◆Episode.10 愛はときに麻薬のように◆


 理宮真奈は、今日も根城である『第二書庫』の窓際、背の低い本棚の上に脚を組んで座っていた。スカートの周りに、いくつかの菓子を広げて。

 それらは主にチョコレートに関する菓子類で、第二書庫には甘い香りが満ちていた。

「理宮さん、甘党だったんですね」

 言われたほうの理宮は、プレッツェルにチョコレートをまとわせた菓子に伸ばしかけていた手を止めて市村に返事をする。

「まぁね。『魔女』として活動するには脳を活性化させるのが一番だ。それには甘いものが一番、良いのだよ」

「はぁ。それにしても」

 理宮の周りには、すでに四箱、菓子の箱が転がっている。板チョコの包み紙も二枚ほど丸められていた。

「昼飯代わりとはいえどんだけ食べるんですか」

「いいじゃないか。誰にとがめられるわけでなし」

「いいっちゃいいですけど……ていうか、そんだけ喰ってその細さってのが信じられないんですが」

「ふふん。これでも肉体美には自信があるぜ。何なら脚くらいなら触っても構わんよ」

 そう言いながら、理宮は組んでいた脚を解いて市村のほうへ伸ばした。理宮の脚はすらりと細くしなやかで、白い。艶があって美しいそれは、まるで人形のもののようだ。

 市村は理宮の脚に色気を感じ、どこかくらりとするめまいのような感覚を覚えたが、すぐに自分を取り戻し、理宮の提案を断る。

「やめときます、あとが怖いんで」

「おや、そいつは残念」

「どこが残念なんですか!?」

「いや、いやいや。僕に惚れてもらおうというのが君の願いを叶えるための条件だからね。ちょっとくらいのボディタッチを望んだだけだよ。失敗に終わって残念至極。ちょいとばかし悲しいよ」

「ぐ、う」

 どこか納得がいかないが、理宮の出した〈理宮に惚れる〉という条件を飲むためには仕方ない行為なのか、と市村は迷う。しかし、市村はその迷いに否、という答えを出した。

「やめときます。ほんと、なんか、うん。あれなんで」

「あれとは何だね、あれとは」

「いえ、あの、ほら。自制できなくなりそうというか」

「おやおや、おやおやぁ?」

 理宮は、にやり、と。おとぎ話に出てくる意地悪な猫のような笑みを浮かべ、市村をさらに問い詰める。

「僕に魅力を感じているのかい? それならばいっそ、染まってしまえば良いじゃないか。ほら、ほらほら、僕は逃げないよ。市村くんに愛されるならそれ以上の幸せはないからね」

「えー、と、はぁ、あの、その」

 必死に、市村は逃げ道を探す。他の話題をどうにか見つけられれば逃げられるだろう。慌てて目線を左右に動かすと、理宮の傍に転がっていたチョコレートの包み紙を見つけ、言った。

「ちょ、チョコが好きな人って〈キスに飢えてる〉って言いますよね!」

 目を泳がせながら、市村は早口でまくし立てる。

「何でしたっけ、麻薬に近い成分がキスに近いとか、摂取できる成分に恋愛のドキドキに似てる状態にもっていくものがあるとか、なんかそんなの、聞いたことがありますよ。ね、理宮さんも聞いたことあるでしょ?」

「…………」

 市村の態度に、少しだけ理宮は不満そうな顔をした。ぶすくれた顔をして、伸ばしていた脚を再び、くるりと組む。

「そうだね。チョコレートは麻薬だ。恋愛に値する感覚を含む。そして恋愛もまた麻薬だ。麻薬に通じる成分を持つ」

「はぁ? 恋愛が麻薬、ですか?」

 理宮の表情が、面白いものをみつけた、というものに変わる。市村が興味を持ったのが嬉しかったらしい。

「そう。恋愛には麻薬として作用する幸福ホルモンの類は多い。オキシトシン。ドーパミン。βエンドルフィン。テストステロンなど。これらは精神をハイにして、システムに異常をもたらすのだ」

「精神をハイにする、ってそれ本当に麻薬と一緒じゃないですか」

「そう。そしてこれらの分泌物への依存性は非常に高く、さらに言えば〈相手に対する依存〉も強い。つまるところ、麻薬よりも質の悪いものとなっている」

「というと、相手に依存するから〈ずっと一緒にいたい〉とかって思うってことですか」

「そうとも言える。それが〈見捨てられたくない〉に変わると、今度は愛着障害という蔑称が付くけれどね」

 楽しそうに理宮は語る。市村の知らない知識を教えるのが、とても楽しいのだろう。市村も、それを見て安心する。

 少しの間そうして雑談をしていた。理宮は終始、楽しそうに話し、市村もその語りに楽しさを覚えた。


きぃん、ごぉん――……


 二人の会話に、予鈴が混じる。昼休みを終え、次の授業の準備を促すための予鈴だ。

 市村は次の時間、一応、カリキュラムが組み込まれている。

「君、次の時間への出席は?」

 理宮がたずねると、市村は指を折りながら単位を数えた。市村の成績と、出席回数から算出したところ、無理に出る必要はないようだ。

 どうしようか、市村が迷っていると、不意に理宮の視線が鋭くなった。

「え、何ですか」

 市村は理宮の視線の先を追う。その目線の先には扉――の、隣の幅の細い本棚。

 その中の一冊が、今にも落ちそうになっていた。

 なんだ、と市村は気が抜ける。

「こんなことくらいでそんな表情しないでくださいよ……って、うわ」

 落ちそうになっていた本はとうとう本棚から落下し、床に広がった。市村はその本を支えようとしたのだが、間に合わなかった。

 広がった本は、大きな挿絵のとなりに小さな文字で、短く〈王子を殺すことで、人魚姫はもとの姿を取り戻し、永遠の命を得ることができるのです〉と書かれていた。挿絵を見ると、装飾の施された短剣を持った少女が描かれている。

「これ、何の話の一節でしたっけ」

「〈人魚姫〉だね。王子を助け、その王子を別の女に奪われ、その女との結婚式の前の晩のシーンだ」

「これで、王子を殺すんですか」

「違う。結局、人魚姫は殺せなかった。そして、結ばれなかった恋に哀しみ、海に身を投げ、泡となって消えてしまうのだよ」

「あー、なんかやっと聞いたことある話になりました。そういえばそんな話でしたね」

「男子にはあまり縁のない童話だからね。この話はときに悲恋、あるいは叶わない恋のたとえ話として、悲劇として、例に用いられることも多い」

「叶わない恋……」

「この話はハンス・クリスチャン・アンデルセンの、この話の作者の失恋によって生まれた話だ。人魚はアンデルセン自身の投影だといわれている」

 そうなのか、と市村は口の中で言葉を噛み砕く。この作者は、どんな失恋をしたのだろうか。叶わない恋は、そんなに悲しいものだったのだろうか。

 理宮なら……彼が、理宮に恋愛成就の『願い』を求めれば、叶ったのだろうか。それは想像することしかできないが、市村は頭のどこかで〈理宮ならば叶えてくれるだろう〉と確信しているところがあった。

 『願いを叶える魔女』

 人魚姫にも出てくる『魔女』。

 彼女なら『願い』を――


こん、こん


 びくり、と市村の肩が動いた。

 この『第二書庫』にノックの音が転がるということは、客人が。『願い』を叶えたいという人物がやってきたということだ。

「入りたまえ」

 理宮が凛とした声で入室を促す。

「失礼しますっ」

 扉を開けて入ってきたのは、市村と同学年の男女。

「えっと……中島なかじまゆうです」

深山みやま魅音みおんですっ」

 二人は、理宮が何も言わないでいるのに自己紹介をする。

 理宮の方は、獣が獲物を捉えたような瞳で二人を観察している。

「『魔女』さんっ、あたしたちの願いを叶えてくださいっ」

 深山は、理宮に向けて――『魔女』に向けて、そう言った。

 そして、物語は始まる。


【Continue to the next Episode】

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