◆Episode.5 悪夢の災禍◆



 あまりにも、凄惨な光景だった。

 時間が遅く流れているような気がするのは、頬の、腹の、身体の痛みのせいだろうか。

 滝沢伊織の父は、滝沢伊織に虐待をしていた。

 父から娘に与える〈しつけ〉。ときに度を越した行為になるそれは、滝沢の身体をじわじわと蝕んでいった。


 痛い。


 一発目に叩かれた頬が、熱を持って痛みになる。頭に痺れが残る。逆に、脳が痺れていたことは幸福なのかもしれない。何故なら、そのあと行われた様々な暴力をほとんど覚えていないからだ。

「、っ」

 起き上がろうとするが、身体に力がうまく入らない。それでも無理に立ち上がらないと、今度はこんな場所で倒れていることを叱咤されてさらに暴力を加えられるだろう。

 母は、台所のすみで滝沢が暴力を受けるのをただ見ていた。

 父に言われるがままに、食事の用意をしなかったり、滝沢の洗濯物だけを風呂場に散らかしていたりする、虚弱な母。

 だが、滝沢はそんな母親も加害者なのだと認識していた。

 何故ならば、母は父と笑って手を取り合い、週末が来る度にどこかへと出かけていたからだ。

 父は母を愛し、母は父を愛す。そこに、滝沢の居場所はない。

 父も母もいなくなり、おざなりな夕食を済ませたあとに、滝沢は部屋に閉じこもる。

「…………はっ」

 暴力を受けることも、食事を用意されないことも、食事を用意するための金銭すら与えられないことも、慣れていた。

 滝沢にとってはこれが日常なのだ。これこそが日常なのだ。

 以上ではない。以下ではあっても。

 それでも、心がまったく休まらないということはなかった。父にも母にも機嫌というものはある。大人しく、限りなく大人しく従順にしていれば、何も起こらない日が多い。

 今日は暴力を振るわれたものの、二人の機嫌がそれほど悪くなかったために、解放されるのも早かった。

 父と母から隔離された、自室に戻る。

 机の上には――亡くなった祖父からもらった、電子キーボード。そのかたわらには、キーボードに接続するためのヘッドホンが置かれている。

 滝沢はそのヘッドホンを頭に被せ、イヤーマフを耳にあてがう。

 そして、〈ラ〉の鍵盤を叩いた。


ポーン……


 短い音が、滝沢の指先から生まれ耳に響く。

 す、っと。意識がキーボードに吸い込まれる感覚がした。

 ああ、今日も私は生きました。

 感謝と後悔を心に抱きながら、鍵盤を次々と叩く。それは次第にメロディになり、曲として構成され、楽譜にない即興曲として奏でられる。

 キーボードやピアノを誰かに習ったということはほとんどない。祖父に基本を少し教わった程度だ。

 即興曲にまで音を育てられるのは、滝沢の才能だという他ない。

 そうして、夜は更けていく。

 ゆっくり、時間は流れていく。

 鍵盤の音を頼りに、時間の糸を手繰る――



***



 滝沢が目を覚ましたのは、鈴蘭高等学校に属する第一寮の、自室だった。

 目覚まし時計が、一瞬遅れて目覚まし時計が電子音を吐き出す。ぬるいシーツを泳いでその音を止め、滝沢は身体を起こした。

「今更あんな夢、見るなんてね」

 滝沢は吐き捨てる。胸糞が悪かった。父親のことも母親のことも、もう思い出したくない。

 無理を言って入学したこの鈴蘭高校での生活を手放すことはしたくなかった。むしろ、そのまま寮を移り付属大学にまで進学するつもりでいた。

 ようやく得られた、安心できる場所だ。ここから離れなければならなくなる日を、滝沢は恐れている。

 あの家に帰りたくない。

 ただ、その一心で。

「着替え、よう」

 布団を身体から剥がし、ベッドから足をおろす。

 簡素なパジャマを脱ぐと、滝沢の病的に白い肌が見える。蝋燭を思わせる背中には、多くの傷跡があった。

 そのほとんどがやけどによる傷跡だ。父親から受けた虐待の一環、煙草の火を押し付ける、〈根性焼き〉の跡。

 それが痛むのか、滝沢は肩に手をかけ、苦い顔をした。少しの間、祈るかのように目を閉じていたが、緩慢な動作で着替えを続けた。

 今日も、一日が始まる。



***



 理宮真奈は思考する。

「どうして人は何かを変えようとするのだろうね?」

 そこに、市村の姿はない。

 たった一人、理宮は第二書庫の窓際、背の低い本棚の上に脚を組んで座っていた。

「あるものが別のものに変わるとき、必ずそこからは〈何か〉が失われる。それがどんなものかは全くわからないし、どんな形で失われるのかもわからない」

 月明かりが、理宮の背後の窓から差し込んでくる。

 満月は明るく夜を照らし、ビロードの空を藍に染めている。

 その中に爛々と光る理宮の目は、まるで猫のようだ。黒いセーラー服に身を包み、優雅に時を過ごしているその様は、どこか黒猫のように見えた。

「それは『願い』も同じ……【運命】としてこの世界に現れたとき、『願い』は全く形を変える。そして、何かを奪い去っていく」

 猫のような瞳を細め、理宮は笑みに顔を歪める。それは悦に浸り、この上なく愉快であるといわんばかりの歪んだ笑みだ。

「さぁ、僕は叶えよう。『魔女』として、その誇りにかけて」

 理宮は半身を返し、月を仰ぎ見る。

 その向こうに、『魔女』ではない者――【運命を決める神】を見通すかのように。



***



 クリック音が、薄暗い部屋に響く。

 二回。三回、四回。細切れに続く音は、パソコンを駆動させる。

 部屋の光源はただひとつ、工藤しているパソコンの画面だけだ。その青白い光が、洋服や通信販売の梱包材などで散らかった部屋を照らしている。

 パソコンの画面には、何枚もの写真が写っていた。その全てに、鈴蘭高校に通う女子生徒が映っている。それを撮った当人は――筒香はるかだ。

「この子もぉ……この子もぉ……だめぇ……」

 一枚、また一枚と画面から写真が消えていく。ゴミ箱に入れられた画像ファイルは、のちに零と一ですらなくなるだろう。

「あぁ、あぁ、やっぱりぃ……」

 次々と、筒香は写真を消していく。写真が入っているフォルダの中から、多くの画像が消し去られて、残ったもの。

 それは、滝沢伊織が写る写真。

「やっぱりぃ、伊織ちゃんがぁ、すきぃ……」

 もうひとつ開かれた、フォルダの中身を表示するウィンドウ。ひとつひとつのファイルの名前に連番がふってあり、その後ろには、女子生徒のものと思われる名前が並ぶ。

「この子もぉ、この子もぉ、この子もぉ、良かったけどぉ」

 かちり、かちり、クリック音を鳴らしてファイルを確認していく。ファイルには、生徒の専攻や得意なこと、不得意なこと、好きな食べ物や人間関係、果ては体重や身長、簡単な過去までが記載されていた。

 ファイルの中身を読みながら、筒香は不要になったファイルを一つずつゴミ箱に入れる。残ったのは〈127-滝沢伊織〉というファイル。

「どうしても、伊織ちゃんが好きだぁ!」

 嬌声をあげて、滝沢のデータを舐めるように読む。

 部屋のすみには、何枚もの写真が散らばっている。どうやら、その写真たちの中心にあるフォトブックに貼るために編集している最中で放置したようだ。

 写真の全てに、滝沢が写っていた。中等部の頃の写真。遠足のときのもの、校外学習のときのもの、修学旅行のときのもの、学校生活のスナップ、さらに、筒香自身が盗撮したもの。

 中には、体育と通常授業の合間、着替えの時間に撮影されたものらしき下着姿の滝沢の写真すらある。

 滝沢の背中には、やはりあざや傷跡がある。

「可哀想なぁ、伊織ちゃんが好きだよぉ……私がぁ、一生、愛してあげるねぇ」

 筒香は、くすくすと笑う。

「誰でもよかったよぉ、本当は誰でもよかったよぉ。だけどぉ、可哀そうな伊織ちゃんがぁ一番好きぃ。大好きぃ。可愛がってあげたくなるのぉ。だぁいじょうぶ」

 悦に入った、うっとりとした顔で筒香は言う。


「一生、うぅん、一生が終わってもずっとずっとぉ、一緒にいようねぇ」


 そして、筒香は凶行に走る。



【Continue to the next Episode】


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