◆Episode.35 少年の記憶◆
「市村君、これ、受け取ってください!」
市村の目の前には、女子がいた。当時、通っていた公立中学の同級生、同じクラスだった、と記憶している。
だが、その程度だ。
それ以上の感情も、感覚も、感想も、持ち合わせていない。
だというのに、市村の目の前にはその女子、確か名前は――確か苗字は
(どうしたもんかな......)
市村は、少し前からこんなことが起こるのではないか、という心構えはあった。しかしいざ起きると、どうしたら良いかわからない。
その兆しは、数日前からあったのだ。
*****
市村友希は、公立中学に通い始めてすぐに、ちょっとした有名人になった。
そもそも、市村は自身の容姿を取り立てて良いと思ったことはない。
けれど周りの人間は逆に、市村の大人びた背格好と、達観した表情、少し色素の薄い髪や瞳。そして、整った相貌に大きな好感を抱くことが多かった。多くは画面の向こうのアイドルを見るような〈ファン〉としての目だったが、ときに〈恋人になりたい〉という気持ちで市村に接する人間も少なくなかった。
そして、市村は入学すぐに有名になり、そのまま初夏を迎えた。
「おーい、市村。帰ろうぜ」
「おう。はぁー、あ。今日も疲れたなー」
市村は、席に座ったまま大きく背伸びをした。鞄を机の上に乗せ、机の下の収納部分に入っていたノートや教科書、筆記用具などをしまっていく。その中身は整然としていて、これも市村の好感度が高まる要因にもなっている。
「ほんとな。こんなに勉強漬けにされるなんて思ってなかったよ。こんなことなら一生、小学生でもよかったんじゃないかなーなんて」
「はぁ、そんな情けねえこと言うなよ」
「冗談、冗談」
軽口をたたきながら、市村と、友人といっていいのだろう、そんな存在である吉竹と教室を出る。
「中間テストで部活が無いのはなぁ。こんなんじゃ体がなまっちまう」
「は? 何? 市村ドMなの?」
「何でそうなるんだよ! トレーニングだよ、トレーニング。筋トレとかは自分の家でもできるけど、走り込みとかは時間とらないとできないし、こんだけ勉強にかかんなきゃいけないとなると、そうそう時間もとれないからな」
「ふーん。なんか変なの」
「変でもいいだろ。トレーニングなんて趣味みたいなもんだし」
「かーっ! これだからモテる男は違うわ! トレーニングを趣味とか言っちゃうもんね」
「はぁ。お前、何が言いたいんだよ......」
そんな風に話しながら、吉竹とともに家路をたどる。その中で、一点。いつもと少し違うものが入り込んだ。
「ねえねえ、市村君。わたしも一緒に帰っていい?」
声を掛けてきたのは、鈴木だった。市村としては、特に断る理由もない。理由がないのに邪見にするのは、なんとなく鈴木が可哀そうに思えた。
「いいよ」
と、市村は返事をする。それは捨て犬に餌をやるような、気軽な気持ちだった。
「ありがとう!」
以来、毎日のように鈴木は市村の帰り道についてくるようになり、次第に二人で帰ることも多くなり、いつしか鈴木は市村の部活が終わるのを待ってまで一緒に帰るようになっていた。
(どうして、こんなくっついてくるんだろう)
鈴木がくっついてくるようになってから、三月ほど。季節は廻り、秋の文化祭が終わって、皆が情熱的になっている最中のことだった。
市村と吉竹は、昼休みだということもあって、机を二脚くっつけ、その上に菓子パンを広げていた。市村の口元には、豆乳のパックがある。
「なあ、なんか最近このクラス、男女のペア多くなってない?」
「え? 市村気づいていないのかよ」
「はぁ?」
「そりゃあ、恋愛イベント起こりまくったからっしょ!」
「いや、そんなこと言われても」
「なあなあ市村は? 市村は起こさないのか、恋愛イベント」
「起こす起こさないも、そんな相手、いないだろ」
市村の言葉に、教室のすみ、主に市村を中心としたグループに緊張感が走った。
「え、はぁ、俺なんか悪いこと言ったかな」
「いやいやいやいや、お前、鈴木ちゃんみたいな可愛い女の子を捕まえといてそんなこと言いますか。そんなこと言っちゃいますか」
「何その話。俺、いつのまに鈴木と」
「毎日一緒に帰っておいてそれかよーッ!」
吉竹は軽く叫ぶと、市村の腹に弱めのジャブを入れた。
「いって、何すんだよ」
「この不埒者~。鈴木ちゃんが可哀想だと思わないのかよ」
「だって」
そしてとうとう、市村は。
「俺、あの子に興味ねえもん」
と、心情を明かしたのだった。
鈴木はすぐに行動を起こした。市村の声が聞こえていたのだろう。居たたまれなくなり、大きな音を立てて席から立ち上がり、飲みかけのいちごみるくのパックを残してどこかへ走り去ってしまった。
「あ~あ......」
「はぁ。なあ、これ俺が悪いのかな」
「悪いっていうか、うん」
市村が煮え切らない態度を取って、吉竹を含むその周囲が沈黙する。市村はその中、適当にパンを食べ終え、一言、言った。
「この豆乳、美味い」
*****
(で、これが恋愛イベントね)
目前の光景に、市村は困惑する。この状況、受け取らなかった場合、鈴木は思い切り泣き出すか、そういったあまり良くない精神状態に陥るだろう。だが、市村の中には鈴木に対する好意が――興味が、一切ない。
「まあ、受け取るけどさ」
「う、うんっ」
急に、鈴木は頭を上げる。市村は鈴木の手の中から、体温で、少ししわが寄った封筒を奪い取り、その場で封を開けた。
「え、あっ」
「『市村君のことが、初めて見たときから好きでした。よかったら、これから恋人として仲良くしてください』......ね。はぁ。わかってたけどさ、こういう内容だってこと。これを見たら、俺も少しは変われるかと思ったんだけど」
「市村君......?」
独り言のようにぶつぶつと自分の気持ちを吐露する市村に、そっと鈴木は声をかける。
呟きを終えた市村は、鈴木の目の前に今まで読んでいた鈴木からの手紙を突っ返して、言った。「はい、受け取って」
「な、何で?」
「俺の気持ち。ラブレター破るほどじゃないけど、中身読んで改めて、俺が受け取るもんじゃねえって思ったから、返す」
「――ッ」
「俺な。鈴木に一切興味ねえんだわ。いや、何だろう。色んなものを〈好きになる〉ってのがわかんねえ。だからさ。俺はこれ、受け取れねえ」
市村が言い終わるより早く、鈴木は市村の手から乱暴に自分が心を込めて書いた手紙を乱暴に奪い取り、涙目になってどこかへ走り去っていった。
次の日から、市村はクラスの人間から白い目を向けられることになる。
女の子をフッた、あまり心が優しくない人間なのだと。
だがそんな市村は、何も気にせずに。
「これより、こないだの奴の方が美味かったけどな」
と、鈴木よりも強い興味を、豆乳に感じていたのだった。
【Continue to the next Episode】
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