『魔女』は悠々と
◆Episode.38 雑音◆
理宮真奈。
市村友希。
二人が出会ったのは、春の日だった。
桜の雪が舞い落ちる、春の日だった。
「あんたが、ここの――『第二書庫の魔女』」
「そうだよ、そうだとも、ああそうさ! 僕がこの場所の住人にして番人、賢人にして主人の『魔女』、理宮真奈だ」
理宮は窓際の背の低い本棚の上、ちょうど出窓のようになっている場所に脚を組んで座っている。
猫のような瞳が、市村の瞳を射抜いていた。じっとりとした、長いまつげに彩られた漆黒の瞳が市村を見る。
「君は――何という名前だね?」
「市村、友希」
「そうか、市村くん。市村くんね。ふぅん。市村友希くん。君は『願い』があるためにここに来た」
「そうです......あの、本当に『願い』が」
「叶うよ」
「!」
「叶えるさ、叶えるよ。どんな形になるのかはわからない。だが、確実に叶うだろう。それがどれだけ幸せな結果になるか、残酷な結果になるか、僕には関係のない話だけれどね」
ごくり、と市村は生唾を飲む。市村の『願い』が叶う。それを覚悟するのに、一瞬だけ躊躇った。それでも言葉にしなければ始まらない。どうせ、叶っても叶わなくても同じようなものだ。ならば、と、市村は口を開いた。
「俺は、〈愛〉を知りたいんです」
「へぇ、〈愛〉ね。何故そんなものを知りたいんだい」
「ずっと、ずっと違和感を持って生きているんです。俺は、何に対しても、好きとか愛してるとか、そういうのを理解できないんです」
市村は、震える声で続ける。
「俺はそんなものが気持ち悪くて、仕方が無いんです。でも、みんなそんなこと気にしないで、あれが好きとかこれが好きとか、どんどん言うんです。どんどん持つんです。俺には理解できなくて。――ばあちゃんが死んだときも、何も感じなくて」
声が震えているのは、理由があった。吐き気に耐えているのだ。
言いながら、気持ちが悪くて仕方がなくなっていた。今にも胃の腑の中身を吐き捨ててしまいそうになった。無理に飲み込んで、理宮に懇願する。
「そうかい。ならば、君の『願い』を叶えてあげよう」
「ほ、本当に!?」
「ああ、本当さ。本当だとも。誠に真実、奈落の底まで正直に叶えて進ぜよう。ただし......」
ひとつ、理宮は間を置いて言った。
「君は僕に、『燃え上がるような恋』をすることになるだろうけどね」
「は、はぁ?」
「これがどんな形になるのか、今の僕にはわからない。だが、確実に君の『願い』は【運命】に変わる。それは間違いない。絶対に、絶対にだ」
「ていうか、愛を知らないって言っている俺が、恋、ですか? どういうことなんです、それ」
「僕が『魔女』たる由縁なのだよ。僕の言うことは【運命】になる。これが、僕の持つ『力』さ。この脳の中身と引き換えに手に入れた、尊い尊い、愛おしい能力だよ」
「そう、ですか......」
そうまで言われても、市村の心に実感はなかった。むしろ、この『魔女』と名乗る変人に恋をするなんていう行為ができるとは、とうてい思えなかった。
けれど、その『魔女』自身はそう言うのだ。
「これが僕の、理の宮にありし真実の奈落、『第二書庫の魔女』たる理宮真奈の答えさ」
信じられない。そんな表情で、市村は理宮の目を見る。訝し気に、かつ、少しだけ怒りを込めた目で。
市村の目を、理宮は深淵の瞳で射る。暗く、深く、どこまでも暗い猫のような瞳で、市村の目をじっと見つめる。
二人はその場で対峙した。
静かに、時間が流れた。やがて――
轟
と、桜吹雪が舞った。
理宮の背後で、火花が煌めくように、花びらが舞った。
そう、炎、炎の、ような――
――ノイズ――
「そうか、君はまだ」
理宮の寂しそうな瞳が、市村を見ていた。
一瞬のことだった。刹那のことだった。すぐに凛々しさを取り戻した理宮は、猫のような瞳で市村を見た。
――ノイズ――
*****
目を、覚ます。
目が覚めると、ぐっしょりと汗をかいていた。
市村は上半身が裸のまま、ベッドに倒れこんだまま、意識を落としていたようだ。意識を落としていたと思えないほどに、リアルな幻想の中にいたのだ。
「はぁ......今、何時だ」
ベッドサイドの時計を見ると、午前六時を示していた。シャワー室に寄っている暇はない。とりあえず簡易洗面台で水を被り、頭と顔を拭いて、ついでに身体までタオルで拭いた。
やっとすっきりしたところで、冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取り出して、半分ほど中身を胃に流し込んだ。これで、朝食の代わりにすることにした。
「学校、行こう」
春休み前は、ほとんど学科授業がない。だが、市村には学校に行かなければならない理由があった。
「理宮さんに、会わなくちゃ」
そのことだけを頼りに、市村は無理に制服に着替える。堅苦しい詰襟は羽織るだけにして、スポーツバッグの中身もろくに確認せず、寮を飛び出した。
*****
結論。
理宮真奈は、そこにいなかった。
『第二書庫の魔女』たる理宮は、その場所に居なかった。
書庫の背の低い本棚の上、ちょうど出窓のようになった場所。いつも、そこに腰かけているのに、それなのに、理宮の姿が無かった。
「理宮、さん?」
市村の声が狭い空虚に響く。一人、人がいないだけでこんなにも音が反響するのか、というくらい響いて聞こえた。
「何で、何でいないんだ......こんなときに」
焦りで、市村はスポーツバッグを取り落とし、後頭部を乱暴に掻く。熱に似た痛みを伴ったが、それでなんとか、気持ちが抑えられた。
「理宮さん、どうしていないんだろう。あの人がこの部屋から出たとこ、ほとんど......ん?」
そこで気が付いた。
理宮が、この部屋を出ていたことは。
市村と〈初めて〉出会ったあのときだけ――
――轟
窓の外で、花吹雪が舞った。
理宮のいない、窓の外で。
理宮がいない虚ろな空間に、窓枠が凍ったようにはめ込んである。窓の向こうで、花びらが舞う。
まるで――何かから、火花が、――
*****
――あたりから、火花が。
ばちばちと木屑が焼ける音が響く。何度も天井が崩落する。梁が、屋根が、落ちそうになって、落ちてきて、燃える。
「××さん!」
市村は声を張り上げて彼女の名前を呼ぶ。
燃える炎の中を走り抜けながら、彼女の名前を呼ぶ。
分厚いスニーカーの底が焦げ、熱を帯びてきた。否、溶けて、足裏にじんじんと炎を伝えてくる。
ここで倒れる訳にはいかなかった。
彼女を助けるまでは――
*****
〈市村くんと僕、理宮真奈の記憶〉
いつの間にか市村は窓際に、背の低い本棚の傍に立ち、その手紙の表書きを読んでいた。
理宮の字だ。達筆な、美しい、流れるような字。これは、絶対に理宮のものだ。そう確信づいた市村は、本能のままに封を開ける。
慌てているせいか、二、三度ほど手を滑らせた。だが、無事に開封した。
中には、イルカを模したペンダントトップが二つ。
ひとつは、薄桃色の猫目石。ひとつは、薄青色の猫目石。
イルカたちは、それぞれ一つずつ抱えていた。
「これが、理宮さんと俺の記憶......?」
刹那、ペンダントトップが熱を帯びた。
熱い。
取り落としそうになり、落とすまいと握りしめる。
「あ、つい......」
握りしめた拳をそっと開くと、ペンダントトップがじわじわと焼け、鍍金が爛れ始めていた。それでも猫目石は、健気に割れまいと自意識を保っている。
「理宮さん」
猫目石の輝きに、理宮の瞳の深淵を重ねる。
眩暈。市村はまるで後頭部を殴られたかのような酩酊を覚え、その場にうずくまった。
「理宮、さん」
彼女の名を呼ぶ。『第二書庫の魔女』の名を呼ぶ。
「――――」
言葉にできなくなっても、呼び続ける。
最後に、暗闇を見て。
市村は意識を落とした。
【Continue to the next Episode】
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