悪夢から抜け出して(2)
「ちょっ……大丈夫!?」
「お前なぁっ、なにも頭突きかますこたぁねぇだろ!?勝手に入ったのは悪かったけどよ!」
慌ててベッドから降りて手を伸ばすと、ザグルはがばっと起き上がって珍しく大声を上げた。
よほど痛かったのかちょっと涙目になっている。
「いや別に、部屋に入ったのは怒ってないけど……」
言われてみれば、ザグルはこの寝室に入ったことは一度も無い。
彼はいつも私より先に起きているけれど、寝坊しそうになっていても部屋の外からドアを叩くだけで、中まで入って直接起こしには来ないのだ。
あまり意識したことは無かったけれど、ザグルがそうしてくれるお陰で、寝室では寛いだ格好で居られた。
二人暮らしになってからすっかり手狭になったアパートで、それでも落ち着ける場所があったのは、彼がきちんとプライベートな空間を分けてくれていたからなのだ。
それを悟ると同時に、ドアの真横に寝ていた姿を思い出していじらしくなる。
内心でほっとする私に、しかし当のザグルは、いきなり明かりを点けられてまだ周囲が良く見えないのか、両手で目を覆いながら尚も私の顔色を窺った。
「なら何だ?ああ、名前で呼んだのがダメだったのか?」
「名前?そう言えばいつもはユキって呼ぶよね」
意味が分からず問い返すと、ザグルはハッと口に手をやり、
「でけぇ声で呼んじまった」
と小さく呟くと、何かとんでもない事をしでかしたような顔をして、おろおろと周囲を見回した。
「何か気になるの?私は本名で呼ばれるの普通だから慣れてるよ」
首を傾げながら訊くと、ザグルは私の顔に視線を戻して困ったように眉尻を下げた。
ようやく私の表情が見えるようになったらしい。
「これも違うのかよ、じゃあ何だ?昨日の晩飯……は喜んで食ってたよな。いや待て、思い出すから待ってくれ」
どうも私が怒って頭突きしたものと本気で思っているらしく、彼は独り言のようにあれこれ言いながら考え込んでしまった。
「ザグ、落ち着いて。そもそも怒ってないからさ。むしろ起こしてくれて助かったし」
久しぶりのことで私自身も驚いたけれど、悪夢から覚める時に飛び起きてしまうことは前にもあった。
しかも今日の夢見は最悪だ。
夢の中で逃げようとしていた反動がもろに出ただけで、ザグルの顔が目の前にあると分かっていた訳じゃない。
それに今まで何度もうなされていたけれど、彼の方から起こしに来たのは初めてで、驚きの方が先に来た。
仮に腹を立てたとしても、一思いに頭突きするような根性なんて私には無い。
淡々と説明すると、ザグルは気の抜けたような顔で後ろ頭をコリコリと掻いた。
「そりゃあ、『やめて』とか『放して』とか叫んでっから誰か入って来たのかと思ってよ……。じゃあほんとに怒ってるわけじゃねぇんだな?」
うん、と頷くと彼はホッとしたように肩の力を抜いた。
けれどそれでも何か別の事が頭にあるようで、微妙にまだ目が泳いでいる。
ちらちらとこちらを窺うその顔は、どことなく大事な物を壊した子供のそれに似ていた。
「何をそんなに気にしてるの?やましいことでもあるの?」
「いっ、いや違ぇよ!……あ、あのな、一応言っとくがユイをいじめたりはしてねぇからな?」
慌てて両手を広げて否定しながらも、彼は上目遣いに私の顔色を窺いながらそう言った。
このタイミングでそれを言い出すとは、語るに落ちるというものである。
「ふぅん、ユイをいじめるような事したの?」
腕を組んで目を眇めて見せると、ザグルは露骨にしまったという顔になった。
「だから違ぇって!ちょっとあれだ、あんま話したがらねぇこと訊いただけだ」
「つまり無理やり秘密を喋らせたってことなのね?」
頭の上から見下ろすようにして、視線を逸らせないように顔を覗き込むと、観念したように頭を差し出された。
殴っていいぞ、という意味らしい。
「……なんだ、その、すまん」
「素直でよろしい」
よしよし、と頭を撫でると、顔を上げた彼はぐにゃりと眉を歪めて溜息を吐いた。
なるほどそういうことか、と3日前からの疑問が1つ解ける。
朋也からのメッセージで最初に気になったのは、ザグルが結衣と会った事をどうして一言も話さないのか、という事だった。
ただ友人として会っただけなら別に隠すことでもないし、満を持してバレンタインに告白してきた直後で、いきなり心変わりというのも考えにくい。
だから朋也が示唆したような疑いは最初からなかったけれど、黙っている理由は気になっていた。その理由がつまりこれだ。
私の友人である結衣に、本人が言いたがらない何かを言わせた、それが後ろめたかった。
あるいはその内容が、私には話せないような何かだったか。
「何を聞いたのかは知らないけどさ、ザグが結衣に酷いことしないのは分かってるよ。大事な用だったんでしょ?」
「ああ、大事な用だ。他に聞ける奴がいそうになくてな」
多分その用とは何か私に関わる事だ、という事はあの日帰宅してすぐに分かった。
玄関を開けてすぐに漂ってきたのが、野菜を煮た時の甘く香ばしい匂いだったのだ。
ザグルが一度も作ったことがなく、興味も示さなかった野菜の料理が、その晩急にレパートリーに加わった。アイデアを出したのはきっと結衣なんだろう。
私は一歩前に踏み出すと、足を投げ出して座り込んでいるザグルの前にしゃがんだ。
彼はぎょっとしたように後ろに下がろうとして、壁に背中が突き当たって慌てて体を縮めようとする。
その顔に手を伸ばし、両手で挟むように捕まえて目を合わせた。
怒ってなんかいない。怒る理由がない。
2人が私に何も言わないのは、それが気遣いなのだと分かるくらいには、大切にされていると感じている。
腹が立つとしたら、心配をかけてばかりの自分自身に対してだ。
「ポトフ美味しかったよ、つみれ入りのスープも」
「そうか、ならよかった……ンぐっ」
ホッとしつつも困惑気味の顔をしたザグルの口に、私はそのまま自分の唇を重ねた。
しゃっくりのような声を出して言葉を止めた彼の後ろ頭に、そっと腕を回して抱きとめる。
ぐっ、と力を入れると胸が当たって、温かな彼の体温が腕の中いっぱいに広がった。
自分の心臓が跳ねるように鳴りだして、彼の耳にまで届いてしまっている気がした。
今さらこんなに緊張するなんて、と恥ずかしいのを誤魔化すようにきつく唇を合わせ、半開きになった口に舌を滑り込ませた。
口の端に牙が当たったのを感じた瞬間、彼の熱を帯びた舌先に触れた。
途端に引っ込みかけた舌を逃がさないように絡めて、刈り上げられた頭のざりざりと短い毛が残る場所に指を這わせる。
固い毛の感触が心地よくて、そのまま首の後ろへゆっくりと指を滑らせると、ピクッ、と肩が跳ねるのが指先に伝わって来た。
「ザグル」
そっと唇を放して名前を呼ぶと、大きく見開かれた金の目があった。
暗がりのせいか瞳孔がいつもより開いた瞳は、そのままピクリとも動かない。
頭に添えていた両手を放して胸に当て、しばらくその顔を見つめていると、ザグルの体はいきなりがくんと左に傾いてベッドに頭を投げ出した。
「えっ、あれ?ザグ!?」
半分焦点の合わない目をしたまま横倒しになったザグルは、ベッドに腕をつくとゼェゼェと荒く息をついていた。
脱力しているのかぐったり動かないので、慌てて額に手を当てると、
「待て、それ以上触んねぇでくれ」
と手を前に突き出された。
どうしよう、人間にはない病気か何かだろうか、とどうしていいのか分からず焦っていると、ザグルは深く息を吸って「はぁあああ」と盛大に息を吐き、体を起こした。
「大丈夫?どうしたらいい?」
顔色が気になって手を伸ばしかけ、触らないでくれと言われたのを思い出して引っ込めようとすると、彼はその手を掴んで立ち上がった。
「トイレ」
一言そう言い放ち、お漏らしをした子供のように蟹歩きで部屋を出ていくのを見て、私はようやく何が起きたのかを察した。
「……可愛いなぁ」
トイレのドアが閉まる音がしてから、つい本人には聞かせられないような感想が漏れてくる。
朋也にあの手の事をしてもいつも反応が薄かったので、男の人とはそういうものなんだと思っていたから、この激烈な反応はかなり新鮮だった。
ちょっと惜しい気もするけれど、自分はちゃんと彼の中で女性に見えているんだ、と思うと、くすぐったいような気持になる。
とはいえこれはものすごく情けない気分だろうな、と思うとそこは申し訳ない。
明らかに私が先走り過ぎたせいだ。
せめて気が落ち着くものでも淹れてあげよう、と考えた私はキッチンに向かい、牛乳を鍋で沸かし始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます