第16話 日没

 ガタガタと左右に揺れる路面電車の中は、既に日が暮れて乗客の数は少ない。

 立っていると危ないので仕方なく座ったけれど、とても落ちついて座っていられず、無意識に足を前に出したり戻したりを繰り返していた。


 窓の外はほぼ真っ暗で、車内の明るい光は私の不安な顔をガラスに映し出している。


 時計の針は5時過ぎを指している。

 ザグルと別れてからもう1時間近く経つけれど、それ以降何もなかったのか、それとも手が離せない状況になっているのか、何も連絡はなかった。

 朋也にも繰り返しコールしているけれど、こちらもやはり返事がない。



「落ち着いてください、狭間さん。正岡とザグル君に行ってもらったのは万一の時のためです。まだ何が起こるとも分かっていません」

 春馬教授にはそう引き止められた。


 朋也は先月からずっと私達の周辺に現れていたけれど、実際に接触しようとはしなかったという。

 様子を探っていただけなのか、声を掛けるだけの動機もなかったのか。

 それが今日になって結衣の部屋の前で待機し、確実に会おうとしているので警戒していたところ、私に朋也からメッセージが来ていたと分かった。


 つまり私と2人の関係を壊す目論見が外れ、もはや直接結衣と会うしかないと考えたのだろう、と教授は言った。


 けれど私が気になるのはその目的だ。

 彼がこの町にやって来たのは11月だと言っていた。

 つまり私がザグルと出会う前か、出会ったばかりの頃だ。

 ザグルと同居はしていても、まだ面倒を見るのに必死で、どこかで見かけたとしてもとても恋人には見えなかっただろう。


 それが大きく変わったのが先月だ。

 それまで動かなかった朋也が、急にアクションを起こし始めたのがその時期なら、動機はむしろ私に関わっているように思う。



 私と別れてまで付き合い始めた人がいるなら、朋也は幸せになっているだろうと思っていた。

「雪江も自分の幸せを考えて」という3年前の最後のメッセージには、「自分も幸せになれたから」という意味もあるように読めた。

 なんて自分勝手な言い分だろう、と思ったけれど、少なくともその点は安心できたはずだった。


 けれど結局、恋人とうまくいかずに孤独な思いを抱えて戻ってきたのなら、復讐のためだけに動く気力があるとは思えない。

 ザグルの言葉を借りるなら「家族と一緒に過ごすもん」である正月を、彼は一人で過ごしたのだ。

 その痛みを知っていて、敢えて私を同じ目に遭わせようとするとは思えない。


 それでも結衣やザグルを私から引き離そうとするのは、あのメッセージの通り、私がもっと傷つくのを止めるつもりなんじゃないか、という気がするのだ。


 けれどこれは私の推測でしかない。

 本当に朋也が悪意を持って結衣に接触してきたわけじゃないとは言い切れないし、稀人の安全を優先する保護機関の人達に話しても、その判断が変わるわけじゃない。

 過去に敵意を向けられた結衣にも、私と朋也の話を聞いて怒ったザグルにも、彼に同情する余地は無いだろう。


 今この時に少しでも朋也の側に立てるのは、きっと私だけだ。

 そしてもし、彼が本気で結衣を傷つけるつもりでいるなら、それを止められるのも。


「結衣もザグも、朋也も私の大事な人なんです。まだ話をする余地があるなら私が行きます!」

 きっぱりとそう告げると、春馬教授は困った顔をしたものの、走り出す私をそれ以上止めなかった。




 大学前の駅に着き、そのすぐ近くにある結衣の部屋を訪ねると、そこには誰も居なかった。


 呼び鈴を鳴らしても返事はなく、ドアには鍵がかかっていて、既に暗いのに窓に灯りは見えない。

 部屋の近くにいたという朋也の姿も見当たらず、どうも2人ともここを離れた様子だ。

 慌てて結衣にもザグルにも電話をかけてみたけれど、どちらからも応答がない。


「結衣ー!朋也ー!ザグー!正岡さーん!」

 日が暮れているとはいえここは街中で、車通りも多く騒がしい。

 大声で呼んでも近くにいなければ聞こえないのは分かっていた。

 それでも焦る気持ちは声になり、夢中で4人の名前を呼びながら暗い通りを彷徨った。


 近くの商店や狭い路地の奥へ入り、目立つザグルの姿だけでも見た人が居ないか尋ねて回ったけれど、皆首を横に振るばかりだ。

 その間にも時間はどんどん過ぎていく。


 結衣はどこへ向かったんだろう、と泣きそうになるのを堪えて考える。

 仲良く話ができる関係じゃなくて、もしもの時には止めに来る人がいて、きっちり話をつけることが事態を収める方法だと考えたら、どこへ朋也を連れていくだろう。


 考えながらも走り続け、次第に息が切れて来た。


 こんな街中では人に聞かれずに話ができる場所というのは少ない。

 どこに行っても人目があるし、少々裏通りに入ったところで人通りはゼロにならない。

 アパートの部屋が1番無難な場所と言えるけど、そうなるとそっそり見張ることはできないから場所を変えたのだろう。


 落ち着いて考えよう、どこか近くに人気のない場所があるはずだ、と自分に言い聞かせる。

 学生時代にろくに街歩きをしなかった私には、人気がない場所と言われても咄嗟に浮かばないのだ。

 近いところで一番静かなのは、まだ春休み中の大学の構内くらいである。

 けれど大学の構内となると、極端に範囲が広くなってしまう。


 ふとそこまで考えて、朋也が結衣に告白したという場所が頭に浮かんだ。


 春馬教授の話では、彼は人目を避けるように結衣を温室に呼んで告白したという。

 その温室には私も心当たりがあった。

 講義の一環で利用される植物と熱帯魚が置かれたその温室は、簡易なダイヤル錠で閉めているだけで、常駐している教授がいるわけでもなく、内緒話にはもってこいの場所だ。

 ましてやこの時期、日が暮れてからそうそう人が来るわけもない。



 私はすぐに大学の方へ戻り、温室近くの北門へ駆け込んでいった。

 ひときわ目につく大きな建物は体育館だ。入って右手に見えるそれは敷地の北西にある。

 左側の建物は何だったか思い出せないけれど、温室があるのはその建物の向こう側だったはずだ。

 角を左へ曲がると、通路の脇に街灯が立っていて、更にそこを左へ入った奥にある。


 通路の右手に広がる芝生の手前にはツツジが植えられていて、花のない今は細かな葉だけがこんもりと茂っていた。

 10年前より建物は綺麗になっているけれど、植え込みも建物の位置も全く変わっていなくて、場違いな懐かしさに襲われた。


 ふと気が緩みかけたその時、街灯が目に入ったところで「バンッ!」と辺りに響く大きな物音がした。

 直後に「ガチャン」と今度は何かが割れるようなくぐもった音が聞こえてくる。


 まさに私が向かっている方向から聞こえてくる音に、嫌な予感が現実になっていくのが見えるようで、必死で走る足がもつれそうになった。



 息を切らせてようやく通路の端にたどり着き、温室の方を向いた私はそこで足が止まった。

 開いたままだった温室のドアから、突き飛ばされたように植え込みの上に転がる細身の男性が目に飛び込んで来たのだ。

 この距離でも分かる華奢な姿は、たぶん正岡さんだろう。


 ひゅっ、と喉から息が漏れる。

 直後にもう一人の男性が温室から飛び出してきた。

 その男性は動けない様子の正岡さんを一瞥すると、すぐさまこちらへ向きを変え、まっすぐ私の立つ通路の方へと走ってきた。


 街灯にその顔が照らされた瞬間、同時に右手に持っている何かが光を反射して私の目を刺した。

 迫ってくる鬼のような形相は、それでも見覚えのある懐かしい顔だ。

 間違えようもないかつての恋人、朋也である。


 けれどその手に握っているのはナイフだ、とすぐに気が付いて頭が真っ白になった。

 まるで現実感のない光景に、私の意識は宙に浮いたような心地で、体がその場から動かない。

 1秒が1分にも伸びたような感覚の中で、自分に向かってくる刃をただじっと見つめていた。



「逃げろユキ!!」


 建物の間に反響するほどの大声が聞こえ、ハッと我に返った。


 次の瞬間、右手から吹っ飛ぶように現れた黒い影に、目の前まで迫っていた朋也がドンと突き飛ばされた。

 もつれるようにして転がり、そのまま朋也を地面に押さえ込もうとする巨体はザグルだった。

 ようやく足が動いて2、3歩後ろに下がったところで、ギラリと鈍い光が見えて再び足が止まる。


 仰向けに倒れた朋也は、左手でザグルの顔面を殴りつけると、右手に持っていたナイフを振りかざした。


「朋也っ、やめてぇっ」

 大声で叫ぼうとしたのに、喉から息が漏れて小さな声しか出ない。


 悲鳴を上げて助けを呼びたいのに、今すぐ朋也を押さえ込んでザグルを助けなければと思うのに、そのどちらも出来ない。

 恐怖で体が全く言う事を聞かない。


 けれど小さすぎる声はそれでも届いたのか、不意にこちらを向いた朋也は、その瞬間動きを止めた。

 今の今まで、そこに立っているのが私だと気付かなかったのか、彼は目を見開いていた。


 その一瞬の隙にザグルは朋也の右手首を掴み、ねじり上げるようにしてナイフを取り上げた。


「くそおおおっ!!」

「観念しやがれこの野郎!!」

 朋也とザグルが同時に怒声を上げた。


 ナイフを取り返そうとするようにザグルの左手に朋也の手が伸び、気づいたザグルはそれを水平に放り投げた。

 地面を滑るように飛んだナイフはその先にあった街灯のポールに当たり、キンッと澄んだ音を立てて跳ね返ると、私の足元まで転がって来た。


 一瞬飛び退いてから、私は冷たく光るそれを慌てて拾い上げ、2人から距離を取った。


 殴ったりすれば朋也はひとたまりもないはずだけど、ザグルはあくまで押さえ込もうとするだけで、半狂乱で暴れる彼を止めるのには苦心している様子だった。

 けれどそこで、さっき突き飛ばされた正岡さんが駆けつけてきて、2人掛かりで朋也の両手足を押さえつけた。


 3人ともゼェゼェと息を切らし、やがて朋也は諦めたように動かなくなった。



「そうだ、結衣!結衣は!?」

 目の前の光景に気を取られていた私は、そこで結衣の姿がないことに思い至った。


「大丈夫です、少し背中を打っていますが」

 慌てる私に正岡さんがそう答えながら、ザグル一人で押さえられるように朋也をうつ伏せにし始めた。


 私は温室の方に向かいかけて、ナイフを握ったままだと思い出し、バッグからハンカチを取り出して巻き付けた。

 包む時に見たその刃先には、血などはついていないようで少しほっとする。


「結衣っ!」

 温室に足を踏み入れたところで、ドンと肩に衝撃が走った。

 丁度出てこようとしていた結衣とまともにぶつかったらしい。


「わっ、ゆっきー!?何でここに!」

 彼女はびっくりして声を上げながらも、素早く転びかけた私の手を取ってくれた。

 そのまま腕を引かれて体勢を立て直すと、街灯の光を背に目を見開いた結衣の顔が見えた。


 どこか呆然としたその顔が、不意に泣きそうに歪むのを見て、私は思わず彼女を抱き締めた。

「も……もう、仁史ってば止めてよって頼んだのに!だいたい何で雪江がこの場所知ってるのよ!」

 怒ったように言いながらも、結衣の体は震えていた。

 両腕に伝わってくる温かさとその震えに、私の胸には少しの安堵と同時に、悔しい思いが湧き上がってくる。


 朋也との間に何が起きたのかは分からないけれど、彼は刃物を持ち出して暴れたのだ。

 しかもそこには、彼女が稀人だからという事が少なからず関係している。



 ザグルの推測が当たっているなら、結衣はそれでなくとも、自分が稀人だという事で不当に害されることを恐れていたはずだ。

 それがとうとう現実になってしまった。

 こうなる前に止めたかったのに、結局間に合わなかった。


 それでも結衣が無事でいてくれて良かったと、脱力しそうになる腕に力を込めながら思う。

 彼女の背中に手を伸ばしてさすり、そっと頭をポンポン叩いた。

「良かった、無事で」

「うぅぅん……!」


 イエスかノーかも分からない、たぶん本人もどっちとも言えないんだろう声を上げると、結衣は私の体にしがみついた。

 そのまま私の肩に頭を預け、しばらくの間小さく呻いた後、彼女は声を上げて泣き出した。

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