長い長い夜の話(2)

 そこまで話したところで、ザグルが妙に静かなので私は顔を上げた。

 こちらを見つめてじっと動かない彼の目は、いつもより更に大きく見開かれている。


 どうしたの、と言いかけて気が付いた。

 金色の瞳は輪郭がぼやけるように潤み、その下の頬を光るものが伝っていたのだ。


「ザグ!?ちょっと待って、何で泣いてるの!?」

「何でもなにもねぇだろ、ユキお前よぉ……!」

 頬を伝う涙を拭こうと手を伸ばすと、ザグルにその手を掴まれて、ぎゅうぎゅう握り締められた。


「あのな、俺ぁ聞いちまったんだよ、ユキの親はもういねぇって。挙句にこんなひっろい部屋に一人で残されてよ、頼るアテもねぇんじゃお前、怖かったろうが……!」


 言いながらもザグルの目からは涙がどんどん溢れて止まらない。

 きつく握られた手が痛くて腕を引こうとすると、逆にぐいっと引っ張られて胸元に抱き寄せられてしまった。


「そりゃまぁ……寂しかったけどさ。でもそうなっちゃったものは仕方ないし」


 それにここからが本題なんだけど、と言おうとしたのも間に合わず、後ろ頭に手をかけられ、胸元に顔を押し付けられてしまった。

 丸太のような腕が背中を覆うように絡みつき、身を捩ることも出来ないほど抱き締められる。抱かれているというよりしがみつかれているような感じだ。


 そう思った瞬間に、彼の体が小さく震えているのが分かって、私は続く言葉が出なくなった。


 この世界に来たばかりの頃は、ザグルもそういう心境だったのだ。


 親兄弟どころか同族すらいない、道を歩けば異様なものを見る目で見られる彼は、どこにも縁はないし頼れる人もいない。

 不安を顔には出さなかったし、何とかしようと自分で動いてはいたけれど、結衣の話をした時にぽつりと漏らしたように、怖いと口にしたくてもできなかったのかも知れない。


「仕方なくねぇよ、そいつがいなけりゃ一人で無駄に待つ事も、傷つくこともねぇで済んだろうが!恨めよ、そんな奴!」


 駄々っ子のように泣きながらそんなことを言うけれど、彼自身も恨んでいい相手は沢山居るはずだ。

 彼を創った作家でも、たぶん同情から彼をこの世界に呼んだのだろう無数の読者でも、何も悪いことはしていないのに嫌悪の視線を向ける人達でも。


 なのに誰にも恨み言を言わない彼に、そんな事を言われたって困る。


「……恨んでいいって言われてもさ、そうは思えないんだからしょうもないよね。とんだ似た者同士だわ、私たちって」

「似てねぇよ!くそっ」

 しまいには悪態をつく彼の背中に、そっと腕を伸ばして抱き返すと、ポンポンと軽く叩いた。


 ずっと私の願いばかり聞こうとして、自分からは何も望んでこなかった彼の、これが初めて見せた我が儘だ。

 我が儘と呼ぶにはあまりに優しいその望みに、心の奥に固く留めていた感覚が、体温と共に蘇ってくる。

 しゃくりあげる彼の胸元に顔を埋めたまま、静かに零れ出した涙を、私はこっそり彼の服に押し付けて拭った。


 寂しいとも、怖いとも、今までずっと感じる余裕が無かった。

 両親が死んだあの日から、私は一度も泣かなかったように思う。


 しっかりしなければ、一人で生きていけるようにならなければ、とそればかりを考えてきた。

 なのにザグルに泣かれ、お前も泣けと言わんばかりに抱き締められたら、自然と涙が零れてきてなかなか止まらなかった。

 抱き合ったまま2人してぐすぐす泣くと、ゆっくりと靄が晴れていくようで、胸は苦しいのに体が軽くなっていく。


 かつて朋也に両親の話をした時、私はきっとこんな風に一緒に泣いて欲しかったのだ。消えない悲しみはどうしようもなくても、泣いていいよと寄り添ってくれる、それだけで良かったのだ。



 ひとしきり泣いて気が済んだ私達は、どちらからともなく洗面所に向かった。

 冷たい水で顔を洗うとすっかり目が冴えて、頭もすっきりしたおかげでしばらく眠れそうにない。


 私は話そうとしていた本題を、もう一度頭の中で整理した。


 朋也と別れたのは3年前だけど、最後に顔を見たのはその年の春だから、もう4年近くは会っていない。

 部屋を引っ越したのは彼がこの町を離れた後だから、私がどこに住んでいるのかも知らないはずだ。


 ザグルと私の休日はほとんど噛み合わないから、人目につく昼間に2人で出掛けることは少ないし、出かけるとしてもザグルはフードにマスクで顔を隠している。

 写真のように顔を出しているのは食事の時だけだ。


 だというのに朋也は、ザグルを「私の彼氏じゃないのか」と言ってきたのだ。

 たまたま結衣とザグルを見かけただけなら、私と結衣が友達だとは知っているけれど、ザグルと私の関係なんて分かるはずがない。

 という事は私と彼の関係をそれより以前に知っていた事になる。


 一体いつどうしてそれを知ったのか、朋也からのメッセージで一番不気味なのはそこだった。



 私はラインの画面をもう一度開いてみる。

 メッセの入っていた時刻は12時10分、いつも12時を過ぎて休憩室に入るから、スマホをチェックする直前だ。

 それより前のものは3年前だし、返事をしていないのでそれ以降の連絡もない。


「これさ、送られてきたのが4日前なんだけど、ザグが結衣と会ったのっていつ?」

 画面を指さして訊ねると、ザグルは体を捻って後ろのカレンダーを見た。

「ちょっと待ってくれ……、今日がもう27日だよな、なら4日前だ」

 そう言ってトントンと叩いたのは23日の日付だ。メッセが来たのと同じ日である。


「ならやっぱりその場で送ったみたいね。その時って誰かに見られてるとか、特に感じなかった?」

「いや、あんときゃ俺じゃなくてユイの方が見られてたからなぁ。それに俺が人目につくのはいつもの事だしよ」

「そう言えばそうよね、ごめん」


 確かに顔を隠していても目立つ巨体のせいで、ザグルと外を歩く時は視線を感じないことの方が少ない。

 1人2人に見られているからと言って、いちいち気にしていたら神経が持たないだろう。


「いや謝るようなことじゃねぇ。それに俺も慣れちまってるから、尾けられたのも気付かなくてよ、すまんな」

「尾けられた、ってどういうこと?」

「違うのか?こいつ俺がちょうどここに帰ってきた頃に連絡してきてるぜ」

 そう言って時刻を指さすザグルに、私は一瞬固まった。


「えっ?これお昼時じゃなかったの?」

「ああ、メシ食ったの11時だからな。話だけして晩飯の買い物して帰ったから、たぶんこれくらいの時間に帰ってるぜ」

「まさか、じゃあ家までついて来てたってこと……!?」


 写真の2人は昼食をとっているところなので、時間的にその場で送って来たんだと思っていたけれど、そうなると1時間も後だという事になる。


 夕食の買い物をして帰る部屋がよその家、なんてことは普通ないと思うから、それを見越して追って来ればあっさり家の場所は分かるだろう。

 それより前に私の部屋を知っていたなら、私がザグルと同居しているというのもその時に分かるはずだ。


 だから写真を撮ってすぐではなく、1時間後に送ってきたのか。

 ただそうなると、ザグルを追ってきた理由がよく分からない。


 その時まで私との関係を知らなかったなら、彼の住所を確かめようとしたのは何故なんだろう?

 もっと言えば、朋也にとっては私との関係なんて今更蒸し返したいものじゃないはずなのに、家の場所なんてどうして知っていたんだろう?



 もう一つ分からないのは、私たちの関係を知らないのにあの写真を撮っていた、その理由だ。


 メッセの通り「お前の彼氏が浮気してるぞ」と告げ口するために撮ったなら、その時点で知っていないとおかしいことになる。

 もし家まで追って来て初めて知ったのなら、写真を撮った理由は別にあるはずだ。

 となるとザグルか結衣か、どちらかに何か関心があったのか。


 心当たりとしては元から知り合いの結衣が、珍しくスカートを履いていることだ。


 結衣と朋也が直接話しているところはあまり見たことがないけれど、もし彼女に関心があったなら、まず女性らしいお洒落はしない人だというのは覚えているだろう。そんな彼女がお洒落をして会っている相手、となると交際相手だと思うのは理解できる。


 それを気にするというのは、つまり結衣が好きだという事なのだろうか。

 しかしそれなら、直接彼女に接触するのではなく、こっそり写真を撮った理由は何なのか。


 いずれにせよこれが本当に浮気の現場の写真なら、間違いなくザグルと私だけではなく、結衣とザグル、そして結衣と私の間にも亀裂が入る。

 写真を送ってきた狙いはそこにあるんだろうか?



 こうなるともう、自分の事ばかり悩んでもいられない。


 結衣やザグルに何かするつもりなのか、もっと他の理由があるのか、今すぐ朋也に聞きたいけれど、素直に話してくれるかどうかも不明だ。

 毎晩の悪夢で迷惑も心配もかけているのに、何も打ち明けられない私を助けようとしてくれる2人に、もしなにか良からぬことをしようとしているなら、黙って見ている訳にはいかない。

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