病名は風邪ですよ(2)
その時バタン、と寝室のドアが開いて、雪江がふらふらと部屋から出てきた。
「え、ちょっとゆっきー……」
赤い顔で目も虚ろなまま歩く姿に、咄嗟に手を貸そうとしたものの、彼女は私を片手で制した。
そのまま水の中を歩くような足取りでザグルの前まで行くと、立ち上がりかけた彼の頭からふわっと覆いかぶさった。
「お、おい、ユキ!?」
「ザグ、ごめんね」
静かなその言葉に、うろたえていたザグルもすぐに黙った。
そんな彼の頭をぎゅっと抱え込むようにして、雪江は子供をあやすようにその後ろ頭を撫でた。
「大丈夫、この程度で死ぬほど人間は弱くないよ。でも心配してくれてありがとう。熱はしょっちゅう出してたけど、ずっと誰かが傍にいるなんて初めてだから、私もどうしていいか分からなかったの」
そう言うと、彼女は腕を緩めてザグルと視線を合わせた。
「……ほんとに死なねぇか?約束するか?」
「うん、約束する。もし死ぬほどしんどかったらちゃんと病院行くよ」
「分かった……信じる」
真剣な顔をした2人は、互いの目を見て頷き合った。
まるでとても神聖な誓いのような、これから最後の戦いに挑む前のヒーロー達のようなそのやり取りを、私はぽかんと口を開けて見守った。
ちょっと待て、風邪一つでそこまで盛り上がる?
と置いてけぼりの私の頭の中ではツッコミが炸裂する。
けれどそんな冷静な自分がいる一方で、本気で心配しているザグルと、その気持ちを汲んで真面目に応える雪江の横顔が、少し眩しくも見えた。
しかしこうなるとお邪魔な雰囲気なので、早々に撤収するのみである。
私はささっとコートを着なおしてコンビニの袋も拾い、玄関へと向かった。
「じゃ、おじゃましましたー!」
と一声かけると、2人は揃ってびっくりしたように振り向き、見送りに出てきてくれた。
「ありがとね、結衣。世話かけちゃってごめん」
「いーのいーの!にしても、結構マジで仲いいみたいじゃない。ちょっと安心した」
「心配が過ぎるけどね……むしろこっちが心配なんだけど」
靴を履きながら軽く冷やかしてやると、雪江はハァと疲れたように息を吐いた。
「いいじゃない。オークは人間とは敵対関係だったんだし、お互いそんな普通に心配できるならいい事だわ」
2人の顔を交互に見ながらそう言うと、不意にザグルの表情が緩んだ。
心なしか敵を睨むような目をしていたのが、ふと少しだけ口元で笑って、小さく頷いた。
「実感こもってんな、ユイ。あんたも人間じゃねぇし、やっぱり馴染めなくて困ったりしたのか?」
「そうそう、あたしも色々言われたしね……、えっ?」
返事をしかけて、靴紐を結んでいた手が止まった。
ナチュラルなザグルの問いかけに思わず頷いてしまってから、その意味に気付いて頭が真っ白になる。
「何言ってるのザグ?結衣……?」
「あ?えっ?」
その場の気温が一気に3度は下がった気がする。
私はぽかんと口を開けたまま動けなかった。
そうか、彼も稀人だ、と目が覚めるような気分だった。
「異種族」というものが空想の産物でしかないこの世界の人間と違って、当然のように存在する世界の住人だったザグルは、何かの要素で違う種族は分かるのだろう。
ドアを開けた時から彼が不機嫌だったのは、このせいだったのかと腑に落ちた。
「すまん、余計な事言っちまったみてぇだな」
これはまずい、という顔でザグルは頭を掻いていた。悪気があってバラしたつもりはなかったらしい。
「ううん、気にしないでいいわ。ゆっきーはもう休んだ方がいいし、今日はひとまず帰るね」
「待って、どういうこと?結衣が人間じゃないってなに?」
雪江は混乱しているのか、説明を求めるように、私とザグルの顔を交互に見上げていた。
そんな雪江の顔を見た私達は、思わず顔を見合わせた。
「お願いだからちゃんと話して、ねぇ!」
「ごめん、ゆっきー。また今度話すよ。長くなるから元気な時にしよう、ね?」
慌てて宥めようと雪江の肩を軽く叩くと、彼女はその手に縋りつくように握りしめてきた。
驚きと混乱に目を見開き、熱のだるさも忘れたような顔をしている彼女に、しかし今すぐ簡単に話せる事でも無い。
話が長くなるというのもあるけれど、何より少し整理が必要だった。
「ほんとに、ほんとに話してくれる!?何も言わずに居なくなるなんて嫌よ!?」
「そんな事しないって!べつに隠すことでもなかったんだけど、言いそびれちゃってそれっきりだったの」
いきなり飛び出した「何も言わずに居なくなる」という言葉に、私は少なからず動揺した。
彼女の中にはどうしても消せない一つの不安がある。
その原因も知っていたし、今まで私はそれを彼女に思い出させないように、出来る限り気を配っていたつもりだった。
それがこんな隠し事一つで、簡単に揺らがせてしまう。
それほど根深いものなのだと、思い知らされるようだった。
上手く言えずに立ち竦む私の腕を、雪江は必死で掴んで離さない。
そんな彼女を押し留めてくれたのはザグルだった。
「大丈夫だ、ユキ。こいつはお前が大事だから、今日だって来てくれたんだろ?こんなに不安になってるお前を無視して、どっか行ったりはしねぇよ」
しゃがんで雪江と目線を合わせると、さっきとは逆にザグルが彼女の頭を撫でた。
穏やかな声でゆっくりと、安心させるように言われたその言葉に、今にも泣きそうだった彼女の頬が、ハッとしたように引き締まる。
それで少し落ち着いたのか、彼女は手を下ろして真剣な眼差しで私の目を見た。
「今度の休み、空けておくから」
「うん、しっかり休んで。私も話したい事いっぱいあるし、ゆっくり会おう」
約束だよ、と雪江の手を握ると、熱のこもった指がぎゅっと握り返してくれた。
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