで囚人のように研究室へ連行された。

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