◆episode.48 かく語りき◆

 ゆっくりと、目を開く。

「どうしたんだい、市村くん」

 そこには、美しい顔に軽薄な、おとぎ話に出てくる猫のように笑みを浮かべている理宮の姿があった。

「また目を閉じたまま眠っていたのかね? 全く器用なものだ。僕はその睡眠方法を覚えたら渡り鳥になれる気がするよ」

 歌うように理宮は言う。市村は、困ったように苦笑して、

「あんたねえ。燕じゃないんですから、そんな器用な真似、できないでしょう」

 と言った。それに、理宮は朗々とした声で反す。

「そりゃそうさ。なれる〈気〉がするだけだよ。何せ僕は『魔女』だからね」

「……そんで、その前に【人間】なんですよね」

 饒舌に続きを紡ごうとしていた理宮の先を行くように市村は言った。

「そう、【人間】だから――って、市村くん、それはないだろう。僕のキメ台詞的なものをこの口で言葉にしようと試みていたというのに、君がとって喰うとは。いやはや、助手というものは恐ろしいものだよ。この僕の台詞まで浸食してしまうのだから」

「でも、理宮さんは『魔女』なんでしょう」

「そうだよ。生まれて以来このかた……ではないけれど、ある一瞬をもって僕という存在は『魔女』となった。そうしてここ、『第二書庫』に顕現し、人々の『願い』を叶えている」

「その『願い』は理宮さんによって叶えられて、形に、なる」

「言う通りだ。僕は『願いを叶える第二書庫の魔女 理宮真奈』だ。それがどうしたんだい」

「あんたは!」

 理宮の動きが、止まった。否、この『第二書庫』における時間の全てが止まった。

 太陽が、動きを止め雲に隠れる。背の低い本棚のせいで丁度、出窓のようになっている窓、理宮の背後にある窓から入る光が弱くなり、ぐっと『第二書庫』の中が暗くなった。

 市村の喉が、緊張で強ばる。生唾を呑むのも苦しい。言葉を吐くのはもっと苦しい。

 だが、言わねばならない。


「あんたは、俺の知っている【理宮真奈】じゃない」


 重く、硬い空気が『第二書庫』に満ちた。気体は冷たく透き通り、針水晶のように刺々しく市村の肺腑に刺さる。

「く、はっははは……」

 ひりつくほど冷たい、氷のような笑い声が、空気を割った。

 笑い声は理宮のものだ。しかし声は面白いから、冗談を言われたからというようなあたたかいものではない。

 あまりの冷たさに、凍えてしまいそうだ。市村は背骨が凍り付くのを微かに感じた。


 そして――


 獰猛な音が鳴り響き、窓の向こうが灼熱に染まる。炎が渦巻き、火の粉が舞った。

 しかし、『第二書庫』の中の温度は全く変わらない。むしろ、理宮が作り出す緊張感の分だけ冷やされているような気すらする。

「そうだね。そうだよ。やっと辿りついたね、やっと辿りついたか。ようやく辿り着いたね。おめでとう、よかったね。本当によかったじゃないか。これで、君の【思いを晴らす】ことができただろう?」

「俺は。でも」

「記憶が戻ったんだろう、市村くん。記憶も記録も思い出も戻ってきたんだろう。それなら、何を心配することがあるんだね。何もないだろう」

「……でも」

「君は何も心配することはない。これでいいんだ。これで、いい。僕はここで消えるが運命さだめだ。問題ない、予定調和のおとぎ話さ」

「だけど!」


「『僕』が消えてしまうのが、嫌なんだろう」


「わかってるなら、何で」

 市村は自然と両の拳を握りしめる。右手の中でかしゃりとイルカのペンダントトップが擦れた。

 理宮はさも、何もなかったかのように、当然のように、これが本当に理宮の思い通りにいったのだという風に、続ける。

「わかっているさ。ああ、わかっていたとも。けれどね、市村くん。この場所から『僕』が消えるということは喜ばしいことでもあるんだよ。何故なら、君は『僕』に【願いを叶えて】もらい、【思いを晴らした】。つまるところ『僕』の役目は終わったのだよ」

「だからって、消えることないじゃないですか」

「消えないさ」

「え?」

「君の、記憶の中にずっと存在し続ける」

「理宮、さ、」

「さぁ、行っておいで。【僕】を助けてやってくれ。まあ、『幽霊でも見たような顔』をして待っているだろうからさ」

 理宮のその言葉が終わったとき、改めて『第二書庫』の温度が急激に上昇した。

 熱い。熱い。熱い。

 この熱を知っている。

 この先に――



*****



「この先に、理宮さんがいる」

 炎が舞い踊る。床を舐め、壁を侵し、天井を這っている。

 轟々と空気が掻き混ぜられる音が市村の外耳を焼いた。

「行かなきゃ」

 一歩、踏み出す。二歩、駆け出す。三歩目にはもうカウントをやめた。

 あちこちから、恐怖や苦痛の声がする。

 この事件の原因は、いったい何なのだろうか。

 それを考える隙があるなら、走った方がいい。それくらいの判断は市村にもついた。

 ただ、走る。



*****



 時を遡り数時間前。

 筒香はるかは灯油缶を教室に持ち出して、あることの準備をしていた。

「伊織ちゃんがぁ、愛してくれないならぁ……もぅ、死んでもいいよねぇ」

 ぶつぶつと呟きながら、着々と灯油缶の中身をぶちまけ、板張りの床を濡らしていく。すぐに灯油は気化して、教室中を危険な香りでいっぱいにさせた。

 ここで火器を使えばどうなるかなど、いくら思考が鈍い人間だとてわかる。

 最後に筒香は自分にも灯油をふりかけて――当然のように、サバイバルマッチを擦った。


 轟。


 あまりにも悲惨な音を立てて、爆炎。教室や廊下で校内に明かりをもたらしていた窓は内側から弾け飛んだ。粉々になった硝子の破片は校庭や下の階のベランダに降り注ぐ。

 音による衝撃に生徒たちは訳もわからず声を上げる。

 次いで、爆炎による絶望を見た生徒は悲鳴を上げ、膨大なその勢いに飲まれていった。

 一拍遅れてやかましく非常ベルが騒ぎだす。ようやく教員たちも慌てふためき、校内放送を始めようと試みた。その試みは、失敗に終わった。

 筒香の嬌声が、どこかから聞こえたような気がした。きっと気のせいだろう。この爆炎の中で生きているとは思えないからだ。

 いくつもの金切声が重なりながら、炎は燃え続ける――


――その中を、市村は駆け出していた。

「第二書庫に、理宮さんはいる」

 必ずそうだ。絶対に、そこにいる。

 確信があった。

 そうでなければ、『理宮真奈』が『第二書庫』にいた意味がない。

 この燃え盛る炎が第二書庫を襲う前に、切り抜けなければならない。それだけを考えて、考えて、走って。

 何かに、蹴躓けつまずいた。

「あ……あっ……」

 焼けただれた顔には、見覚えがある。深山魅音だ。そうだ、あのとき。

(記憶の中では、死んで……)

 市村の思考が追いつく前に、深山は息絶えた。ただ、息が止まっただけなのかもしれない。だが、このレベルの火傷ではどのみち助からないだろう。

「――、くっ」

 気を奮い立たせ、市村は走り出す。記憶によれば、次に会うのは。

「樫村ッ!」

 市村の声は、燃え盛る廊下の中で一人、座り込んでいる樫村の耳に届いたようだ。

「い、ち、むら」

「ちくしょう、どうして、どうして」

「な、だよ……はは、マジんなって。おまえ、あのひとんとこ……げほッ!」

「もう、喋るなよ。頼むよ。助かってくれよ」

「残念だけど、さあ」

 記憶の欠片は真実を映していた。樫村の脚は、焼け焦げてどす黒く染まっていた。ただれとやけどだけではない。折れているのだろう、足首が嫌な方向に向いていた。

「樫村……」

「いいよ、大丈夫。それよりも」

「うん、俺は、俺は」

「ああ。だからさ」

 樫村は、にこりと爽やかに、そんな顔をできるような怪我ではないというのに、無理を押し殺して笑った。

「ばいばい。またな、じゃねえな――さよなら」

 親友の命が、目の前で崩れていった。

 涙が、零れる。

「っ、行かなくちゃ」

 命を犠牲にしてでも、助けたい人がいる。


【第二書庫の魔女】は――そこに、いる。



【Continue to the next Episode】

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