第3話 気楽なあなたに微笑みを(1)
結衣から借りた「イズワス・エピック」をゆっくり読めたのは、翌週の週末だった。
いつものように家事を一通り済ませ、ベランダのカーテンを開けたままにしておくと、部屋の灯りを消しても本は読めるくらいの明るさになる。
手元にチョコレートとポットを置き、いつでも補給できるようにしておいて、私は気合を入れて1巻目を手に取った。表紙は凝った装丁で、赤茶色の皮表紙本のような見た目になっている。
その表紙が更に透明なビニールのカバーで包まれていて、大事に扱っている本だというのが一目で分かる。
結衣の持っている漫画本は大半がそうだが、初めて見たときは未開封の本が大量に置いてあると勘違いしたくらいだ。
後で分かったけれど、漫画を購入するとそういうカバーをくれる店があり、彼女はそれが気に入っていつもそこで買っているらしい。
1巻目の表紙には、当然ザグルはいなかった。
描かれているのは
表紙をめくると、口絵に「イズワスMAP」と書かれたカラーの地図がある。
半月のような形をした大陸と幾つかの島からなるイズワスは、大陸の中心からほぼ全域に人間の国々が広がっていて、北西の浮島にエルフ族、北方の高山にドワーフ族、東方の砂漠に獣人族、そして最南端の密林に、オーク族やゴブリン族達が住む、となっている。
この辺りまでは私も平気だった。というよりここをひとまず通過できないとその先の物語が読めない。
しかし肝心の1ページ目をめくった直後、早くも飛び出す見慣れない単語の数々に唸らされ、話がどう進行しているのかだんだん分からなくなってきた。
ヒーローであるアークは剣と盾を持ち戦う普通の人間なのだが、魔法使いであるエリスが発する言葉はさっぱり意味が分からない。
具体的には誰も出てこないのに、精霊の名を呼び「力を貸して!」と叫んだり、何者かに力を借りているという設定なのかと思えば、魔法を使い続けていると「マナが切れそう」などと言い出してぐったりしてしまう。
しかも戦っている相手はと言えば、オオカミの姿の「凶獣」という生き物なのだ。
けれどその行動は飛び掛かる、噛みつく、吼えるというようなものばかりで、普通のオオカミと何が違うのかが分からない。
1巻の口絵に地図があったように、それ以外の巻にも解説がないかと思った私は、袋から漫画を全部取り出して口絵をめくってみた。
しかし2巻以降はキャラクター紹介やイラストばかりで、世界観を説明してくれる要素は何も見当たらない。
「どうしたらいいのよ……」
困り果てて袋の底を探ったところで、ふとそこに大きめの分厚い冊子があることに気付いた。
間違って大事な画集でも紛れ込んだのかな、と思ってそっと引き出してみると、出てきたのは「公式ガイド・イズワスの旅」と題された、旅行ガイドに見立てた設定資料集だった。
こういうものが必要になることを、結衣はちゃんと見越していたのだ。
私は漫画を一旦脇に置いて、設定資料を隅から隅まで読み耽った。
「ただいまー! おーいユキ、ちょっと来てくれ」
どれくらい時間が経ったのか、私はザグルの呼ぶ声でハッと現実に引き戻された。辺りを見回すと日が傾きかけているのか、部屋の中がかなり薄暗くなっていた。
時計を見るとすでに4時を回っていて、部屋の中はすっかり冷えている。
ザグルは玄関で立ち往生して助けを求めているらしく、固いものがドアにゴンゴン当たる音がしている。
「ごめん、すぐ行くから!」
慌てて立ち上がり、カーテンを閉めてから玄関に向かうと、ザグルは両手に挟むように発泡スチロールの箱を持っていて、前にも後ろにも進めなくなっていた。
腕に提げたトートバッグの紐がノブに引っかかり、閉じかけたドアに挟まれる格好でジタバタしているので、とりあえずドアを全開にして押さえた。
体全体が大きい彼は、寒さが苦手でかなり服を着込むせいもあって、たまに玄関が通れず四苦八苦することがある。
ドアを開ける前に箱を一旦置けば良さそうなのに、と思ったけれど、そういう訳にもいかなかったらしい。
「横に向けても床に置いてもダメだってよ、とにかく家に入るまでは開けるなっつぅし」
そう言って突き出された箱を受け取ると、思ったより持ち重りがする。
床に置くなということは食べ物かな、と思いひとまずキッチンに置くと、ようやく玄関を抜けたザグルはコタツに駆け込んでいった。
ザグルがバイトしているのは近所のホームセンターだ。
体を動かさないと落ち着かない、仕事をさせろと言われたものの、体を使う仕事で、専門技能がなくても何とかなって、あまり人目につかなくて、何かあっても私がすぐ行ける街中にある、となると咄嗟に思いついたのがそこだけだったのだ。
それですら最初は、文字が全く読めなくて困ったのだが、体力はあるし、もともと人懐っこい性格なので、見た目の怖さを除けば合格点だったらしい。
最近はある程度、日常使う文字や言葉は覚えたらしく、仕事でよく使うカタカナは真っ先に読み書きを覚えていた。
「なぁ、何だこの本の山? いずわす……えぴっく?」
布団に足を突っ込んでから気付いたのか、ザグルはコタツの周りに積み上げていた漫画の一冊を手に取って、表紙をしげしげと眺めていた。
言葉が通じると言っても、住んでいた世界も国も違うので、彼が使うことのなかった単語はもちろん通じない。
読める文字を見つけると読みたがるけれど、大抵は幼児が字面を追っているような読み方になる。
「ああ、それ友達に貸してもらったの。大事な本だから折ったりしちゃダメよ」
不器用な彼は悪気が無くても紙類を折ってしまいがちなので、そう声を掛けると「ふぅん」と素直に頷いた。
そしてくるりとコタツの中で向きを変えると、背表紙の数字を数えながら壁際へ5冊ずつ積んで綺麗に並べ始めた。
一方で私はキッチンに置いた箱と格闘していた。発泡スチロールの箱で食べ物ということは中身が冷蔵ものなのか、蓋の周りがぐるりと透明なテープで巻かれていて、これがなかなか外せない。
仕方なくカッターを持ってきて横から刃を入れ、ようやく開けると箱の中にさらに箱が入っていた。
その一回り小さな箱の周囲には、これでもかと保冷剤が詰めてある。
一体何なんだ、と思いながらその白い箱を取り出してみて、ようやく私は今日が何の日だったのかを思い出した。
「あー、そっかぁ……今日だ」
思わず言葉らしい言葉が出て来なくなった。
去年も一昨年も、多分その前も、祝うことなど考えもせず普通に仕事をしていた筈だ。
「どうした? なんか忘れてたのか?」
「うん、もうご縁がなくなって久しいもんだから……うあー」
取り出した箱の中身は、誰かが気を利かせて用意してくれたのだろう、ショコラのベースに赤いベリーの色が鮮やかな、小さなクリスマスケーキだった。
「うあー、いいなぁほんと! 最近のってこんな綺麗なのあるんだぁ……いいなぁー」
田舎育ちの私が最後にクリスマスケーキを見たのは高校時代で、まだ白いホールケーキにサンタや柊や家の飾りがついた程度だったのを覚えている。
果物はシロップ漬けの物が殆どで、生の苺すら乗っていなかった。
それでも何か特別な物だったのだから、いきなりこんな豪華なケーキを貰ったらテンションが上がらないわけがない。
「何やってる、食いもんだろそれ?」
感極まって一人で騒ぎながらスマホで写真を撮りまくっていたら、どうしたんだとザグルもキッチンに入ってきた。
「いやーだってさ、もう10年以上はこんなの見てないんだもん。最近はおしゃれなカフェとかも入れなかったし」
「かふぇ? 通行証でもいる店なのか?」
首を傾げてとんちんかんな事を訊いてくるザグルに、軽く吹き出してしまう。
そんな私を見てますます困惑顔になるのがおかしくて、笑いながら首を横に振った。
「いや誰でも入っていいんだけどさ、許可とかいらないし。でも入るの抵抗があってねー」
「どういうこった、そりゃあ」
別に入ったって構わないのは分かっていても、彼氏と別れてここ3年はカフェの前で足が動かなかった。
カップルか女性の集団が多い、むやみと明るいお店の様子を見ると、自分が入るのは場違いだという気がしてしまう。
けれど何故そう思うのか理由を言えと言われても、ザグルに分かってもらえる説明はできそうにない。
「まぁまぁ、せっかくいいもの貰ったんだし切るから食べよ! ほら座って座って」
背中をバンバン叩いて追い立てると、彼は困惑しながらもコタツに戻っていった。
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