◆Episode.31 胃の腑の中身◆

 屋上に取り残された市村の頭上から、雫が落ちてくる。それは徐々に数を増やし、小雨になり、強い雨となった。

 市村は、空を仰いでいた。濡れてしまえば、この心の中にある嫌なものが流れ落ちてくれるのではないかと思っていた。

「は、ぁ」

 薄く開いた唇に、雨粒が入り込む。冷たくて、何の味もしなかった。唾液と混じり、喉を滑り落ちて行く。

 足元に、市村が胃から吐き出したものがまき散らかされていた。そうは言っても、市村は食事をとっていなかったこともあり、水分と、少しの胃液が混ざった液体だ。目をそらしたくなるような、汚らしいものではなかった。

「俺、は」

 市村は戸惑っていた。自分の言葉に。


〈俺に――お前の死の責任を負わせるなッ!!〉


 市村は考える。どうしてそんなことしか言えなかったのか。樫村は、樫村は――友愛を、向けてくれたというのに。だが、友愛という感情を理解しようとすると、また胃がひっくり返るような感覚がした。目を閉じ、耐える、

 愛という感情が、わからない。

「理宮さんに」

 伝えに行かなくてはならない。本能的な行動だったが、それは正しいことだ。どこかで、そんな確信があった。それに従い、市村はふらふらとその場から歩き出した。



*****



「やぁ、見事に濡れネズミだねえ、市村くん」

 理宮に言われて、初めて市村は気が付いた。髪の毛からは水が滴り、詰襟もスラックスも雨水を吸って重くなっている。自分の惨状を、やっと自覚した。しかし、

「こんなの、どうでもいいです」

 そう、市村は吐き捨てた。

「理宮さん。教えてください。俺はどうして〈愛〉を感じ取れないんですか。どうして考えたらこんなに気持ちが悪くなるんですか。何が原因なんですか」

 雨で濡れた髪の毛がはりつく額よりも、身体にまとわりつくシャツよりも、この世界の何よりも。

「〈愛〉ってもんは、どうしてこんなに気持ちが悪いんですか」

 市村の言葉は、涙に震える。自分の声とは思えないような、情けない声だ。

 それを聴く理宮は、いつもの表情をしている。窓際の背の低い本棚の上、脚を組んで座っている。おとぎ話に出てくる猫のような笑みを浮かべ、市村のことをじっと見ている。

 市村は理宮の表情にほんの少しのいら立ちと安堵を覚えた。久しぶりの感覚だった。この感覚に呆れ、自分なりに理宮のことをかみ砕き、そして行動するのが市村の常だ。ようやく思い出した。

 一度。二度。市村は深呼吸をする。

「理宮さん。この〈愛が気持ち悪い〉ってのは、俺の記憶と関係があるんですか」

「さてねえ。君自身はどうなんだい」

「どうって」

「何か、感じるものはないのかね」

「何も......」

 情けなくなって、震えていた市村の声は消えていき、とうとう泣き出してしまった。

「何も、考えられないです。考えたいのに、思い出したいのに、気分が悪くなってどうしようもないんです」

 涙混じりに語る市村を、理宮は静かに見守る。

 市村の涙が、床に落ちる。木製の床が、悲しみの色に滲む。

「何が悪いんですか。俺の記憶は、どうしてこんなに混濁してるんですか。俺は、どうしてこんなに悲しいんですか」

 理宮はそんな市村を見て、そっと本棚の上から立ち上がり、自身のセーラー服が濡れることも気に留めず、市村のことを抱きしめた。

「悲しむことは悪いことじゃない。君の記憶の中には、悲しいものもたくさんある。君の疑問は確かに君の記憶の核心に触れる部分だ。だからこそ、そんなもので悲しむ必要はない」

「そんな、ものって」

「君は、僕が君に求めた【対価】を覚えているかい」

「【対価】......【俺が理宮さんに惚れること】ですか?」

「そう。この対価には間違いなく〈愛〉が含まれている。だが、君はこの記憶に心当たりはないだろう」

「心当たりがない、って。何ですか? 何を言っているんです?」

 市村は、理宮の腕の中から逃げ出そうと軽く身じろぎをした。しかし、理宮はぎゅっと市村の身体を締め付ける。その細い腕が折れてしまいそうで、怖い、と感じて動くことをやめた。


「君は、本当の願いを忘れている」


 本当の、願い。

 小さな声で、市村は言葉をかみ砕く。市村にとって悲しいものが含まれているという、記憶。その中で、市村は何か願い事をしたのだ。

「思いだせない、です」

「そうか。まあ、それでもいいさ」

 そっと、理宮は市村の濡れた頭に右手を乗せる。柔らかい掌があたたかさをもってゆっくりと市村の頭蓋ずがいをなぞる。頬にたどり着いたところで、その手を止めた。

 理宮の顔には少しだけ意地悪をしているような、しかし、慈しみを含んだ表情が浮かんでいる。

「悲しむことで【運命】が思い通りの『願い』に変えられるのなら、僕はいくらでも悲しんでいるだろう。それこそ、海よりも深く悲しんでいるだろう。『魔法』が悲しき【運命】にならないのであれば、僕は大いに悲しみ、泣きわめいていることだろう」

「悲しんでも、何も変わらない、ってことですか」

「そう。僕が悲しんだところで壊れたものは直らないし、喪われた命は還らない」

「それが......」

 理宮は、市村の言葉を待つ。市村は少し考えて、やっと口に出した。

「それが、理宮さんの『願い』ですか」

 刹那、理宮の両眼が見開かれた。猫のような瞳が、さらに大きくなる。それは一瞬のことだった。すぐに、理宮の顔はいつもの意地悪そうな顔に――『第二書庫の魔女』たる理宮真奈であることが誇らしい、といった風な、意地悪そうな堂々とした笑みに変わる。

「へえ......ふうん。成程、成程。君はやはり、核心に近づいている。それは間違いない」

 理宮は、抱きとめていた市村の身体を放し、くるりと踊った。

「そうだ! 君はそれでいい。君は僕の『助手』であり、僕の依頼人だ。君の『願い』を叶えよう。君の『願い』を叶えてみせよう。さあ」

 戸惑う市村の背後に、理宮は立つ。理宮はその柔らかな両手で、いたずらをするときのように市村の両眼をふさいだ。

 ふさがれたのは両眼のはずなのに――市村の耳を、ノイズが満たした。



*****



 初夏の晴れ間が広がる、五月の日のことだ。

「ここ、か」

 増設を繰り返し、徐々に拡大の一途を辿る私立鈴蘭高等学校の廊下を大きくぐるりと回り、何下層か降り何階層か上って、渡り廊下を渡った先。


 第二書庫。


 第二書庫の扉の前に立った市村は、息を飲む。この中にいるはずの人物に、用事があるのだ。この中に、入らなければならないのだ。

 しかし、いざ入らんとすると足がすくむ。しかし、噂の内容には目がくらむ。

 この場所には、こんな噂がある。


『第二書庫には魔女が住み、願いを聞き届けてくれる』


 こんな疑わしいとも言える噂が、この鈴蘭高等学校にはまことしやかにささやかれていた。

 市村もそれを信じている人間のうちの一人だ。

 願いがある。『魔女』に。

 意を決し、男子生徒は扉をノックする。


こん、こん。


 乾いた音が廊下に反響した。廊下は、窓が無く薄暗い。光源といえば頭上でちらつく蛍光灯だけだ。細かい点滅を繰り返すさまには、ろくにメンテナンスがされていないことがうかがえる。

 数秒。数十秒。......部屋の主からの、返事はない。

「はぁ。馬鹿だな、俺も」

 市村は信じた自分の愚かさを恥じ、頭をがしがしと乱暴になで回し、気分を振り切らんとする。

 帰ろう。そう決めてきびすを返した。そのときだった。


「入りたまえ」


 凛、と鈴の鳴るような。否、猫が低く鳴くような。否、『魔女』が魔法をささやくような。

 はっきりとした言葉が、扉の向こうから響いた。

 声が返ってきたことに驚き、市村は硬直した。生唾を飲む音が、やけに大きく聞こえた。

「失礼、します」

 そして、市村友希は『第二書庫の魔女』、理宮真奈の根城に足を踏み入れた。


【Continue to the next Episode】

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