◆Episode.39 目覚める◆
夢のような世界を漂った。
まるで、何もない空白のようでもあったし、宇宙からの波形を受診する砂嵐のようでもあった。
不安感は無かった。むしろ、どこかで必ずこの夢の中から脱することができると信じている自分がいた。
市村は、思う。
理宮の存在を。理宮との関係を。理宮への感情を。理宮への愛情を。
理宮真奈の存在。
彼女は紛うことなき『魔女』だ。今までのことを見ていたらわかる。彼女は確実に『力』を持っている。何がしかの、理解の得難い『力』を。今まで、これまで、ありありと見せつけられてきた。もう、信じることしか出来ない。彼女の、存在を。
理宮真奈との関係。
彼女とは、好意的な関係を築いていると言っていい。何かにつけて馬鹿にしてきたり、かと思えば市村のすることに喜んだり、そうかと思えばまたからかったり。猫のようにくるくると感情も表情も変わる理宮だが、それでも、同じ空間に居るのは心地よい。ならば、好意的な関係を築いていると言っていいだろう。
理宮真奈への感情。
市村は戸惑っていた。何に戸惑っているのか、何を戸惑っているのか、わからない。だが、間違いなく心の中にわだかまりが出来ていた。どうしてそれが形成されたのかを、理解できない。しかし、確実にそこにある。理宮への、複雑な、特別な〈感情〉。
理宮真奈への――愛情。
「着きやしたよ、旦那」
ふと、浮薄な声が市村にかけられる。
「はぁ......いつの間にか、寝ちゃってたんですね、俺」
「へぇ、そりゃもうぐっすりと。日ごろ、疲れでも溜まるようなことしてるんですかい?」
「まあ。理宮さんといると」
愛情のことを考えると。
「結構、疲れますから」
がしがし、と後頭部を掻いて、かぶりを振って市村は眠気を覚まそうとする。ぼんやりとした感覚が未だ抜けきらないが、それでも、思考をするのに不自由はしない程度にまで覚醒した。
理宮への――愛情、の、ことは。
「あまり、考えないようにしよう」
ぽつりとつぶやいて、座席に身を預けた。あまりそういったことを考えても、吐き気をもよおしてしまうだけだと考えたのだ。
「何か仰いましたかい」
「いえ、何も。ところで、玖城さんでしたっけ。この車、どこに着いたっていうんです」
「おやおや、お忘れで。お嬢の通う病院ですよ」
「病院、って」
駐車場から見える二つの建物。片方は平屋建てになっており、明るく、清潔感があって、駐車場からも近い。警戒心を取り払おうという試みがなされていることを、はっきりと見てとれた。
もう片方の建物は、違った。
物々しい、窓に嵌った鉄格子。二重三重になったドア。暗く、どこか刑務所めいたような雰囲気がある。
「この建物、病院なんですか」
「おっと、閉鎖病棟を見るのは初めてでいらっしゃる」
「へいさ......? どういうものなんですか」
「ここにはですねぇ」
ばん!
と、肉塊がガラス戸にぶつかる音がした。肉塊は、生きている。生きている人間だ。それを生きているというならば。
「きえええええええ!! ぎええええええええ!!」
言葉にすらなっていない叫び声を、二重と三重の間の扉の間で上げている〈人間〉。生きて動いているということは市村と同じ命を持っているはずだが、その瞳は正気を保っておらず、まるで同じ人間であると思えない。
「ひっ」
「ここはですねぇ、あんなのがゴロゴロいる場所でさぁ。いつだったかお嬢もあン中にぶち込まれたこともありやした。最悪の環境だって吐き捨ててやしたよ」
「理宮、さんが」
理宮がかつて、この〈人間〉のように正気を失くしていた頃があったということだろうか。それを想像するだけでも、恐ろしい。どうして理宮がそんな場所に入っていたのか、問おうか否か迷っているときだった。
清潔感のある建物の方から、白い袋を右手に下げた理宮と、白衣の男性が出てきた。理宮は男性にひとつ頭を下げると、まっすぐに駐車場までやってきた。
「待たせてしまったようだね。どうだい、市村くん。玖城の運転は中々に丁寧だっただろう。僕の自慢の手下さ」
「へっへ、お嬢に褒められるのはなんだかこそばゆいですねぇ」
「そんなに
「理宮さん、あの」
「――ああ」
市村が問おうとする前に、理宮は閉鎖病棟の方へ視線を向けた。先ほどまで叫び声を上げていた〈人間〉は扉の奥へと引きずり込まれ、残響を残しながら姿を消した。
「あの場所を知ったのだね」
「あんたはあそこに」
「居たことがあったよ。ちょいと頭をやられていた時期があってね。まあ、今となってはそれも良い思い出さ。思い出したくもないくらい、素晴らしいね」
吐き捨てるように理宮は言うと、さっさと市村の方の座席とは反対の方のドアを開け、ふかりと座席に身を沈めた。
「はあ、やっと堅苦しいカウンセリングから解放されたよ。やっとだ、やっとだよ。さあ、次の目的地へ行こうじゃないか。玖城、運転を頼むよ」
「あいさぁ」
玖城はひとつ返事をすると、キーを回してエンジンをかけ、駐車場から車を出した。
「市村くん。これ、何かわかるかい」
理宮は走る車の中で、右手に持っていた袋をかかげて見せた。
「何かの、包みですよね。薬......ですか」
「そう。僕の正気を保つためのね。こいつが無いと、僕はああなってしまう」
ああなってしまう。意味するのは、きっと先ほど見た〈人間〉の様子のことだろう。
「どうだい、貴重なもんだろう」
「そうですけど。どうしてあんた、そんなものをいくつも飲むようなことになっているんですか。こうやって、話している分には普通に見えますけど」
「そりゃあ、この薬が〈普通〉にしてくれているからね。僕も一歩間違えばケダモノさ」
「そうじゃなくて、経緯ですよ。何があんたをそんな風に」
「旦那ァ」
不意に、玖城が大きな声を出した。
「女のことをそう易々と聞き出そうとするもんじゃあねぇですよ。それがお嬢だってんなら尚更です。誰しも理由ってェもんはあるでしょう。旦那にも、ね」
「......すみません。ちょっと、不躾でした」
「いやいや、構わんよ。誰だって人間がケダモノになる理由は気になるものさ。まあ、あんなことが――」
*****
ばし、ばし、と。肉を叩く音が響く。
髪が引きつれる感覚がする。
「ああ、もうどうしてあなたは! 真奈、真奈、どうしてあなたは!」
首を絞められて息ができない。
脚を踏まれて痺れる、ような――
*****
「あったんだからね。......市村くん?」
「っは、はぁ、は......り、みやさ」
「どうしたんだい。車酔いかな、顔色が悪い」
「な、んか。今。ちょっと、俺」
「取り乱すなよ、じっくり考えたまえ。ここは安全だ。何も怖いことはない」
「は、ぁ。すみません」
「はは、あんまり謝るなよ。さっきから君、ちょいとおかしいぜ。気付けの薬は出されていないから、手助けは出来んよ」
「要りませんよ、そんな怖そうなもの」
「ううん? 怖いだなんて言ってくれるね。ま、ケダモノを人間に変える魔法の薬として見ているのなら、そう考えないでもないが」
「............」
いつもは心地よく感じる理宮の軽薄な口調にさえ嫌気がさし、市村は口を閉ざして窓の外を向いた。
橋を渡る。広い、広い河川が見えた。海に繋がる、大きな河口。この先に、何があるというのか。
考えている間にも、どんどんと車は進み、やがてとある場所の駐車場で止まる。
「あの、理宮さん。ここって」
「そうだね。公園だよ」
「臨海公園なのはわかりますけど」
言いながら、理宮は身軽に車から降りた。慌てて、市村も後を追う。
袋は車の中に置いていくらしい。理宮は藍色のサコッシュを肩にかけ、それが落ちないように器用な仕草で背伸びをした。まるで、猫のようだ。
「市村くん。ここでね、君と僕は」
くるりと、長いまつげに彩られた深淵の瞳が市村を射る。その拍子に、市村の心臓が大きく一度、飛び跳ねる。
何か、と市村が恐怖していると、理宮はこう言った。
「今から、デートをするのさ」
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