第5話 病名は風邪ですよ(1)

 年明けの忙しさもひとまず落ち着いた土曜日の朝10時、雪江からの電話で私は文字通り飛び起きた。

 急いで通話ボタンを押すと、妙にくぐもった雪江の声がして、

「どうしたの!?何泣いてんの!?」

 と思わず声がひっくり返ったけど、単なる風邪だと聞いてホッとした。


 学生のころから雪江は冬になると体調を崩して、2、3日寝込むくらいは普通だった。

 だから当人は慣れっこだったが、問題は同居人の方だったらしい。


 雪江の同居人はオークという異種族の稀人で、なぜか彼女があっさり部屋に置いてしまい、いつの間にか懐いて離れなくなった男だ。

 その男、ザグルが過剰に心配するので、対処に困って私に助けを求めてきたらしい。


「ごめんね結衣、こんな時だけ頼っちゃって」

 雪江のことだから電話口で頭も下げているんだろう、申し訳なさそうな顔が見えるような声だった。


「いいのいいの、あたしもザグル君と話してみたかったしさ。それでどうしてる?」

「今ね、大丈夫だからとにかく静かに寝かせて、って言ったら黙ってはくれたんだけど、ずっと寝室の前でうろうろしてるみたいなの」

「なにそれ、動物園のライオンみたい」


 心配で落ち着かないのだろうが、巨漢のオークが女の子一人に振り回されているのを想像すると、ちょっと笑いが漏れてしまう。


「そんな可愛いものならいいけどね。全然話聞いてくれないし、今日は仕事も休むって連絡入れちゃったみたい」

「あらら、すっかり重病人扱いね」

「ほんとに寝てれば治るんだけど……なかなか納得してくれなくて」


 言いながら雪江はケホッとひとつ咳をした。声もガラガラで、喋るのも辛いのだろう。


「それじゃ50秒で支度するから、あたしが行くまで我慢してね」

「50秒って、そんなに急がなくていいよ。今起きたんでしょ?朝ごはん食べてからおいでよ」

「あー、まぁなるべく急ぐよって意味だから。じゃ後でね!」


 単なるネタを真に受けて心配してくれる雪江は、こんな時でもやっぱり優しい。

 そんな彼女だからこそ、価値観の違う異種族にまで懐かれてるんだろうな、とも思う。


 ザグルはもちろん雪江にも内緒にしているけれど、彼の監視を密かに行っている人間は3人いて、そのうち1人は私なのだ。

 当然彼女に何かあったらすぐに引っぺがすつもりで待ち構えていたのに、初めて「困った」と言ってかけてきた電話がこれだ。


 ザグルが暴れてる、なら分かりやすく殴り込めるのに、心配し過ぎで困るなんてノロケかと一瞬思うくらいだ。



 朝食代わりのパンをコーヒーで流し込んでから、私は手早く着替えてコートを羽織り、コンビニへ走った。

 外の空気はひんやりと冷たいけれど、この時間にもなれば太陽が昇っていて背中を温めてくれる。

 白い息を吐きながらコンビニへ入って、レトルトのお粥とカップの味噌汁を買った。

 毎度のことだが熱を出すと雪江は食欲を失くすし、台所に立つのも面倒がって食事を抜くことが多いのだ。



「ゆっきー!大丈夫?まだ押し倒されてない?」

 呼び鈴を鳴らしながら雪江の部屋のドアの前で声を掛けると、ガチャッと鍵が開いてひどい仏頂面が現れた。


「誰だよ、あんた」

 機嫌の悪さを隠そうともせず顔を出したのは、雪江ではなく同居人の方だった。

 ドアの向こうで私の軽口を聞いていたらしく、ギロリと音がしそうな顔で睨みつけてくる。


 うん、私の第一印象はたぶん最悪だ。


「ごめんね結衣!ザグってば何て顔してるの、ほら向こうに行って」

 慌てて出てきた結衣は寝間着のままで、肩にブランケットを被っていた。

 私を追い返そうとでも言うかのように睨むザグルを、ぺんぺん尻を叩いて居間へと追いやり、部屋の中へ招いてくれた。


 雪江は昨日の昼に早退してから、ほとんどずっと寝ていると言ったので、部屋も散らかっているだろうと思ったら、意外に綺麗に片付いている。

 すぐに台所へ向かおうとするので、「あ、そんな気を使わないで」と止めると、横から大きな手がにゅっと伸びてきて湯飲みを取り上げた。


「適当にやっとくから休んでろ、こいつがユキの言ってた友達なんだろ?」

 と雪江の顔を見ながら言うと、不機嫌ながらもザグルはお茶を淹れ始めた。


「そうだゆっきー、何か食べてる?一応簡単に食べられそうなもの買って来たよ」

「え?あ、ありがとう……」


 袋をかざして見せると、雪江はちょっと驚いたような顔をした。

 その視線が物言いたげにうろうろするので、私は首を傾げた。


「うん?お腹いっぱい?」

「そう、ごめんね、ザグが今朝はさすがに食べろって。でもあんまり食べられなかったから」

 そう言って彼女はコタツの上の片手鍋を指さした。


 蓋を開けてみると立派な卵雑炊だ。具は竹輪にネギにカイワレとお手軽なものばかりとは言え、今の彼女が作るとは思えない代物である。

「これ、ひょっとして作ったのザグル君?」

 振り向いてそう訊いてみると、ザグルは「ああ」と頷いて眉を寄せた。


「もう少し食えって言ったんだけどよ、吐きそうだから無理だっつうんだ」

「ごめんね、寝てばっかりだし食欲もあんまりないの。またお昼に貰うから」


 おそらくこの手の説明を既に何度も繰り返しているのだろう、雪江の返事には疲れが混ざっている。

「あ、引き止めちゃってごめん。後はあたしが説明するから寝てていいよ」

「ありがとね、結衣。じゃあ休ませてもらうね」


 雪江はふにゃりと笑って寝室に向かうと、私たちに軽く手を振ってから静かにドアを閉めた。



 コートを脱いで言われるままハンガーにかけてから、私もコタツに座った。

「さて、と。まずは自己紹介かな?あたしは春野結衣。雪江とはもう10年くらいの友達よ」

「俺はザグルだ。つってもあんた、だいたい俺の事知ってんだろ?」


 真向かいに座ったザグルは、両腕を胸の前で組んで顎を突き出してきた。

 眉間には露骨に縦皺を寄せて、元々険しく見える目元を更に険しくしている。

 私の事情をどこまで察したのかは分からないが、射抜くような金の目はかなり剣呑だ。


「そうね、雪江に漫画貸したのあたしだってことは聞いてるでしょ?知らないのは君のスリーサイズくらいかな」

「軽口叩かないと喋れねぇのか、あんたは?」

 ちょっと和ませようとしてみたものの、よほど私が気に入らないのか、またもギロリと睨まれる。


 彼は自分を敵視したり怯えた目で見る人間には関わろうとしないが、普通に話をすればむしろフレンドリーだと聞いていたので、その反応は意外だった。


「じゃ、真面目な話しよっか。雪江は君が心配しすぎだって言うけど、どこがどう心配なの?」

「だって熱あるんだぞ?触っても分かるくらいあちぃんだよ!」


 いきなりそこからか、と一瞬で納得するセリフだった。

 スタートがこれだと雪江の苦労が分かる気がする。


「そりゃ風邪引けば熱くらい出るわよ、治すために体が熱出してるんだから」

「だから医者呼んでくるっつうのに、医者は呼ぶもんじゃねぇって聞かねんだ」

「ああ、こっちじゃ医者にかかりたかったら自分で病院行くもんなのよ。でも風邪くらいなら寝て治す人の方が多いわよ」


 恐らく雪江も何度もしたはずの説明を、第三者として繰り返す。

 病気に対する感覚がこちらとはかなり違うのだろうという事は分かるので、こちらの感覚をそのまま伝えるしかない。


 たぶん常備薬もこの辺にあるはず、と思って近くのストッカーを出してみると、予想通りその中の風邪薬の蓋が開いていた。

 それをザグルに見せると、「じゃあ薬は飲んだのか」と少し表情が緩んだ。

 が、それが逆に仇になったらしい。


「待てよ、じゃあ薬飲んでるのにずっと寝込んでるのか?」

「あー、えっとね、こういうのって症状を和らげるのが目的だから、すぐに治るわけじゃないの」


 薬を飲めば普通に動ける人もいるんだけど、という言葉は咄嗟に飲み込んだ。

 しかしその微妙な含みに気付いたのか、ザグルの目つきはさらに鋭くなった。


「でもよ、ほとんどメシ食わねぇんだぜ?たぶん体力落ちてんのに、食欲ねぇから食わねぇって」

「そりゃ熱出てるからね、食べても吐いちゃうくらい気持ち悪いときあるし」

「だったら医者呼ばねぇと死んじまうだろ!?」

「大丈夫だって、熱が下がるまで大人しくしてれば」

「だからほっといたらずっと熱下がんねぇじゃねぇか!」


 完全に堂々巡りである。よほど熱が気になるらしい。

 体が病気に対抗するために熱を出している、というのが飲み込めないのだろう。

 雪江がお手上げになったのはこのためか、と理解した。


「ひょっとしてザグル君って、病人見たことないんじゃない?」

「あるから言ってんだよ!熱出して寝込んだ奴は医者にかかれなきゃそのまんま死んじまうんだ!くそっ、ユキが死んじまう……!」


 何でそんなに落ち着き払ってんだ、ともどかしそうに立ち上がって、また寝室の方へ行こうとするのを、慌てて裾を引っ掴んで座らせた。

 これは確かに難物だ。


「待ちなって!ねぇ、オークってそんなに熱出さないもんなの?」

「あぁ?何でそうなる?」

「人間は割とポンポン熱出して寝込むもんだよ。ゆっきーはよく風邪ひく方だしさ」


 むしろザグルと出会ってから既に2か月になるというのに、今まで熱を出さなかったのが不思議なくらいだ。

 しょっちゅう警察には呼ばれるし、バイト先で大揉めして仕事中に呼び出されたと言うし、彼の事を知るために苦手なファンタジーを必死で読んでいたのだ。

 疲れが溜まっていたところに帰省までしたと言うから、以前の彼女ならもっと早々に寝込んでいそうなものである。


 しかしそれを話すと、ザグルはたちまち顔色を変えた。

 こうなったのは自分の責任だ、とでも思ったのか、ひどく心配そうな顔になる。


「あいつ病弱なのか!?じゃあやっぱり医者呼ばねぇと、ユキがじんじまっだらおれどうずりゃいいんだよ……!」

 心配が度を越したのか、彼は急に目を潤ませて鼻声になり、何を言っているのかよく分からなくなってしまった。


「だからさ、しょっちゅう病気してて慣れてるし、寝てれば治る程度だって分かるんだよ。それにもしさ、ゆっきーに何かあっても、ザグル君のことはちゃんと保護してもらえるようにあたしが頼むからさ」

「てめーはそれでもユキの友達かよ!?んなこと今心配するわけねーだろが!!」


 大声で怒鳴られて、これは流石に失言だった、と気が付いた。


 顔色をさらに赤くしたザグルは、コタツに両腕を突いて私を睨みながらこぶしを握り締めていた。

 力の入り過ぎたその腕は少し震えていて、ああ本気で怒らせたんだ、と急速に頭が冷えていく。


 雪江の存在は彼にとっては都合がいいし、優しい彼女に甘えている自覚も薄そうに見えた。

 自分が雪江の平穏を引っ掻き回している事も知らず、彼女が何も苦情を言わないからそれで良いと考えているのだと、そう思い込んでいた。

 けれどザグルは私が考えていたよりも、ずっと雪江を大事に思ってくれていたらしい。


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