目が覚めて (3)

 眠り込みそうになっていると、いきなりもぞもぞとザグルの指が脇腹に触れた。

 流石にくすぐったくて、今にも閉じそうだった重い瞼がぱっと開く。

 頭の上から覗き込まれているのに気づいて顔を上げると、ザグルは目を吊り上げて脅すように牙を剥き出していた。


「ごめん、怖い話とか割と平気な方なの。寝る前に怪談とか聞いてもすんなり寝ちゃう方だし」

「マジかよ、だからって話し中に寝んなよ。こっからがいいとこなんだぜ」


 期待してくれ、と言わんばかりの顔だけれど、彼がこういう顔をする時はどこかずれているのが常だ。


「あーまぁ、何て言うの、反抗期の悪ガキを懲らしめるにしては大掛かりよね?いいよね、そういう茶目っ気のある村の人たちって」

「まだそこ喋ってねえだろ!?なんで分かんだよ、俺ぁマジで怖かったんだぞ!」


 どうやら予想は大当たりだったらしい。

 と言っても成人するまで少なくとも母親は健在だった筈だし、住んでいたのが以前聞いた通り「村の端っこ」と言うくらいだから、村に異変が起きたわけでは無いだろう、とはすぐに予想できた。


 渾身の怪談がすべったせいか、当時の気持ちを思い出したのか、ザグルの眉がぐにゃっと下がった。

 威嚇するように剥き出していた牙も、しおしおとゆるんだ唇に半分隠れていく。

 たちまち情けない顔になって、続きを話す気力も失せたのか、

「はぁあああー」

と深い溜息をつくと私の額に顎を乗せた。


「よしよし、じゃあ今日は一緒に寝てあげるから」

 腕を伸ばしてザグルの頭の横を撫でると、彼はびくりと硬直した。


 ざりざりと短い毛の残るそこには、成人すると同時に入れると言う大きな入れ墨がある。

 ちなみに大人のオークは額や頬や顎にも入れ墨をするけれど、戦に出て勝った場合にのみ、一つずつ増やしていくものだと資料で読んだ。

 初陣となるべき戦を前にして死んだ彼には、顔の入れ墨が入ることはもう一生無いのだ。


「バッ、バカおい!怖いもん無しかお前は!」

 何となく感傷的な気分になって頭を撫でていると、誘っているとでも思ったのか、ザグルは動揺を露に背中を反らしながら大声を出した。

 それでも腕は放そうとしないので、脳天に当たった顎から直接声が叩き込まれてきた。


 眠い頭に声が響くと、耳がうわんと鳴るような感じがして流石に気持ち悪い。

 首を引っ込めて顎を外すと、私は少し考えてから、もう一度ザグルの顔を見上げた。


「私にだって怖いものくらいあるよ。例えば明日、目が覚めたらザグルが居なくなってたら、って思うと結構怖いよ」

「……ユキ、お前な」


 言いかけてザグルは黙った。口の中で何かもごもご言って、また黙る。


 私も自分の中から飛び出してきた言葉に内心驚いたけれど、それは本当に素直な気持ちだった。

 真っ暗な部屋で、身動きできない格好で、おまけに怪談をされても、私はウトウトするほど安心していた。

 私にとって怖いことがあるとしたら、そんな彼の存在が消えてしまう事の方だろう。


 ある日村に戻ったら、村人全員がゾンビになっていた、なんて事が起きたら、私はゾンビになった村人達そのものより、自分の大切な人たちはもう誰もこの世に居ない、その事の方がよっぽど怖い気がする。



「分かった、ちと灯り点けるぞ」

 急に腕を離すと、ザグルは立ち上がって居間の方へ向かった。


「え、うん。眩しいからそこのスタンドライトにしたら?」

 声を掛けると、彼は素直に棚の上のライトを点けて、一瞬「うっ」と声を漏らした。

 暗がりでも動ける彼は、この暗さに慣れた状態だと余計に灯りが眩しいのだろう。しばらく両手で目を覆って灯りに背を向けた後、よろよろとハンガーラックの棚に向かった。


 その棚の下段に入っているボックスを引き抜くと、ザグルは棚一杯の大きさの紙袋を引っ張り出した。

 見覚えのあるそれは、結衣と3人で買い物をしに行った時のあの紙袋のようだ。

 それを提げて戻って来た彼は、布団に座ったままの私の前にしゃがむと、中から赤い包みを差し出した。


「開けてみな」

 そう言って渡された包みを両手で受け取ると、大きさの割にずいぶん軽かった。

 両手でないと持てないような丸い形で、つるつるした包装紙に巻かれている。

 膝の上に抱えるようにして端を探すと、テープの感触が指に当たった。爪を引っかけてそれを剥がすと、中はハートのプリントがついたビニールの袋だった。

 ライトの光が反射してよく見えないけれど、ハートの中には何か書かれている。


「これ……ぬいぐるみか何か?」

 光にかざした時のシルエットで気が付いた。

 中身は不規則にぼこぼこしていて柔らかく、けれど程よい弾力がある。

「ああ、ほら出してみろよ」

 言いながらザグルが袋の口をべりっと剥がした。

 出て来たのはふわっふわの大きなウサギのぬいぐるみだ。


 丸っこい体に頭のてっぺんで揃った耳、つぶらな黒い瞳。

 ふっくらとした頬に、小さくX字に割れた口元。

 体全体はキャラメル色で、胸元に柔らかい白い毛が入っている。

 可愛いの一言に尽きる、そして触り心地のいいぬいぐるみだった。


「ユキはウサギに似てるって前に話したろ?こいつそん時のウサギにそっくりでな。丁度いいと思って買ったんだが、後でマサオに聞いたら相手の歳を考えろって言われちまって」


 マサオと言うのはバイト先の知り合いで、何だかんだとザグルに声を掛けてくれる面倒見の良い人らしい。

 彼の弁が正しいなら買い換えた方がいいかと思いながら、自分も気に入って買ったから手放せなかったらしい。

 保留にして別の物を用意するには財布が厳しくて、渡すかどうか悩んでいたそうだ。


「でも気に入っちゃうの分かるよ。それにすごく丁寧に作ってあるよね、これ」

 膝の上に乗せて両腕に抱くと、モフモフの体は思ったよりしっかりとした硬さで、リアルな形になるように幾つものパーツに分けて作られている。

 一瞬子ども扱いか、と思わないこともないけれど、逆に子供のおもちゃとして渡せるような物でもない、繊細な作りのぬいぐるみだった。


「だろ?俺もこんなもんに興味持ったことねぇんだけどよ、こいつとは目が合っちまってな」

 言いながらザグルはウサギの頭を撫でて目を細めた。

 目元も口元も緩めて、懐かしむような幸せそうな顔になる。


 その顔を見ていると、ウサギよりザグルの方が可愛いよ、などと口をついて出そうになって、慌てて舌を引っ込めた。

 思いっきり頭を撫でてやりたくなるような姿だけれど、彼も年頃の男だし、さぞかし嫌がるだろう。


「でもどうしたのこれ?そんなに前から私宛てに用意してくれてたの?」

 そもそも誕生日もクリスマスも過ぎたし、プレゼントを用意するようなイベントがあったっけ、と疑問に思いながらザグルの顔を見ると、彼は「ああ」と頷いた。


「渡すのは本当は明日の予定だったんだが、もう日付も変わってるし構わねぇだろ。バレテナインってやつだ」

「バレてないん?」

 意味が分からずに首を傾げると、彼は顎に手をやった。


「バレテナイン…いや違うな、よく覚えてねぇけどとにかく、好きなやつに何か贈る日だってマサオに聞いたぜ」


 言われてふと、ぬいぐるみが入っていたビニール袋に目をやって、私は「あっ!!」と思わず大声を出した。

「今日って2月14日!?バレンタインじゃない!」

「そう、それだ!」

「うっそどうしよう、私完全に忘れてた!ってか逆だよそれ、女性から男性にチョコを贈る日だよ」

「別に男から渡してもいいって聞いたぜ、渡すもんも何だって構わねぇって言うし」


 何てこと教えてくれるのよマサオさん、とまだ見ぬ商売人マサオさんに心の中で苦情を言ってから、改めて自分の無関心さを反省する。

 

 ちょっと思い返してみれば、正月を過ぎてすぐからスーパーにもコンビニもチョココーナーがあったはずだ。

 けれど久しくご縁がなかったせいで、もはや素通りするのが習慣になっていて、今年はザグルが居るんだということも念頭になかった。

 会社で配るというのもあったけれど、有志でお金を出すだけで後の事は毎年丸投げという有様だ。


 私がすっかり忘れている一方で、本来貰う側の男性陣がしっかり覚えていて、贈り物まで用意しているなんて。

 女子としてこれは余りにも情けない、と一人で脳内反省会を開いていると、ザグルに両肩を掴まれて引き戻された。


「とにかくだ、大事なことは俺はここから居なくなったりしねぇってことだよ」

「……うん。バレンタインだもんね、これってそういう意味だもんね」

「ああ、だから少なくとも俺が出てくなんて心配はしなくていい」


 そう言うとぐっと身を乗り出してきた彼に、今度は正面から抱き締められた。


 驚く暇も無く背中と頭の後ろに大きな手が回されて、胸元に顔を押し付けるような恰好になる。

 息を吸った途端、彼の体から溢れてくる熱気と濃い肌の匂いに満たされて、胸の奥で何かが弾けたような、不思議な感覚に襲われた。


「俺はユキが好きだし、ここでの生活だって結構気に入ってんだ。お前だってもう気付いてんだと思ったけどな」


 そうだ、本当にそうだ。改めて言われるまでもなく、それは薄々分かっていたはずだった。

 ザグルはここを離れようなんて思っていない。明らかに居付く気でせっせと生活環境を整えているし、私の調子が悪ければ側に居ようとしてくれている。

 今日になって初めて知ったけれど、眠る時まで寝室の真横に布団を敷いていたくらいだ。

 生活のために出ていけなかった最初の頃と違って、今は彼自身の意志でここにいるのだ。


 それが分かっていて、そうであって欲しいとも思いながら、こんな風に安心できる温もりが、身を浸していたい大切な居場所が、ある日突然失われる事があるのだと、それを思い出すのが怖かったのだ。


 出来る限り忘れいていたくて、思い出さないようにしたくて、心の底に仕舞い込んでいた冷たい記憶が、じわりと染み出してくるのを感じた。


 だから好みじゃなかったんだ、と不意に気が付いた。

 失ってしまうのが怖いものなんて、一番身近に置きたくなかった。

 大切になればなるほど、いつか傷つくかもしれないことが、ずっと怖くて仕方なかった。


 なのにその気持ちを、私はとうとうザグルに話してしまった。

 「好みじゃない」と自分を止める声を振り切ってでも、彼の側に居たいと思えた。


 私はザグルの胸元を軽く押して、少しだけ離してくれるように頼むと、一度静かに深呼吸してから彼と目を合わせた。


「ありがとう、私もザグが好きだよ。多分ずっと前から好きだよ」

 金色の大きな瞳をしっかりと見つめて、噛みしめるようにゆっくりと口に出していく。

 言葉にすればそれは本当になる。

 後戻りはできないけれど、私は戻りたい訳じゃない。


 見つめていると、ザグルは両腕をゆっくり上げて私の頬にそっと手を添えた。


「ありがとな、ユキ」

 もっと得意げな顔をするかと思っていたら、予想に反して彼は両眉を下げて、ほっと安心したような、半分泣きそうな顔をして微笑んだ。

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