『魔女』の言葉は流れるように

◆Episode.9 沈む者には声も無く◆

 とぷん、と。金魚が跳ねたような音がした。


 六月に入り、ぬるい空気が身にまとわりつく。

 夕日も薄日も無くなり、しんと静まりきった水際に、一つ、人影があった。

 顔を覆い、むせび泣いているような、笑いをひきつらせたかのような、短い呼吸で喉を震わせている。

 かすれた喉の音は、その人間をそこに〈在る〉と証拠づけるには十分に足りる。ありありと、そこに一人の人間がいるのだと、音は主張をしていた。

 また、水音が跳ねた。粘度さえあるような、質量のある音がした。音の中心にあるのは――人影。

 水の中にもまた、人影があった。

 息が出来ていないはずなのに、水の中で足掻く人影は、大きな水音さえも立てずにただ、ただ、沈む。

 静まった水辺にふたつの人影。

 一方はかすれた音で自己顕示し。

 一方は水底へ沈み口を閉ざす。

 双方ともに通じるのは言葉が一つとしてないということ。

 どちらもが、夜へにじんで消えていく。





 理宮真奈。

 『第二書庫の魔女』たる彼女を思うと、心のどこかが締め付けられる。

 市村は第二寮、男子のみが住む東館の一室で、ぼんやりと理宮のことを考えていた。

 西と東にあるベッドのうち東側のベッドに座り、壁にもたれて考え事をしている。いつの間に食べたのかアイスクリームの棒が手の中にあり、それには「あたり」と、景品としてもう一本、商品がもらえるといったことが書いてあった。

「いつ喰ったんだろ……」

 食べた記憶は市村の脳内にない。なんとなく口の中が甘いような気もするし、漂う空気にも甘味料の香りが混じっている感じがするが、それでも「食べたのだ」という記憶はなかった。

 手の中でその棒をいじり回しながら、市村は考える。

 理宮の存在を。理宮との関係を。理宮への感情を。理宮への愛情を。

 ――理宮真奈の存在。

 『魔女』の理宮は市村の願いを叶えてくれるはずだ。その実力は、理宮の助手をしていてありありと見せつけられた。

 滝沢の『命を預かる』という願い。

 筒香の『心を手に入れたい』という願い。

 そのふたつを、目の前で実現してみせた。それが、どんな形だったとはいえ、だ。

「あれは、何だったんだ……実現というか、現実になっちまった、っていうか」

 ――理宮真奈との関係。

 現在において二人は『魔女』と『助手』という関係に置かれている。

 理宮の方から提案してきたこの関係性に、市村は満足していた。というよりも、しっくりきていた。

 どこか懐かしい、ここが自分のあるべき場所なのではないかという気持ちさえする。

 初めて理宮に出会ったのはいつなのか、どうして自分は理宮と出会ったのか。

「理宮さんは、俺のことを知っているんじゃないのか? 俺は、そのことすら忘れているんじゃないのか? ……もしかして、俺は理宮さんに何かを願ったことがあるのか?」

 市村は思考を巡らせてみるが、過去へさかのぼるにつれて頭の中が混乱を極めてきた。慌てて振り払う。

 ――理宮真奈への感情。

 市村の持つ理宮への感情。

 特に、思うところはない。市村から見た理宮に対する感情は、単純に変人だ、とか、意地悪だな、とか、そんなことを思う程度だ。しかし一方で、理宮真奈という存在は酷く危ういものなのではないかと考えることもあった。

「あの人に持つ感情が、俺の記憶の鍵の一つになっている……」

 可能性は捨てきれない。理宮はどこか、市村のことを知っている風だった。しらを切っているようだが、それに気づかない市村ではない。理宮の危うさの陰に、市村に対する何らかの感情を持っている。

 だが、理宮の持つ感情が一体、何なのか。見当もつかない。

 ――理宮真奈への愛情。

「……愛情」

 ぽつり、と市村は空間へその言葉を吐き出す。

 理宮は市村に「僕に惚れることが条件だ」と突き付けた。その条件を飲むのであれば、市村は理宮に対して愛情を持っていないといけないことになる。

 それなのに。

「俺、どうもなんか、そういうのはな。はぁ」

 考えることが、できない。

 否、考えることができないのではない。考えても無駄としか思えないのだ。

 同年代の男女が恋愛に浮かれている最中、市村は淡々と日々を過ごすことしか頭にない。もちろん、そういった人間から浮ついたことをされてこなかったわけではない。でも市村にとってその嗜好は邪魔なだけだ。

 何度かラブレターを渡されたり告白をされたりしたが、どれも丁重に断ってきた。それほどまでに、市村は愛情というものに縁が無いのだ。

「そんな俺が、理宮さんに愛情ねぇ」

 手に持っていたアイスの棒を、何となく口にくわえてみる。ソーダ水を思わせる爽やかな香りと、かすかに残る甘味料の味がした。ただの棒きれだから気のせいかもしれない。それでも、どこへやることもできない口寂しさを紛らわす程度の役には立った。

「大人が煙草を吸いたくなるときって、こんなかな」

 市村は未来の自分へ思いを馳せる。

 自分はどんな大人になっているのだろう。きっと、これから高校を出て、付属の大学にでも進み、適当だが申し分ないような会社に入社し、サラリーマンとして一生を暮らしていくのだろう。

「はは、笑えるなー」

 理宮なら、市村の行く末がわかるだろうか? 今度聞いてみたらどうだろう。そこまで考えたところで、思い出す。

「……って、あの人は『願い』専門なんだっけ」

 理宮は、自ら「占いは嫌いだ」「確実性の無い未来になど意味がない」と、占星術を始めとした占い全般を一蹴していた。

「何で『願い』を叶えるってことしかしないんだろ。理宮さんなら未来くらい簡単に見てくれそうなのになぁ」

 ふ、と。市村の脳裏に、理宮のある言葉が思い返された。


「僕はね、『魔女』である前に『人間』なんだよ。【運命】には勝てない」


 そんなことを、理宮はいつか言っていた。

「【運命】、ね」

 理宮が叶える『願い』は叶う。【運命】によって捻じ曲げられても。

 それがどんなことを意味するのか――





「君はまだ、知らなくていいんだよ」


 理宮真奈は、今日も『第二書庫』の窓際に座る。

 窓を背にして低い本棚の上に座り、すらりとした脚を組んでいる。にやにやと、意地悪そうな、おとぎ話に出てくる猫のような笑みを浮かべ、誰もいない空間に向かい、ぽつぽつと言葉を投げかける。

「市村くん。市村友希くん。君はまだ知らなくていいことがたくさんある。君に関することすべてが、この〈セカイ〉を構成している」

 理宮の言っている言葉は、誰にも届いていない。だが、理宮は言葉を吐き出し続ける。まるで、そこに市村がいて、彼に語り掛けるかのように。

「ねえ、市村くん」

 理宮は、一瞬だけ切なそうな表情を浮かべ――


「君は、僕のことを思い出してくれるかな」


 すぐに、にたりと笑った。


 遠くで、水音が鳴る。

 粘性を持ったような、鈍い水音が。

 それは夜も更けて、学校には誰もいないはずの時刻。

 当然のことながら、理宮が『第二書庫』にいるのも校則に反するだろう。だが、とがめる者は誰もいない。

 雲が晴れ、満月が理宮の白い頬を照らす。

 ぴんと張ったその肌はまるで陶磁器のようで、鋭さの中にもろさを感じる。


「さぁ、始まるよ」


 そして、『魔女』の声は轟いた。



【Continue to the next Episode】

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