第12話 長い長い夜の話(1)

「お疲れ様、ザグ。ちょっと座ろう」

 トイレから出てきて洗い物も済ませたザグルに、私は淹れたてのココアを渡した。

 疲れたような顔をしていた彼は、それを受け取るとふっと少し笑った。


 眩しいので居間の灯りを一段階落とし、コタツに揃って入るとホッとする。

 暖房を切っていたのでまだ部屋は寒く、いつもなら向かいに座る彼は、私の真横に半ば無理やり座ると、ブランケットで肩を覆ってくれた。


 時計の針が2時半を指しているのを見ながら、ザグルにはひどい夜だよなぁ、と思う。

 いつもと様子が違うのを心配して踏み込んだら、いきなり頭突きをかまされて、隠し事を喋らされて、訳も分からずキスされて、不本意な醜態までさらして。


 それでも文句も言わずに自分で始末をして、私の体を気遣ってくれる彼には、もう色々と打ち明けてしまった方がいいはずだ、と思えた。


「あのね、3日前……じゃなくてもう4日前かな。ザグが結衣と会ってたってこと、実は知らされてたの」

「知らされた?ならやっぱり結衣から聞いてたのか」

「ううん、結衣からはなんにも。けど別の人から写真が送られてきたの」


 私はスマホの画面を開いて、朋也から送られてきたラインを見せた。

 もう大方の字は読めるらしいザグルは、それを見て「うへぇ」と顔を歪めた。


「こりゃ誰だ?ユキの知り合いか」

「知り合いって言えばそうね、けどもう3年も付き合いは全くなかったの。そもそもこの町からいなくなってたから」


 私はスマホを両手で持って膝の上に乗せると、ライトの消えた画面に映る自分の目を見ながら、朋也とのことを思い返した。



 結衣と知り合ってから1年後、彼女といつものように講義室を移動している途中で、後ろから呼び止められたのが最初だった。


「狭間先輩、すみません」

 控えめに掛けられた言葉に振り向くと、まだ幼げな顔の新入生らしき男子が、真新しいショルダーバッグを脇にぎゅっと抱えて、心持ち不安そうな目をして立っていた。

 声を掛けて来たものの、「あの、えっと」とその先を言いよどみ、目を合わせようとすると逸らしてしまう。


 彼の方は私の名前を知っているようだけど、残念ながらこちらは全く見覚えがない。

 学部棟にいるんだから同じ学部だろう、ということは分かるけれど、新歓コンパにもバイトで出られなかった私は、顔合わせの場にもいなかったのだ。


「ゆっきー、あたし先に行ってるわね」

 自分が隣に居るから話しにくいのだと思ったのか、結衣はさっとその場から離れた。


「どうしたの、何か相談事?」

 結衣が立ち去るとようやく近くまでやって来た彼は、そこでぺこんと頭を下げた。


「あの、初めまして、多野朋也おおのともやと言います。その、狭間先輩がここの食堂でバイトしてると聞いたんです」

「うん?確かにそうだけど」

「僕もその、バイトしたいんですけど、どうやって行けばいいのか分からなくて」

「あっ、ああ!紹介してほしいってことね?」

「そうです、あの、お願いできますか?」


 そういう事なら私も身に覚えがあった。

 高校時代は進学のための勉強漬けで、バイトなんてしている暇もないから、いざ進学して働こうと思ってから困ったのだ。

 学生を受け入れてくれるバイト先なんて一体どうやって探せばいいのか、どこから話をつければいいのかも分からない。


 困って学部の先輩に相談すると、同じ学部のよしみでと紹介をしてもらい、履歴書はいらないよ、と面接もそこそこに入れてもらった記憶がある。

 見たところ真面目そうな彼は紹介しても問題なさそうなので、

「いいよ、じゃあ夕方4時に行くからお店の前にいて」

と約束して店長に話し、その日のうちに彼も働くことになった。



 生活費を賄うために、昼でも講義のない日はシフトを入れていた私は、彼と何度も会うのでよく話をするようになった。


 打ち解けてくると彼は、最初のおどおどした様子とは違って、どちらかと言えば堂々としていて、お客への対応で困る様子もなかった。

 大学構内なのでよく外国人も来るけれど、英語で話しかけられてもすんなり対応できる。

 元々顔立ちが優しい雰囲気なのもあって、パートのおば様たちにはすぐ人気になった。


 忙しい夕方以降の時間には、自然と肩を並べて仕事をすることも多い。

 それでもふっと空き時間ができることはあるので、色々と仕事以外の話もした。


 そういう時によく話したのは、暇さえあれば一緒にいる結衣の話だった。

 自分の事となるとバイト三昧で話のネタがないけれど、何でもやりたがる彼女は話題に事欠かなかったからだ。



 朋也が働き始めて2か月ほどした頃、オーダーストップ直前でのんびりしていた時、普段ならピークの時間にしか来ない結衣が駆け込みでやって来た。


 初対面の時に一緒にいて、その後バイトの紹介をしたと話したのもあって、彼女と朋也も顔見知りになっていた。

「すっかり仲良しじゃん、妬けるわー」

 と私たちの顔を交互に見ながら冗談交じりに言う彼女に、

「はいはい、何食べたいの?」

と適当に流して注文を取っていたら、隣で朋也が真っ赤になっていた。


 結衣が行ってしまってから「どうしたの?」と訊くと、俯いた朋也は「いいえ、何でもないです」と首を横に振った。

 それきり何も言わないまま片付けになり、私も敢えて事情を聞こうとはしなかった。

 ところが翌週のバイトが終わってから、彼にクマのぬいぐるみを差し出された。


「僕と付き合ってください」

 直球で頼まれた私は混乱した。

 単なるバイト仲間と思っていた彼に、まさか好意を向けられているとは思ってもみなかった。


 そもそも会う度に話していたのは結衣の事ばかりだ。自分の話はほぼしたことがない。

 いつから好意を持たれていたのか分からないけれど、彼は私の仕事上の顔しか知らないだろう。

 断ろうとしてそれを言うと、彼はほとんど縋るような目をした。


「でも、雪江さんがすごく結衣さんを大事にしてるってことは分かります。友達を大事にする人なんだって」


 そう言われると否定のしようがなかった。

 迷いはあったものの、結局プレゼントを受け取って付き合い始めた。



 いざ付き合い始めてからも、私はバイトか就活で忙しくしていたので、話すのはやはり仕事中かその後が多かった。

 それでも告白されてからは、お互いを名前で呼び合うようになり、日が暮れてからの帰り道は朋也が送ってくれるようになった。


 あまりベタベタしたがらない彼は、自分の事もあまりオープンに話さないけれど、私に過度に干渉することもなく、かと言って全くの無関心でもなく、適度な距離がある関係が続いていた。


 私の方が2年先に卒業し、この町でそのまま就職してからも、休みになれば会って話し、買い物に行ったり夕食を一緒にとることもあった。

 ただ1度も彼の部屋には行ったことはなく、彼が私の部屋に来ることもなかった。


 彼の居ない時間はどこか寂しい、と思う気持ちが無いわけではなかった。

 それでもその時は、まだ学生なのだから学業が優先だし、会えば嬉しそうな顔をする彼の顔を見られるだけで満足だった。



 けれど朋也が卒業しても、微妙な関係はそのまま続いた。

 同じくこの町で就職した彼は、仕事になかなか慣れることが出来ず、休日はゆっくりしたいと言うので顔を合わせる時間も減った。

 そうなって来ると、私はだんだん不安になってきた。


 私が地元に帰らなかった一番の理由は、距離ができれば彼との将来を考えるのが難しくなるからだ。

 なのにあの告白以降、彼から切実に求められることもなく、将来を誓うこともなく、そういう話をしようとすれば「まだ考えられない」という返事しか来ない。

 自分が焦っているのは分かっていたけれど、20代の折り返しを迎えたところで、私はどうするべきなのかとても迷った。


 その年に朋也に舞い込んだのが、東京の本社での研修だった。

 期間は3か月から半年というその話に、「これを区切りに結婚を真剣に考えて欲しい」と頼み、やっと彼も動く気になってくれた。


「帰ってきたら2人で住めるように部屋を引っ越そう、探すの頼んでもいい?」

 と言い出したのは彼だった。

 彼が今住んでいる部屋を畳むのなら、確かに戻って来られる部屋を用意しておいた方がいい。

 そう思った私は承諾し、すぐに手ごろな物件を探し始め、2か月でそこへ引っ越した。



 けれど3か月が経っても帰るという連絡はなかった。

 元々伸びれば6か月はかかるという話だったけれど、伸びたという知らせも来ない。


 最初の頃に「忙しくてスマホも見られない」と朋也に言われてから、私は自分から連絡するのを遠慮していた。

 せめて挨拶だけでも、と送っていた「おはよう」という一言も、全く返事がないのでそのうち送れなくなった。


 彼はよほど忙しいんだろう、我慢しようと思っているうちに、とうとう8か月が経った。


 冷たい風の吹く11月9日、27歳の誕生日を一人で迎えた私は、その日ついに我慢出来ずにメッセージを送った。


「まだ帰れないの?もう約束も過ぎたよ。一言でいいから連絡してほしい」

 震える手で打ったその言葉を思い切って送信した。

 緊張で胸が破裂しそうになっていた。


 驚いたことに朋也からの返事はすぐに来た。

 しばらく返信は来ないと思っていたので、スマホを置いて家事に戻ろうとした瞬間、背後で鳴った着信音に飛び上がりそうになった。


 慌てて振り返った私はスマホを手に取り、はやる心を押さえながらメッセージを読んだ。

 けれどそこに書かれていた短い一言は、目を疑うようなものだった。


「もう自然消滅したと思ってたよ。雪江からは何も連絡がないし。ごめんね、もう帰らないから、雪江も自分の幸せを考えて」


 あの日と同じだ、と私は天を仰いでその場にへなへなと座り込んだ。


 どうして、何があったの、とこの時電話でもすればきちんと話ができたのかも知れない。

 けれどもはや話し合う余地は無いのだと、私に対して少しも思いを残していないのだと、瞬時に悟ってしまった。


 彼も私を置いて去ってしまった。

 帰って来るとは言わなかったけれど、部屋を用意して欲しいと言い残して行ったのに、それきり顔を見ることも叶わなくなった。

 簡単に会いに行けるような距離でもなく、彼が私とはもう別れたつもりでいたのなら、会いたいと言ったところで戻っては来ないだろう。


 最後に顔を見る事すら叶わない。

 私の大切な人達は、当然のようにまた笑顔を見られると、無邪気に信じて油断している隙に、いつも手の届かない所へ行ってしまう。


 いっそ居なくなるのが私の方なら良いのに。



 朋也が東京に行ってすぐ、あちらの会社の女性と付き合い始めて、そのまま同棲していたと聞いたのは、学生時代に食堂によく来ていた彼の友達からだった。


 買い物中に偶然出会った彼は何の気なしにその話を始めて、私が何も知らなかったと聞くとひどく驚いた。

 話が食い違うと言うので朋也との間に起きたことを説明すると、彼は目を丸くしてそれを聞いた後、人目も憚らずに頭を下げた。


「ごめん、僕の友達が酷いことをした」

 まるで自分が悪い事をしたかのような顔で、彼は何度も謝ってくれた。

 けれどもちろん彼には何の落ち度もない。

 私は「気を遣わせてごめん」と謝り返し、それきり彼とも会っていない。

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