『魔女』はうっとりと哂いながら

◆Episode.33 セカイの中で◆

 市村は、走っていた。

 目的地にたどり着くまでには、まだ時間がかかる。しかし、向かわないという選択肢は存在しない。

「××さんの部屋に、行かなくちゃ――」

 とにかくそれだけを考えていた。その目的地は、×××の最奥にある。地図は頭の中に入っていたが。

「どうすりゃいいんだ――これ」

 燃え盛る炎にまみれた廊下は、見たことのある場所とは違う様相をしている。

 紅く、赤く、朱く、炎は壁や床を舐める。

「行かなくちゃ」

 市村は自分の心を奮い立たせ、無理に走り出す。本能が恐怖を感じたが、理性と根性でねじ伏せることにした。

 走る。

 どこからか大きな笑い声が聞こえた気がした。悲鳴と重なった嬌声は、炎の舞いの中に消えていく。

 気にしている暇はない。

 今はただ、目的地までの道のりだけを考えた。まっすぐ前を向き走る。――すると、何かにつまずいた。市村の身体が、大きく傾く。

「何だ、これ」

 それは。見たことのある顔だった。焼け焦げ、ただれ、それでも面影を残すものに、見覚えがあった。

「深山、さ」

 死体。死んでいる。深山魅音は死んでいる。

 傾いた市村の身体から、力が抜けそうになった。あまりに唐突な知人の死。内臓がひっくり返りそうになる気分の悪さを、頭を振ることで取り去った。

「今は......」

 死んでいる深山を残し、市村はさらに奥へ向かう。

 廊下の端に、見たことのある顔がへたりこんでいる。樫村だ。

「樫村ッ」

「あ、は、市村......何やってんの。マジで」

「俺は、××さんを」

「ああ、あの、人」

「助けに行くんだ。樫村も逃げろ、早く!」

「残念だけど、さあ」

「何だよ、ほら、立てよ」

 市村は樫村に手を伸ばす。だが、樫村はその手を振り払った。

「脚、限界なんだ」

 見ると、樫村の脚は焦げ、どす黒く染まっていた。ただれとやけどだけではない。折れたのか、足首が嫌な方に向いていた。

「市村、頑張れよ、マジで」

「樫村......お前......」

「ばいばい。またな、じゃねえな――さよなら」

 樫村はそう言って、にこりと笑い、意識を落とした。

「――ッ!」

 友人を見捨て、自分は何をしているのか。刹那、疑問が浮かぶ。

「俺が助けたいのは、助けるのは、××さんだ」

 市村は再び前を向く。走り出す。

 廊下には、惨状が広がっている。惨憺たる有様だ。

「げほ、ごっほ!」

 ふとドアの向こうから、誰かがせき込む音が聞こえた。ドアが、開く。

「ぎ、あああああっ!」

 ドアの向こうの空間に、酸素が急激に入り込む。炎が、爆発的に燃え上がる。

 バックドラフト。この現象にそんな名前がついていることを、市村は知っていた。

 燃え盛る炎に飲まれる人間の顔もやはり見たことがあり、その顔は、尊敬していた先輩である大山のものだった。

 心が痛む。ずきずきと。市村には、たった一人を助けるだけの力しか持っていない。痛みを無視して走る。

 轟、と音が鳴り炎が一層、強くなる。

「やだ、やだ、助けてー!」

 市村の行く方向ではない、廊下の分岐点の方から聞き覚えのある声がする。何度も身体をひねり、火の粉を払っている。

 声の主は市村の方を見た。目が合った。弓弦と、目が合った。

「いち、むらく――」

 弓弦が声を上げた瞬間、炎に舐めあげられた天井が崩落する。弓弦の上に、落下する。

「あああああ!」

 下敷きになった弓弦は、悲鳴を上げ炎の中に飲まれていく。また、市村はそれを見ていないことにしなければならなかった。

「早く、行かないと」

 ××の部屋までは、もう少しだ。

 廊下を曲がり、いくつかの扉を通り過ぎ、まだ炎の勢いが弱い位置までたどり着く。まだ、この場所からなら逃げられるのではないか。市村の脳裏をよぎる思いに答えるように、半開きになったドアが、ゆっくりと開く。

 その中にいたのは――



 轟。



*****



「何を考えていたんだい、市村くん」

「は、ぁ」

 目の前には、理宮がいた。炎の舞う廊下などではない。ここは。

「『第二書庫』......」

「そうだよ。他の何でもない、僕の根城の『第二書庫』さ。くくく、いきなりぼんやりしたから、何を考えているのかと思ったよ。そんなに木の葉の竜巻は美しかったかい?」

 あのとき、市村はめまいを起こして倒れたはずだ。今は、立ち上がって理宮に向き合い、にやにやとおとぎ話に出てくる猫のような笑みを浮かべた理宮にじっとりと眺められている。

「俺。どうしたんでしょう」

「さぁね。どうなったのかは僕にはわからんよ」

「ものすごい火事の中を、走っていたんです」

「へぇ、それで?」

「誰かのことを助けなくちゃならなくて」

「どこかわからない場所を走り回っていたのかい」

「いえ、知っている場所で。あの場所に、その誰かがいるはずなんです。――理宮さん。この記憶は、何なんですか」

「何だろうね。僕にはまだ答えを出せないよ」

 理宮の言葉に、市村は自信を無くす。

 あの記憶は、本当に市村のものなのだろうか。ノイズに紛れた誰かの名前は、いったい誰のものなのだろうか。

 市村は、涙をこぼしそうになり目を伏せた。止めることができず、一筋、雫が頬を滑った。

「何故、泣いているんだい」

「今見てきた記憶が、あまりに悲しかったんです。何人も、助けることができなくて。それでもたった一人を助けたいっていうエゴで走り続けて。見捨てるしか出来ない、死んでいく人を見て、見ないふりをして、見たけれど無視をして」

「傷つくことはない。君は悪くない」

「でも! ......でも、俺は」

「市村くん」

 市村の叫びを遮り、理宮は語る。

「この世界というのは残酷に出来ている。大事なものを手に入れようとすると、何かを失ってしまう。ポール・ワイスの思考実験を覚えているかい? あんな風に、人の『願い』の形が変われば、何かに変化すれば、【運命】に昇華されれば、心か、身体か、精神か、肉体か――かけがえの無い何かを失うだろう。そんな、残酷な世界に僕たちは生きているのだよ」

「だからって、身勝手が許されるわけじゃないです」

「そうかもね。それももっともな意見だ。むしろ、それが世界としてそうあるべき姿だ。でもね、市村くん。人間なんていうのは、みんなエゴとイドで生きているものだ」

「......理宮さんは、あの記憶の主を許すんですか」

「当然だ」

 きっぱりと、理宮は宣言する。

「僕は、己の理性と知性を以って、犠牲と代償を吊り合わせ、それを叶えようという人間を絶対的に肯定する」

 そして、猫のような瞳を意地悪そうに細めて、言った。

「僕は――『魔女』だからね」

 背筋が凍り付くほどに美しい笑みに、市村はどこか安心していた。そうだ。理宮はこうでなくてはいけない。

「はぁ......なんか、理宮さんには敵わないです」

「ははは! そんなの今に始まったことじゃあないじゃないか」

「そりゃそうですけど。それでも、たまには勝ってみたいですよ」

「おやおや、それは僕を言い負かすということかい? 嫌だなぁ、大変に嫌だ。あーあ。あーあーあーあ。市村くんは僕を大切にしてくれないと、そう言うつもりなのかな」

「いや、そんなことじゃなくて」

「じゃあ何だい? 言ってみたまえ、ほらほら」

 促す理宮に対し、市村は言葉を発せずに逡巡する。それでも、意思を固めて思いを伝えた。


「いつか、あんたに惚れてやります」


 市村の『願い』を叶える代償。何かの犠牲が必要になるであろう、『願い』。

 その言葉を聞いて、理宮は大きくうなずき、両手を広げ、芝居がかっていると言ってよいほどの身振りで喜んだ。

「ああ、ああ、素晴らしいじゃないか! その好意に、恋に、応えよう。君が想いを募らせ僕に向けて発するときには、君を肯定し受け入れよう!」

 実に嬉しそうな理宮を見て、市村はさらに安心する。涙は、もう流れていなかった。

 しかし、市村はまた――残酷な記憶に、身を浸すことになる。


【Continue to the next Episode】

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