変わり出す日常
第4話 雨の日には昔話を(1)
「ただいまー……ああ」
玄関でいつものように声を上げてから、そうだ誰もいねぇんだった、と思い出した。
朝には晴れていたのに、仕事を終えて帰ろうとしたらひどい雨で、仕方なく走って帰ったせいで、頭も服もびしょびしょだ。
床を汚すとユキエが怒るので、拭くものを取ってきてほしいところだが、あいにく彼女は明日まで帰って来ない。
「ショウガツ」というのは家族と過ごすものだ。
そう教えてくれたのはバイト先のマサオと呼んでいる人間の男だった。
「クリスマス」というのは女と2人でと過ごすもんだ、と言い出して、知り合いの店から「ケーキ」を買ってくれ、と頼んできたのもその男だった。
幸いユキエの反応は悪くなかった。むしろめちゃくちゃ喜んでいた。
何がそんなに嬉しいのか、子供のようにはしゃぐ姿をその時初めて見た。
そんなユキエに家族の事を訊いてみれば、かなり遠いところに住んでいて、滅多に会うこともないという。
マサオの言葉が気になった俺は、ショウガツには会いに行けよ、と説得した。
彼女は俺が一人で残るのを気にしていたが、ここでの生活にはもう慣れている。
何かあったらデンワする、と約束すると、3日目には戻ると言って帰っていった。
だが2日目の今日、がらんとした人気のない部屋の中を見回して、ユキエの心配は外れていなかったと実感した。
ほとんどの仕事は休みだというショウガツでも、俺の働く店は開けていて、いつも通りの仕事がある。
もしそれがなかったら、この帰宅後の真っ白な時間が丸1日続いていたのか、と思うと恐ろしい。
考えてみれば、ここに来てから俺は毎日ユキエの顔ばかり見ていたのだ。
オークに対する人間の目は、この世界でもあまり変わらないらしい。
街を歩けば異様なものを見る目つきで見られるし、ユキエと一緒に歩いていると、人攫いと勘違いされたこともある。
人間からすれば俺の姿は怖いと言うから、気にしても仕方がないんだろうが、遠巻きに妙な視線を投げられるくらいならケンカでも吹っ掛けられる方がマシだった。
だがユキエだけは俺の前でいつも笑っていた。初めて会った時から、怖がるどころか心配顔で俺を世話して、一体なんの得があるのか、弱みでも握っておく腹かと思った。しかし彼女は俺に何も要求してこない。
恨んでいる奴でもいないのかと訊けば、何をする気かと怒るし、一人で街を歩くのは危ないと止めると、それはこっちのセリフだと言われる。確かにそれは本当で、顔を隠さないと表を歩けないのは俺の方だった。
そもそも俺のいた村では、年頃の男女が一緒の家に住むのは子供を作るためで、要するに夫婦になるという事だ。
エリスから聞いた限り、人間もだいたい同じようなものだった。
それ以外に男を部屋に上げるのは、それを商売にしている宿の女くらいだ。
だがユキエは「ここは宿ではない」と言うし、子が欲しくて招いた訳でも無いという。
なら何が目的だ、と訊ねたら、「家が無いと困るのはあなたでしょう」とはぐらかされた。
のほほんと隣で笑い、俺を部屋に置き、ここで生きる方法まで教えてくれる。
だがその理由が思いつかない。
そもそもユキエは、俺をどう思っているのかすら微妙に分からないのだ。
目の前で服を脱ごうとすれば慌てて逃げるから、男だという事は頭にあるらしいが、当人は頻繁に俺の前で眠り込む。
油断しきった寝顔を晒し、声を掛けても肩を叩いても起きないので、その度抱きかかえて部屋に運んでやるが、それにも気づかない様子だ。
あまりに起きないからと、出来心で尻を撫でたら頭を寄せてくる始末だった。
ぎょっとして体を離すと、暖を求めるように腹に手を伸ばしてきて、こっちの心臓が破裂しかけた。
そんな無防備なマネは同族にもされたことがない。
人間は一緒に生活すれば皆こんなもんなのか、と考えてみても、過去に心を許してくれた人間はエリスだけで、家を訪ねたこともないので分からない。
エリスはあの村に戻ってきたんだろうか?
雨が降るといつもそのことを思い出した。元いた世界の記憶の中で、最後に覚えているのは、刑場に降りしきる雨音と、それすら掻き消すような怒号、そしてその中で一人泣いていたおふくろが俺を呼ぶ声だった。
「ふぅ……」
漫画を閉じると、何とは無しにため息が漏れた。
ザグルが「邪魔をしない」と約束してくれて以降、毎晩読んでいた「イズワス・エピック」は、基本的に世界を旅して歩くアークとエリスの物語で、それ以外のキャラクターの内面の描写は少ない。
しかもザグルが登場したのは、物語も中盤になってからだった。
私はベッドの脇の古い学習机の上に、閉じた漫画を置いた。
窓の外は厚い雲に覆われていて、今日は部屋の灯りが無ければ本が読めない。
太陽が見えないせいで気温も上がらず、全身を包んでいる大きなブランケットが離せない寒さだ。
本当はザグルと一緒に過ごすつもりだったこの正月は、彼が帰れと言って譲らないので、久しぶりに実家で過ごすことになった。
けれど長く離れていたこの実家は、今は親戚の夫婦が住んでいて、私はお客さん状態だった。
家事を手伝うと言っても、折角来たんだからゆっくりしててと言われて、結局持ち帰った漫画を読んでばかりいる。
おかげでかなりページは進み、ついに知りたかったところまで到達した。
ザグルがエリスと出会うのは、ザグルが16歳、エリスが15歳の時だ。
国境の森で凶獣に襲われたエリスを、狩りの途中だったザグルが助けた事から、二人の交流は始まる。
「7日後にお礼を持ってまたここに来ます」
と言って頭を下げるエリスに、
「こんなところへ何度も来るのはあぶねぇよ、礼なんかいいから来るな」
とザグルは突っぱねた。
それでもエリスは「必ず7日後にまた来るわ」と言って村へ帰って行く。
約束通り7日後に、お礼としてお守りを持って待っていたエリスのところへ、ザグルは渋々といった態でやって来る。
しかし素直に再会を喜ぶエリスにザグルも笑顔を返し、それ以降、7日おきに国境で会って話をするようになる。
そのころすでに強い魔力を持っていたエリスは、周囲から課せられる自分の役目や使命のようなものを負担に感じていた。
そんな人間たちの思惑とは関わりのないザグルは、エリスに憧れを抱くことも、その力に期待を寄せることもなく、ただの一人の少女して彼女と接し続けた。
やがて18歳の誕生日を迎えたエリスは、魔法の修行のため、幼馴染のアークと共に旅立つことになる。その直前にザグルに会いに来たエリスは、彼にそのことを告げた。
「本当は村が心配なの、旅に出てしまったら何かあってもきっと間に合わない」
と不安な気持ちを吐露するエリスに、
「安心しろ、お前がいつでも帰って来られるように村は守ってやる」
とザグルは約束して別れる。
しかしその1年後、人間がオークの子供達を何人も立て続けに手にかけたことから、国境でオーク側が蜂起し、ザグルたちも駆り出される戦に発展してしまう。
人間側の防衛線となるエリスの村は、魔法の結界で固く守られているため、それに対抗できるドワーフの兵器が密かに用意され、とうとう開戦という事態になった。
戦を止めることはとても出来なかったザグルは、日暮れにこっそりオークの集落を抜け出し、夕闇に乗じてエリスの村に駆け付けた。
しかし村人たちは、
「明日には結界が破られる、急いで逃げろ!」
と必死で訴えるザグルに、
「そう言ってここを捨てさせて侵入してくるつもりだろう、そんな手に乗ると思ったか!」
と耳を貸さない。そればかりか、
「その話が本当ならキサマが弾除けになれ」
と、結界の中心である塔にザグルを縛り付けてしまう。
説得もできないままオークの軍勢が攻めてきて、結界の塔は破壊され村に火が放たれた。
辛うじてザグルは瓦礫の下で生き残ったものの、人間のお守りを持っていたことから裏切りが露見し、無念のうちに処刑されてしまう。
何も知らないエリスは、幼い頃からの想い人でもあるアークと結ばれ、その後に故郷で起きたことを知り駆け戻ってきた。
しかし既に村は跡形もなく焼け、生き残った村人から、
「危険を知らせに来たオークがいたんだよ」
と聞かされ、遺留品を渡される。
それはかつてエリスがザグルに贈ったお守りで、それを見た彼女は何があったのかを悟るのだ。
どうしてこんな悲恋話を突っ込んだのかとファンの間では有名な話らしい。
しかしこの事件を切っ掛けに、エリスは異種族との関係を改善しようと決意するのだ。
「イズワス・エピック」の本筋が、「各種族で分断されている世界を一つにする」という目的に向かって動く話であり、次第にその中心人物となっていく
冷静に考えるなら、ザグルの死は決して無駄ではなかったし、ハッピーエンドではなくても悲しいだけの物語ではない、と分かる。
けれど彼と2か月近くを共に過ごしてきた今、こんな理由で死ぬしかなかったなんて、と私は遣る瀬無くなった。
ザグルは一度も私に危害を加えたことはない。疑いの目を向けられれば不機嫌になるけれど、だからといって暴力に走ることも私に当たることもしない。
美味しいものを食べれば子供のように笑うし、何にでも興味を示すし、自分の方がいっぱいいっぱいなのに私の負担を減らそうとしている。
不器用な手で物を壊してしまうと、決して捨て置かずに寄り目になりながら直そうとする。
そんな彼への報いが、人間しかいないこの世界への転生なのか。
心を許せる仲間の居ない世界に、きっとこの先も現れないだろう世界に、たった一人で生きていくしかないのだろうか。
「エリス……ごめんな」
人間を恨んでもいいはずなのに、ザグルが最初に口にしたのは約束を守れなかった詫びだった。
そのエリスにすら二度と会うこともできないというのに。
そこまで考えて、不意にザグルは今どう過ごしているんだろうと気になった。
帰りの電車の中でも、帰宅してからも、ずっと漫画を読むことに集中していて、まだ電話の一本も入れていない。
せめて無事に着いた事くらい告げれば良かった、と今更になって気が付いた。
何かあれば彼の方から連絡する、と言っていたけれど、この時間なら暇を持て余しているかもしれない、と思った私はスマホを手に取った。
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