第10話 雪の日(1)
カタカタタ、タタン……カタカタタタ、タタンッ……
不規則なようで規則的に鳴るキーボードの音が、今日はやけに耳に入ってくる。
手足の冷えもいつもより気になって、眠りが浅かったせいか肩も重い。
私は画面から目を逸らして、ふと窓の外を見た。
雪が降っていた。ごくごく薄く広がる膜のような、地面に当たってすぐ溶けるような、この暖かい街ではたまにしか降らない雪だ。
それでも私は、冬になれば雪を思い、思い浮かべては体が芯から冷える感覚を覚える。
仕事中に私事で頭を一杯にしてはいけない、と思いながらも冷静でいられない自分がいるのは、体調が万全じゃないせいだろうか。
ザグルの告白を受け入れようと決めてから、私は頻繁に怖い夢を見るようになった。
以前にも同じような事があったけれど、その時はまだ学生だったし、これほど頻繁ではなかったように思う。
何より辛いのは、その度に大声を上げて目を覚まし、まるで全速力で走っていたかのように全身汗みずくで、酷く疲れている事だ。
けれどその声で同時に起きてしまっているザグルは、それでも何も文句は言わなかった。
むしろ体調が悪い私の先回りをして家事をしたり、食べたいものはないかと訊いて作ってくれたりしている。
「どういう夢なんだ?いつも同じ夢なのか?」
と最初は訊かれたものの、どう答えていいのか分からないでいると、そのうち何も言わなくなった。
叩き起こされて怒っているわけじゃなくて、ただ心配してくれているんだ、という事は頭では分かっている。
けれど今現在は何も起きていないのに、私が勝手に見ている過去の夢なのだ。
内容もザグルに原因があるわけじゃないし、そもそも夢をコントロールできるわけでもない。
話してみてもそんな風に突き放されたら、と思うと何も言えなかった。
かつて朋也と付き合って1年近く経った頃、同じように連日の悪夢に悩まされた。うまく眠れない日が続き、体は常にだるい上に食欲もなくて、一緒に食事をするとよく箸が止まってしまっていた。
あまり私に干渉しない彼も、さすがにその時は理由を訊いてくれた。
「ここに来る前の夢を見てるの。家族が突然いなくなる夢でね」
この町の大学への入学が決まり、新生活の物件を決めて、引っ越しのための部屋の片づけもほぼ終わった頃だった。
もう春の気配が濃い3月の初め、そんな時期には滅多に降らないはずの雪が降った。
この町と同じで元々雪の少ない故郷の町は、夜の間に降った雪が珍しく薄く積もっていた。
休日だったその日は、郊外のショッピングモールへ家族で行く予定だった。
けれど寒さの苦手な私は、前夜から雪が降っていたせいか体調が思わしくなかった。ただ寝込むほど具合が悪いわけでもなく、不調に慣れていた私にとっては病院へ行くほどの話でもない。
私は大丈夫だから2人で出掛けてきて、と両親に言った。それはいつもの事だった。
「買い物が済んだら早めに帰ってくるからね。しんどくなったら電話するのよ」
母は心配そうに私の額に手を置きながらそう言った。
その日の買い物の目的は、私の新生活に必要な物品を新たに買い揃える事だ。
同じような買い物客が増えるこの時期、日を遅らせると買いたいものが無くなってしまうので、やめておこうという頭はお互いにない。
ただ道中が危険なので、それだけは心配だった。
「ううん、雪で道も混雑してると思うし、ゆっくり行って帰ったらいいよ。お昼はレトルトで済ませておくから」
「そう……。そうね、気を付けて行ってくる。なるべくあったかくしとくのよ」
そう言って母は私の肩にブランケットを掛けてくれた。
そのささいないつも通りのやり取りが、母と交わした最後の言葉だった。
雪を掃除しに先に出てそのまま出掛けた父とは、何を最後に話したのかも覚えていない。
夕方になってけたたましく電話が鳴り、両親が運び込まれた病院へ来るよう言われた。
けれど当然車はなく、タクシーを呼んだこともなく、自転車で行くには遠く道も凍りかけていた。為す術なく定刻を過ぎたバスに乗って、病院に着いた時にはもう辺りは真っ暗だった。
白い布に覆われた両親の姿を見た直後から、私の記憶は途切れ途切れだ。
その後どうやって家に帰ったのかも覚えていないし、警察から両親の死因である事故について聞かされたのが何時なのか、どんな内容だったかもうろ覚えだ。
2人の葬儀の光景はうっすら覚えていても、どこに頼んで葬儀をしたのかも分からない。
親戚付き合いもほとんどなかった私の家で、辛うじてやり取りがあったのは、父の年の離れた兄、私の叔父に当たる人だった。
あの場に親戚が集まっていたのは、真っ先にその叔父に電話したからなのだろう。葬儀の段取りを決めたのも叔父だったのかもしれない。
進学先も部屋も決まっていて、その費用も両親が用意していたことから、叔父は私に後のことは任せて進学するようにと言った。
遺産の相続がどうなったのか、親戚同士の話し合いの場に私がいたのか、それすらよく覚えていない。
皮肉にも家のローンは無くなったが、私が進学すれば家は空になってしまう。
処分するしかない筈だったが、いつの間にか叔父の娘夫婦が住むことに決まっていた。
結果的に私は生家を失くさずに済んだ。
けれど従妹夫婦が越してきて様変わりしてしまった家に、もう私の居場所はどこにもない。
元々付き合いのなかった年上の従妹とは、家族と言ってもほぼ他人だ。
在学中はアルバイトで生活費を作り、夏休みも正月も帰省しなかった。
そうして次第に、故郷を懐かしむ気持ちすらどこかで失くしてしまった。
まだ気楽な学生だった、それも2歳年下の朋也にそんな話をしても、受け止め切れる筈がないと今なら分かる。
けれど私は訊かれるまま、そういう理由で両親が自分を置いて消えていく夢を見るのだと、全て話してしまった。
話し終えると下を向いた朋也は無言のまま、かなり長い沈黙が降りた。
「僕にそんなこと言われてもどうしようもないよ」
それが彼の答えだった。
当然の答えだ。
知り合ってまだ1年と少し、20歳になったばかりの彼に何が言えるというのか。
今ならそれも分かり切っているし、彼は何もできないと言っただけで、知ったことかと突き放したつもりもないのだと思う。
けれどその時、私はひどく落胆した。
彼は付き合いだしてからもベタベタすることもなく、私と一定の距離を保っていたけれど、さすがにここまで自分の胸の内を話せば、理解ある言葉をくれるかもしれないと内心で期待していたのだ。
私の家の事情を何とかしてくれ、なんて言ってないし、他人にそんな期待をする気なんて全然ない。
ただ辛いんだと分かって欲しかった。
労わりでも同情でもいい、私が望んだのはそういう言葉だけだったのに。
「うん、ごめんね。これは私の問題だし、自分で何とかするよ」
お腹にぐっと力を入れて、懸命に笑顔を作った。他にどうしようもなかった。
あの日以来、家族のことも悪夢のことも誰にも話していない。
そもそもそれ以降、不思議なほどあの悪夢を見なくなった。
結衣にも話したことはないから、この町に来てから知り合った人で、このことを知っているのは朋也だけだ。
ザグルには話したほうがいいのかも知れない、と思いながら、あの時の朋也と同じ20歳という年齢に、足踏みせざるを得ないでいる。
現代人とは明らかに違う経験を積んでいるとはいえ、彼だってまだ若いのだ。
しかも知り合ってからまだ3か月と少し、ようやく生活が落ち着いてきたばかりでもある。
ここで急にあんな話をして、もしまた「どうしようもない」と言われたら、と思うと怖い。
変に期待して、また落胆するような事を言われたら、今度こそ目の前が真っ暗になってしまう気がする。
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