第6話 約束の前夜に(1)

 冷たく澄んだ星空の下、私はフリースのブランケットを被って、ベランダで洗濯物をネットに小分けしていた。


 どこからともなく若い女の子の笑い声が聞こえてきて、闇の中に消えていく。

 学生が多く住むこの住宅街は、夜になってもよく人の声がする。週末ともなれば深夜まで人の気配がすることもあるくらいだ。


 私にとっても普段は少し気分が軽い日のはずが、今日はずっと落ち着かなかった。


 結衣が帰ってからこの6日間は、悶々としながら彼女のことを思い返して過ごした。

 私は大学入学を機にこの町に移り住んで来たけれど、他県から来た人は卒業後に残る事が少なく、地元民以外の友人はほぼいない。

 そんな中でずっと転居もせず、一人暮らしを続けている結衣のような人は珍しかった。


「家族はいるの?出身はどこ?」などと訊いたことはあったが、「ここが地元だよ」とだけ言ってそれ以上は何も答えなかったので、敢えて詳しく訊ねたことはない。

 私自身もそういう質問をされると、やや答えに詰まってしまう立場なので、そんなものだろうと思っていた。


 その家族の事以外では、結衣に関してとりわけ引っかかる事もなく、ましてや人間ではない、などと窺わせるような素振りを見せたことは一度もなかった。

 けれど出会った頃の出来事や、周囲の人たちの言葉を思い出してみれば、あれがそうだったのか、と今更のように気が付いた。


 


 結衣と初めて出会ったのは、大学2年になったばかりの日、講堂の中でだった。


 講義が終わって外に出ようとしたところで、知り合いに呼び止められて振り返ると、教団近くの席で学生が騒いでいて、ちょっとした人垣ができていた。

 皆が何を言っていたのかは詳しく覚えていない。ただ、何かのポーズを取ってくれとか、ファッションがイメージと違うとか、そんな内容だったことを覚えている。


 その人垣の真ん中には、さっぱりしたショートボブがよく似合う、細身の女性が立っていた。

「ユウイだよ、ほら、最近までよくコマーシャルでやってたゲームの」

 声を掛けてきた知り合いは、人垣のやや後ろに立った私にそう耳打ちしてきた。


 ユウイ、と言われてもピンとこない私は、話の内容から声優さんの名前だろうか、と考えた。

 演じたキャラクターに似ているという事なのか、それにしてもずいぶん勝手を言うなぁと思った。

 しかも入学して1年は経つのに、その名前に聞き覚えがなかった。


「ユウイさん?そんな名前の人いたっけ?」

 首を傾げて問い返すと、彼女は一瞬、変な顔をして私を見た。

 それからふと、納得したように小さく頷いた。


「別の大学から移ってきたらしいよ。春野結衣って言ってたから名前は違うけどね。でもユウイだよ、見たことない?」

「ううん、知らないけど……似てるだけで名前も違うなら違うんじゃないの?」

「いや、そうじゃなくてさぁ」


 呆れたような顔をされたその時、人垣が僅かにずれて、その真ん中にいた彼女の表情がはっきり見えた。


 遠目には笑っているように見えたけれど、彼女の目は助けを求めるように彷徨っていた。

 物言いたげに口元が動いているのに、次々声を掛けられて言い出せないでいる様子で、ひどく困っている顔だった。

 周囲は誰も気付かないのか、そんな彼女にお構いなしで盛り上がっている。

 これは何とかしなきゃ、と思った瞬間に言葉が出ていた。


「ゲームの話は分からないけど、そのキャラクターとその人は別人でしょ?似てるからって一緒にするのは失礼だと思うよ、困ってるじゃない」


 みんなを止めよう、という気持ちの分だけ、私の声は自然と大きくなったように思う。

 けれどさほど大声で怒鳴ったつもりもないのに、それだけで辺りは静まり返ってしまった。

 しかもその場にいた全員が、私を振り向いてぽかんとしている。


 当の結衣はと言えば、彼女もひどく驚いた顔で私を見ていた。


 そして次の瞬間には、どっと笑いが巻き起こった。

 その反応に、どうもよほど見当違いの事を言ったらしい、と察したものの、理由を訊いても笑われるばかりで、誰も説明してはくれない。


 代わりに声を掛けてくれたのは、講堂の奥で片づけをしていた教授だった。

「狭間さんの言うとおりだよ。君たちは楽しいつもりかも知れないけど、春野さんは本当に困った顔をしてるよ。ほら、次の講義があるだろう、外に出なさい」


 その言葉に、時計を見た学生たちは慌てて結衣の周りから離れ、講堂の外へと行ってしまった。

 あっという間に人垣がなくなって、その場には結衣と私だけが残された。


「あの…ごめんなさい。もしかしてすごく失礼なこと言った?」

 私の顔をじっと見ている結衣に、恐る恐る声をかけると、彼女は不意に一歩踏み出してきて私の手を握った。

「いやぜんぜん!謝る事なんかないわ!その、ただびっくりして、えっと」

 そこで言葉を探すように口ごもったので、ああと私は気が付いた。


「狭間です、狭間雪江。あなたは春野結衣さんだよね?なんか、よく似た名前だね」

「雪江さんって言うんだ、ほんとよく似た名前だね。あ!じゃなくてその、ありがとう、すごく助かった」

 彼女はそう言って、肩から力を抜くとホッとしたように笑った。


 それから仲良くなるまでにはさほど時間を必要としなかった。

 結衣はとても話したがりで明るい性格だったが、今まであまり友達が出来たことがないと言って、「友達らしいことをやってみたい」と、色々なことに誘ってきた。

 私もさほど仲の良い友人は居なかったので、誘われるのが楽しくて、連れだってトイレに行くような些細な事から、共同で行う課題まで何でもやってみた。


 結衣が私の名前を「ゆっきー」と呼ぶようになったのもその一環だったらしい。

 彼女がオタクだと知ったのも、お泊り会をしてみたいと言い出した事が切っ掛けだった。


 お泊り会って何だろう、友達同士でそんなにやるもんなのかな、と疑問に思いつつもOKして、結衣の家へ行くことに決まった。

 そうして初めて足を踏み入れた彼女の部屋は、壁一面が書棚とストッカーで埋まっていて、まるで書庫のようだった。

 びっくりしながら何が入っているのかよく見てみると、その大半がライトノベルを中心とした小説と漫画、次いでDVDかブルーレイ、そしてゲームソフトである。


 圧倒されてぼーっと眺めていると、「ごめん、引いた?」と結衣は私の顔色を窺っていた。


「ううん、けどすごい量だね。これ全部目を通してるの?」

 感心したのか呆れたのか、自分でも分からなかったけれど、そこに傾けられた情熱は、否定するようなものではないという事だけは感じた。


「もちろんだよ!ゆっきーも見たいのとかある?好きなの出してくれればいいよ」

「いや……実は私、こういうの読み慣れてないの。ゲームもやったことないからよく分かんなくて」


 視線を滑らせただけでも分かる、自分がずっと縁遠かった世界の物ばかりが並ぶ部屋だ。

 何かを選べと言われてもどこからなら手を付けられるかも分からない。

 そう正直に話すと、結衣は「ふぅん……」と顎に手を当てて少し考えてから、すぐにストッカーの一つを開けて私に掲げて見せた。


「じゃあ今夜は一緒にゲームやってみよ!初めてでも遊べるの結構あるしさ」

 そうして誘われるまま初めてゲームで遊んで、ゆっくりと夜が更けていった。


 結衣が別の大学から移動してきた経緯を尋ねたのは、その日布団に入ってからだった。

「ほら、うちの大学ってそんなに全国的に有名な学部はないしさ。今いる学部だって転部で入る人はいるけど、転学してまで来る人はいない気がするし、どうしてかなって」


 疑問をそのまま口にすると、結衣は少しの間黙った。

 どう返事をするか迷う様子に、「やっぱりいいよ」と言おうとしたところで、彼女の方が口を開いた。


「あたしの保護者がね、東京に住んでたんだけど地元に帰るって言いだしたの」

「保護者さん?ご両親じゃなくて?」

「そう、血のつながりは全然ない人だよ。その人がこっちへ帰ることにしたから、あたしも一緒に行くかって。ほら、最初にゆっきーと会ったとき囲まれて困ってたじゃない?ああいう事が街中でも普通にあってさ、すごく大変だったの」


 既にに常夜灯だけになった暗い部屋の中で、その時彼女がどんな顔をしているのかは分からなかった。

 けれど家族の事を尋ねたときに「ここが地元だよ」と言っていたのを思い出すと、その経験がどんなものだったのかは想像がつく。

 仮に結衣の地元がここではなくても、帰りたい場所はここだという意味だったのだろう。


「この町は好き?」

「うん、ゆっきーと会えたからね」

 思わず口にしていた質問に、返ってきた結衣の言葉は幸せそうだった。

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