◆Episode.36 夢だったモノ◆
「は、ぁ」
汗をかいて、目が覚める。もう何度これを繰り返しただろうか。
市村は額に浮いた冷や汗をぬぐい、無理に立ち上がって小型の冷蔵庫に入れてあったミネラルウォーターを半ば無理やり喉に流し込んだ。あまり冷えていない。味も感じない。だけれど、喉にへばりつく嫌な感覚を取り除きたくてどうしようもないのだ。
「は、は、はっ......」
ペットボトルの中身を空にしたところで、ようやく息をついた。
寝間着と部屋着の兼任にしている半袖のシャツがべっとりと汗で肌に張り付き、気持ちが悪いことこの上なかった。肌から引きはがすように脱ぎ捨て、そこで力尽き、ベッドの上に座り込んだ。
「な、んで。あんなこと思い出すんだ」
あの日から、市村は周囲から奇異の目で見られ続けた。何も得ることはなかった。ただひたすら、いじめのようなものに耐え、白い目から興味をそらし、孤独に無関心を貫いた。
やっと中等部から続く鈴蘭学園に、高等部から編入した頃の市村の周りには、支えになる人物が一人としていなかった。
「はぁ......」
上半身を裸にしたままで、市村はベッドに倒れ込む。もう何も考えたくなかった。身体が怠かった。このまま、天井を仰ぎながらスプリングの海に沈んでいってしまうのではないかという錯覚さえした。
「熱でも、あるのかな」
右腕を目の上にあてがってみる。汗で冷えた腕が、未だ火照るまぶたに心地よかった。
ぐらり
また、沈み込むような錯覚を起こす。このまま眠ってしまうのかもしれない。もう何時間、眠っていただろうか。それとも、まだ数時間しか眠っていないのだろうか。
もういい。眠ってやる。
そう決めた市村は、耳鳴りに身を任せ、ノイズの中に身を浸した。
*****
それは既に、市村の記憶には残っていない世界だった。
しかし、現実に起きたのであろう記録。史実。事実。
生まれたばかりの市村の周りに、家族が集まっている。その景色を、まるでホームビデオを見ているような感覚で、市村は見下ろしていた。
まだ若い母。
しわの少ない祖母。
飼い犬であるクロ。
その全員が、生まれたばかりの市村を囲んで、全員とも笑顔で市村を見ていた。
「友希―。ともー。ほら、こっちむいて」
母の言葉に、赤子の市村は母の方を向く。カメラを構えた母は、市村のことを写真に収める。
父はというと、手におもちゃを持って市村の気を引こうとからからと音を鳴らしていた。
「
「ああ、ごめんなさい、公子さん」
祖母である公子の言葉に反応したのは、父の希だ。
「いいじゃないの、お母さん。二人目だって、一人目のときと同じようにしてあげなくちゃ。ね、友希」
その傍では、年子である兄の
「おっと、ごめんごめん。ほら、明希もこっちおいで」
「ほら、とも。お兄ちゃん来たわよ」
友明はにこにことして明希と市村を引き合わせる。年子であることも手伝って、二人ともにこにことして仲がよさそうだ。
「よかった。ねえ、あなた。幸せよ。こんなに可愛い子供たちに恵まれて、あなたとも一緒にいられて。こんな幸せが、ずーっと続けばいいわね」
「もちろん続けるさ。友明。明希と友希と、みんなで一緒に仲良く過ごしていこう」
「ええ!」
そうして二人は、軽く頬を合わせるようにハグをした。公子は、二人の様子を微笑ましく思いながら見ていた。
こんな光景を、市村は記憶に残っていない頃から何度も見てきた。父母は仲が良いし、祖母とも関係が良い。兄弟間はどうかというと、兄の明希がほぼ一方的に市村へ愛を注いでいるような状態だ。
そんな家族のことを、市村はどう思っていたのか。
「興味が、ないんだよな」
ぽつりと、光景を見つめていた、現実感を持っている市村が言葉をこぼした。
どうしても、この家族に興味を持てない。楽しさ、面白さ、怒り、哀しみ、悩み、以下諸々の感情を、市村は家族に対して持つことができない。
だから、市村は毎日のように思っていた。どうして、母は自分に毎日、食事を作り服を整理し日々の面倒を見てくれるのだろうと。
同じように、父にも思っていた。どうして、父は自分たちのために汗水流して働いて、仕事で疲れているであろう身体に鞭打つように遊園地に行ったりなどするのだろうか、と。
明希に対しても思っていた。どうして兄は、自分に対して意地悪をしたり、撫でたり、ときに菓子を譲ったり、嫉妬したり、そんな〈面倒くさいこと〉をするのか、と。
公子に対しては、何も思っていなかった。そこにいるだけなのだ。老人というのは、そこにいるだけなのだ。それだけで良いとでも言わんばかりの待遇を受け、静かに笑っている。もちろん、細々としたことをやっている。服のアイロンをかけるのは公子の仕事だったし、そのおかげで市村のハンカチはいつもぴしゃりとしていたのだから。
だから、公子の葬式の際、あの発言をしたのだ。
「明日から、誰がハンカチにアイロンをかけるのかな」
それは純粋な疑問だった。一人分の食い扶持が減るということは、一人分の労働力も減るということだ。
公子の役目だったアイロンがけは、明日から誰がやるのだろう。皆がすすり泣き、思い出に浸るあの祭儀場で市村はぼんやりとそれだけを考えていた。
公子との思い出は、あまり残っていない。興味が無かったのだから。公子の方は、市村に対して愛情があったようで、エンディングノートにいくつも、市村が生まれてから公子が病床に臥せり、そして死ぬまでの間のことが書かれていた。
やはり興味が持てなかった。
それを読んでおいおい泣いている家族を見ても、何故そんな感情を持てるのか、不思議を通り越して不気味ささえ覚えていた。
どうして、自分が誰に対しても、何に対しても、一切の感情を抱けないのか。
知りたいとは思わなかったが、父親がなんとなく話してくれたことがある。
「友希。お前はな、昔、自閉症だったんじゃないかって言われてたんだ」
「へえ。それで?」
「お前は、色んなものに感情が薄かったんだ。自分の気持ちを出さないっていうのかな。そういうのを失感情症とか、難しい言葉ならアレキシサイミアなんて言ったりもする」
「......だから?」
「お前がそれで辛くないように、何かしてやれないかと思ってな。この学校なら、お前が進みたいと思っている道に進めるだろうし、心理学や哲学なんかも高校のカリキュラムに組み込まれている。どうだ?」
「はぁ。まあ、父さんが言うなら行くよ。まだ志望校とかなんとか、全然決まってなかったし」
そして、言われるがままに市村は鈴蘭高校に入学することになる。
それが、全ての始まりだった。
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