◆Episode.4 決別には至らず◆


 鈴蘭高校のカリキュラムは単位制だ。大学で授業を受けるときのように、授業と授業の間に時間が大きく空いたり、自習時間が設けられたりする。

 つまり、教室に誰もいない時間というものが存在する。

 筒香はその時間を利用して、とあることをしていた。

「どこぉ……どこにあるのぉ……」

 べったりと座り込んで、筒香が探し物をしているのは、他人の――滝沢の机の中だ。筒香の傍らには分厚い、黒い表紙のノートが置いてある。

 黒い表紙のノートは、一風変わっていた。重厚な表紙にフラップがついていて、その上にさらに金属製の錠がついている。工具などを使っても壊すことは容易ではないだろう。つまり、何らかの鍵を使わないと開くことが叶わない。

 ノートの鍵を、筒香は探していた。この机のどこかに隠しているに違いない、という確信があった。何故なら、自習時間中に滝沢がこのノートを開いて何かを書き連ねているところを何度か見ていたからだ。

「早く、しなくちゃぁ」

「そうね。わたしに見つかるものね」

 背後から、冷たい声。

 聞きなれたその声の主は、滝沢のものだ。筒香は反射的に背後を振り向く。

「あぁ、あぁ、伊織ぃ、ちゃ」

「またそんなことしてるのね。無駄なことだってそろそろ気が付いたらどうなの」

 もう何度目かになるストーカー被害。滝沢はそれが筒香による犯行だということは気が付いていた。今まで注意をしなかったのは、それで何が変わる訳でもない、と思っていたからだ。

 しかし、もう我慢の限界だった。

「ねえ、それ返して頂戴」

「い、いやぁ」

 滝沢のものであるノートを、筒香はひったくるようにして胸に抱きしめる。これを手放してしまえば、このノートの中身を知ることは出来なくなるだろう。

「ッ、このッ」

 滝沢は思わず、筒香の頬を叩こうと手を振り上げる。

「――っ」

 叩く寸前で、自分の行動に対する嫌悪感に耐えられず手を止めた。

 自分がやられてきたことを、筒香にしたくなかった。

「……もういいから。ノートを返してくれたら、今までのことは水に流してあげる。それでいいでしょう」

「いやぁ、やだよぉ」

「まだそんなこというの」

「だってぇ、ここには伊織ちゃんのぉ」

 座り込んでいた筒香は、ゆらりと立ち上がる。筒香の腕の中には、まだ滝沢のノートが抱えられている。

「〈心〉がぁ、書いてあるんだもぉんっ!」

 そして、筒香は脱兎の如く走り出して教室から出ていった。

「待ちなさい!」

 滝沢は慌てて筒香の後を追いかける。だが、教室の扉から筒香の姿を見たときには、もはや滝沢の足では追い付けないほどの距離まで筒香の背中は離れていた。

「ノートが……」

 滝沢は絶望感のあまりその場にへたりこむ。どうしていいかわからなくなったのだ。

「どうしたら、いいの」

 目じりに、涙がにじむ。あのノートは、滝沢にとってかけがえのないものだ。それを奪われた今、何にすがればいいのかわからない。

 呆然と座り込んだまま、動けなくなる。滝沢は次の授業が始まる直前、他のクラスメイトに保健室に連れていかれるまで、座り込んだままでいた。



***



 理宮は今日も『第二書庫』の窓際に脚を組んで座り、何かを考え込んでいた。

 長く豊かな、漆黒のまつげを伏せたその表情は、絵画に描かれた女性のように美しい。

 そんな理宮のことを、市村は見ていた。

 二脚あるうちの片方の椅子、東側に置かれたものを選び、市村はそこに座っている。机の上には勉強道具が広げてある。

(美人だな……)

 市村は素直な感想を胸の内でつぶやく。理宮の瞳には、どこか憂いを帯びているようにも見える。

「理宮さん、何考え込んでるんですか」

「うん? あぁ、ちょいとね。彼女たちが『願い』をどんな風に叶えるのか気になっていてね」

「はぁ、『願い』ですか」

 筒香の願い。滝沢と両想いになりたいという『願い』。

 理宮は『願い』を叶えると言った。自分の言葉は『魔法』だとも。しかしそれは【運命】の前には無力であるとも。それが何を意味するのか、市村にはまだわからない。

 ――ひとつ、思い出す。理宮が『青天の霹靂』と言った。その、直後だ。

(晴れてたのに、雨と……雷。……霹靂)

 理宮の言葉が、まるで『予言』のようになっていた。理宮の『魔法』とは、そういうものなのか、と、市村は考えた。

「理宮さ、」

「市村くん」

 市村が話しかけようと口を開いたところで、かぶさるようにして理宮が言葉を発した。

「君は僕のことを『魔女』であると認識し、『魔法』が使えると認識してくれたみたいだがね。それでも僕は、君や、他人が考えるよりもずっとずっと無力だ。それを、覚えておいてほしい」

「は、ぁ」

 とまどっているばかりの市村に、理宮は視線で語り掛ける。まっすぐに、猫のような瞳で市村のことを見つめている。凛としたその表情は、理宮がよくそうするような意地悪な笑みとはかけ離れたものだ。

 その表情に、どう応えたものだろう。市村は考える。

 理宮が、無力? そうとは思えなかった。市村は、理宮の言葉には力があり本当に『魔法』が使えるのだと信じている節があった。

(あれ、でも)

 市村は理宮のことを信じている。まだよく知らない人間であるはずの、理宮を。

(どうして?)

 謎の確信が市村の中にある。その理由が市村にはわからない。問いを頭の中で繰り返すが、それでも答えが出てこない。

「理宮さん。あんたは」

 何かを言おうとした。『願い』のこと。『魔法』のこと。【運命】のこと。市村自身の記憶のこと。

 それら全てが、頭の中で混然一体となって一つの言葉にならず、市村は開いた口を閉じる。

「何だい」

 口を閉ざした市村のことを、まるで猫が人間の行動に疑問を持っているかのような表情で、理宮は見ている。

 理宮の視線に、市村は耐えられなくなった。

「何でも、ないです」

 もうここにいたくない。市村は逃げたい、という気持ちをそのまま衝動に変え、スクールバッグをひったくると背中にひっかけた。

「理宮さん。俺、もう少し考えてみます」

「そうかい。それが良いよ。君は考えすぎる節があるからね」

 悲しそうな市村の表情と反して、理宮の表情は軽くなり、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 自分の行動に何も思うところは無いのだろうかと市村は考えたが、理宮のことだ、その笑みの向こう側で何やら考え事をしているに違いない。

「それじゃあ、失礼します」

「またね、市村くん。明日にでも会おうじゃないか」

 どこか後ろ髪をひかれながら、市村は第二書庫を後にする。建て増しを繰り返した複雑な構造の校内を歩きながら、理宮と自分の記憶について考える。

「俺は何を忘れているんだろう」

 とても大切なことを忘れている。そんな気がする。

 記憶の混濁によって、この鈴蘭高校で過ごした時間軸はばらばらで、ちぐはぐだ。

 継いで、接いで、ぼろぼろの記憶をなんとかつなぎ合わせて暮らしている。

「俺は、理宮さんのことを知っている?」

 


轟。


 窓の外で、轟音を伴って強い風が吹いた。

 その音に――

「う、あ、づッ!」

 市村は、記憶をかき回された。


 痛み。熱。赤い視界。熱い。熱い。苦しい。息ができない。辛い。熱い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!

(ああ、それでも――)


「市村くん」


「っ、」

 ひんやりとした、大人びた声。

 後ろを振り向くと、理宮が立っていた。理宮の手の中には、市村のペンケース。

「君、忘れ物をしていたよ。どうしたんだい、そんなところで突っ立って」

「あ、いや、俺」

「顔が赤いね……熱でもあるのかい」

 理宮は冷たい手で市村のひたいに触れる。その冷たさに、市村は安堵した。

「理宮さん、なんか、俺。記憶を少しだけ思い出したような……」

「ほう、それは良かったね。でも」

 市村のひたいから手を離すと、理宮はそのまま市村の視界を塞いだ。


「まだ思い出さないほうが良い」


 理宮の声が、最後になった。

 次に市村が目覚めたのは――春の日差しが差し込む、保健室の中だった。


【Continue to the next Episode】

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