分かり合えない思い(4)

「どうして結衣ちゃんにあんなことを言ったの?」

 結衣と言い争った翌日、雨音の響く僕の部屋にやって来て、母が最初に口にした言葉はそれだった。

 僕との間に起きたことを、結衣は保護機関に相談したらしく、その一員だった母が呼ばれたのだ。


 寝耳に水だったわ、と困惑した顔の母は、部屋の奥へ招こうとした僕の腕を掴み、玄関に立ったまま話し始めた。


「友達が僕と付き合うのが気に入らない、って喧嘩を仕掛けてきたのは向こうだよ」

「それだけじゃないでしょう、朋也。どうして稀人を嫌ってるの?彼らは故郷とも親しい人たちとも離れて、たった一人でこの世界に来て不安な思いをしてるのよ。いつも話してたじゃない」


 稀人をそう思うなら、どうして僕の事は同じように考えないんだ、と言い返したかった。


 僕は自分を放置するような両親を自ら選んで生まれたわけじゃない。

 故郷に未練はなくても、たった一人でこの町まで来たのは、そうしなければあなたたちが自分を見てくれないからだ。

 誰にも相談できずにここまで来て、今も一人で、僕が不安な思いをしているとはどうして考えないんだ。


 けれどそんな事を口にする気力は無かった。

 事ここに至っても、両親が心配するのは稀人である結衣の方だ。

 責められるべきは僕で、母はそれを諫めにきただけ。

 僕の思いに耳を傾けに来たわけじゃない。


 そうと分かっていて、それでも話をしようと思えるほど、僕はもう両親を信じられなくなっていた。

「学費ならいずれちゃんと返すよ。もう僕には構わないで」

 自分でも驚くほど冷たい声が出て、絶句した母はそれ以上何も言わずに出て行った。


 その後、保護機関や結衣の間でどんな話があったのかは分からない。

 けれど雪江は結衣を稀人と知らなかったせいか、僕と結衣が揉めた事も知らされなかった様子だ。


 その代わりなのか、結衣はバイトの時以外はほとんど雪江について回るようになった。

 見張られているような居心地の悪さに、イライラした僕は何度か結衣と話をつけようとしたけれど、いつもその前に逃げられた。



 逆に雪江は付き合い始めると自分の事も話すようになって、そしていつも優しく笑ってくれた。

 このまま彼女と一緒にいれば、僕はもう誰にも振り回されず、幸せになれるような気がした。


 けれどその翌年の初め、雪江はひどく体調を崩した。

 毎晩眠れない様子で、一緒に食事をしていると箸が止まり、顔色もいつも悪い。

 無理して笑う顔が心配でわけを訊くと、彼女は思い切ったように話を始めた。


「ここに来る前の夢を見てるの。家族が突然いなくなる夢でね」

 そう言って語られたのは、雪江の両親との思い出、そして突然亡くなった悲しみ、故郷との関わりを失ってこの町で独りだという事、そして今また両親を失う悪夢で眠れない事、だった。


 黙って話を聞きながら、僕の頭の中はぐちゃぐちゃに引っ掻き回されるような気分で、相槌を打つだけで精一杯だった。



 僕はいつの日か、雪江にも自分の両親への思いを話すことがあるだろうと、彼女になら理解してもらえるだろうと、当然のように思っていた。

 優しい彼女なら僕の苦しみを聞けば、きっと辛かっただろうと言ってくれる。

 そうすれば僕も、両親をもう愛せない自分を許して、誰にも自分を見てもらえない苦しみからも抜け出せる、と。


 だが雪江は、僕とはあらゆる意味で真逆の人だったのだ。

 両親を今も愛し、また愛された記憶と共にある彼女は、それゆえに悪夢を見るという。

 僕には悪夢を止める方法どころか、そうまで両親を思う気持ちすら理解できない。


 その一方で僕にはいつでも帰れる実家があり、バイトしているのも生活費の足し程度だ。

 故郷の家の始末がどうだとか、財産がどうだとか、そんな話は想像も及ばなかった。


 彼女が暇さえあればバイトしていて、一緒に出掛ける時間すらろくに無いことが、僕はひそかに不満ですらあった。

 何のためにそこまでするんだ、もう少しバイトの時間を減らしてゆっくりすればいい、そして一緒に過ごす時間を作ってくれればと、呑気にそんな事を考えていた。


「早く何とかしなきゃって、私も思ってはいるんだけど……どうしていいのかまだ分からなくて」

 助けを求めるような顔をしてそう言葉を切った雪江に、何も言えることがない僕は、真っすぐ雪江の顔を見ることもできなかった。


「僕にそんなこと言われてもどうしようもないよ」

 ようやく小さく口に出した言葉は、情けない僕の気持ちをそのまま言っただけだった。

 その瞬間、目を見開いた雪江の落胆した顔が目に飛び込んできて、僕はせめてもう少し何かマシな事を言えばよかった、と後悔した。


 しかし彼女の表情が曇ったのは一瞬で、すぐにいつもの笑顔に戻っていた。

「うん、ごめんね。これは私の問題だし、自分で何とかするよ」

 そう言って立ち去る彼女に、それ以上何も声を掛けられなかった。


 後から考えれば、僕と雪江の関係はこの時終わっていたのだろう。


 雪江の存在を唯一の支えのように感じていた僕は、情けないと思いながらも離れがたかったし、彼女も僕の言葉をどう思ったのか、何事もなかったかのようにそれまで通り僕と付き合い続けた。


 僕は彼女に自分の思いを話せず、彼女もあれきり僕に素顔を見せようとしない。

 そんな状態でズルズルと交際は続き、やがて彼女から結婚の話が出た時、僕は進退窮まってしまった。


 雪江の事は好きだった。ずっと一緒にいられたら、と思う気持ちはあった。

 けれど僕らは致命的に分かり合えないままで、このまま結婚したら、この口に出せない苦しみも一生残ってしまう。


 離れられないのに、心からは分かり合えない。

 矛盾した気持ちで雪江を困らせていることは分かっていた。


 そんな中で研修の話があり、これを機に本気で結婚を考えてほしいと言われた僕は、離れて過ごば気持ちの整理がつくかも知れない、とそこに望みを託した。



 だが研修で戻った東京で、僕は同じ年の女性、夏樹に酒に酔って雪江との話をしてしまった。


「分かるわそれって。愛されて育った人って、親は子供を愛するのが当たり前みたいに思ってるから、そういうこと想像しないんだよね」


 悩んでいたところに掛けられたその言葉は、僕の中の雪江の姿を、全く別のもののように思わせた。


 僕は雪江の心配をして理由を訊ねたけれど、結婚を言い出されて悩む僕の気持ちを、彼女は真剣に訊ねてくれたことはない。

 何も話してないんだから当たり前だ、と分かっていたのに、その時の僕はその考えに囚われた。

 そのまま酒を呷ると、誘われるまま夏樹と一夜を共にした。


 それから夏樹の部屋に通うようになった僕は、そのうち自宅に戻らなくなっていった。

 同棲しているも同然の状態で、何度も彼女と関係を持った僕は、早く雪江に別れを言わなければと思いながら言い出せなかった。


 研修で部屋を引き払うことになるから、帰ったら一緒に住めるようにと雪江に頼んでいて、もう引っ越したと連絡が来ていたのだ。

 もう帰らないんだと、好きな人ができたんだと、そう告げたら雪江は何と言うだろうか。それを考えると恐ろしかった。


 そうして先延ばしにし続けていると、毎朝来る挨拶のメッセージすら苦痛になり、「忙しくてスマホも見られない」と言い訳して返事をしないでいると、やがて諦めたように連絡は来なくなった。


 研修は予定の3か月を過ぎたが、雪江からはそのまま連絡が来ずに日々が過ぎ、当初の上限だった6か月が近づいても、もう何も言ってこなかった。

 ここまで来ればもはや、雪江と僕の関係は自然消滅してしまったんだ、と思った。


 久しぶりにメッセージが来たのは、その年の11月になってからだ。

「まだ帰れないの?もう約束も過ぎたよ。一言でいいから連絡してほしい」


 その一言だけのメッセージを見た僕は、どうして今になって、と画面を見て泣き出したくなった。

 もっと早くに連絡をくれていれば、正直に自分の気持ちを話して、もしかしたら雪江の元に戻ることも出来たかも知れない。

 だがその頃には、夏樹の体調に異変が起きていた。



 僕はもう雪江を幸せにすることはできない。

 分かり合うことはできなくても、一番幸せになって欲しいと思うその人を、完全に裏切ってしまった。

 彼女が今でも自分を待っているとは、本気で思っていなかったのだ。

 きっと僕の事は忘れて、自分と同じように他の誰かを好きになって、だから一切連絡してこないんだろうと、そう思い込んでいた。


 そう思えば自分が楽だから、という事にすら気付かずに。



 僕が雪江に最後に望んだのは、それでも幸せになって欲しいという事だった。


 身勝手でもなんでも、彼女が孤独なまま寂しく生きていくのは嫌だ。

 2度と僕のように、彼女に更に辛い思いをさせる人間が現れないように。

 そして自分にも理解してくれる人が現れたように、彼女を理解して癒してくれる人が現れるように。


 そう願ったのに、夏樹と別れた僕がこの町に戻って最初に見たのは、駅前で稀人の男に付きまとわれる雪江の姿だった。

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