◆episode.46 そこには◆
「市村くん」
は、とした。市村は自覚のないうちに、頭痛に苛まれて意識がもうろうとしていたらしい。
「いま、俺、」
「大丈夫かい、君。やっぱり体調が悪そうだが」
「いえ、それはいいんですけど――」
目の前にいるのは、理宮だ。理宮真奈だ。
彼女とは、もしかして。
「俺と、理宮さんって。どこかで会ったことがありますか」
「……どうして、そう思うんだい」
「これまで、俺の記憶を探してましたよね、俺は、記憶を見つけたいって願いましたよね、そうしたら、理宮さんは『思いを晴らす』って、そう、言ってくれました。俺の中の記憶に、誰かに似てる人がいて。それは、もしかしたら」
市村は、しとりと黒いまつげに彩られた、猫のような瞳をしっかりと見て、言う。
「理宮さんなんじゃ――ないか、って」
理宮は、微笑んでいる。薄く、淡い薔薇色の唇に笑みを灯し、市村のことを見ている。
刹那。理宮の瞳が感涙に滲んだ。そんな気がした。
しかし次の瞬間には、理宮はいつもの意地悪そうな、おとぎ話に出てくる猫のような笑みを顔に宿して、言った。
「馬鹿だなぁ、市村くん。君、願い事を間違えているよ」
「え、え」
「君は僕に〈愛を知りたい〉って願ったんじゃないか」
「あ――……?」
記憶が、混濁する。
世界が、交錯する。
そのときの市村は、確かに、絶対に。
「俺は、記憶を取り戻したい、って」
「そんなこと、言われていないが。君、やっぱり調子が良くないんじゃないかな。少し現実と虚実が混在しているよ。自分を取り戻す努力をしたまえ」
「いや、でも俺は!」
「それよりも」
理宮は、混乱する市村の手の中にある、イルカのペンダントトップを、市村の手の上から握った。
「これを、僕にくれないか」
「…………?」
「伝えたはずだよ。君は僕に『燃えるような恋をする』とね。その一環さ」
「でも、俺」
「あはは、市村くん。何を焦っているんだい? そんなに焦らなくても、世界は簡単には変わらない」
「理宮、さ――」
理宮は、知らないのだ。市村が記憶を、どこまでも遠い記憶の中を旅していることを。
「理宮さん、は」
「何だい」
「俺のこと、信じてくれますか」
「もちろんだ。君のことを好きなんだから」
「俺、ずっとずっと遠いところにいたんです。よくわからない世界で、たまに、嫌なものをみたりして、そんで、あんたがいなくなったりしたんです。だけど、気が付いたら理宮さんはここにいて――俺のことを、好きって言ってくれるんです」
「……うん」
「俺はその世界の中で、記憶が無くて。理宮さんのことも知らなくて。覚えて、いなくて。それなのに、理宮さんは俺に良くしてくれたんです。いつも通り、からかったり、意地悪したりしながら」
「ああ、それで?」
「でもその記憶の中では、理宮さんがいなくなって。最後に見た理宮さんは、いつも知ってるその姿じゃなくて。遠い記憶の中で、俺のことを知っていてだから――」
そこまで言って、市村は気が付いた。
目の前にいる、この女性は、本当に【理宮真奈】なのか?
「ねえ、理宮さん」
「…………」
「あんた、誰だ」
苦々しく、口に出す。市村の瞳から涙が溢れた。誰も信用できない、と思った。
目の前にいるのが、自分の心を激しくかき回す【理宮真奈】ではないのではないか、とも。
「――く、ははッ」
少し俯いた理宮は、暗い前髪の影の中、哂(わら)う。
ぞ、と市村の背中に怖気が走った。凍るような気持ちの悪さが、滑り落ち、市村の血の気を連れ去っていく。
だが、理宮の反応は思ってもいないものだった。
「あっはははは!」
面白げに、楽しそうに、屈託なく理宮は笑った。
「どうしたんだ、どうしたんだい市村くん。何かい? 僕がそんなに信用できない『魔女』だとでも言いたいのかな。しかし、心外だなぁ、心外だ」
「はぁ!? な、何がですかっ! 俺、変なこと……確かに言いましたけど……でも、そんな笑われるようなこと、言ってませんよ!」
市村は自意識を取り戻し、よくよく考えれば支離滅裂なことを話していた、と思い返す。理宮に笑われるわけだ、と納得しようとした。
そのとき、だった。
「君は、僕が何も知らないとでも?」
「は、ぁ……?」
「僕が何も知らないで『魔女』をやっているとでも思ったのかい? 心外なんだよ、それがね。僕は『魔女』だ。『第二書庫の魔女 理宮真奈』だ。その僕が、君のなにもかもを知らずに『願い』を叶えようと、そう言っているのかと思っているのかね」
「どう、いう意味ですか」
「そのままの意味さ。僕は、確固たる僕をもってこの世界にいる。この世界で『魔女』として顕現している。反対に問おう。君には、この意味がわからないのかい?」
湿った、理宮の笑み。理宮の笑みに、市村は傷口が膿んでいくような痛みを心に抱えた。
「俺の願いを、全部わかっているっていうんですか」
「そうかな、そうだね。君がそう思うならそうなのだろう。君が〈記憶を取り戻してほしい〉と願ったところで、〈愛を知りたい〉と願ったことで、僕がやることは変わらないのだ。僕は、どんなことがあっても、どういう形であれ『願い』を【叶える】のだ」
「どうして」
市村には、わからないことがたくさんあった。理宮は何者なのか。理宮との【運命】はどうなるのか。今、自分はどういう状況に置かれているのか。
混乱しかない。脳内が真っ白に色あせていくような気がした。市村は、理宮の前では何もできないのだ。
「さぁ、君は願いたまえ。僕という存在を使うのだ。それこそが、僕という『魔女』にとって最高の幸福なのだから」
「俺、は」
言葉を吐くのが、強い。市村の中で言いたい言葉は決まっていた。だが、それを言葉にするのが恐ろしかった。理宮が【運命】とするとき、彼女もまた――絶望を味わうのではないか、という迷いが、口を開くのをためらわせた。
しかし、市村は恐怖を振り払って、理宮に言った。
「俺は、『思いを晴らしたい』です」
それは本来、理宮が言葉にするべきものだった。
「俺は理宮さんに、『思いを晴らして』あげるって言われました。俺は、その『願い』を【運命】に変えてみせます。そして――理宮さんと、一緒に生きることを、選びます」
市村は、手の中にあったイルカのペンダントのチェーンを理宮の首に回した。震える手で、不器用ながらもなんとか留め具を噛み合わせる。
「俺は――あんたに惚れてやりますよ。そして、【燃えるような恋】をするんです」
市村の瞳をしっかりと見つめて、市村の『願い』を聞いていた理宮は、開口した。
「グレイト」
そしてその口は、すぐに塞がれた。理宮自身の唇と――市村の、唇によって。
ほんの軽いものだった。一瞬のことだった。だが市村には、一瞬が永遠にも思えたし、同時に一瞬だということを信じられなかった。
「君は、僕の『願い』を叶えてくれた。【運命】を作ってくれた。それだけでも十二分に評価しよう。だから――」
理宮は市村の両手を持ち上げ、小さな手で包んだ。すると、市村の手の中に、じんと熱くなるものを感じた。
「う、あ、つ」
「君は、思い出すといい」
理宮の表情が、切なくなる。
「さあ。【思いを晴らす】ときが来た」
それから、理宮は再び市村の前から姿を消し。
市村は、再び記憶を彷徨った。
【Continue to the next Episode】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます