◆Episode.6 あまりにも重いもの◆
滝沢伊織は絶望していた。
普段なら流れるように、滑るように叩ける鍵盤をうまく叩けない。いつもなら耳にさらりと溶け込む音楽が脳をすり抜ける。
ノートを奪われて以来、滝沢の頭の中から集中力というものが欠けていた。
時間は滝沢の意思をかすめ取りながら流れていく。秒針が進むたびに、滝沢の心は削れていく。もう嫌だ、嫌だ、と秒針に嫌悪を示しても、無常に時間は過ぎていく。
大事な、大事なノート。その中身は誰にも見せたことが無い。否、見せてはいけない。
そこには滝沢の――〈心〉が眠っているから。
「どうしたら、いいの」
全寮制の鈴蘭高校。一人部屋が用意されている第一寮の一室で、寝間着に身を包み枕を抱きかかえて、滝沢は考えていた。
休日の昼間に目が覚めてから、電気もつけず、習慣である電子キーボードを触ることもせず、ただひたすらベッドの上で縮こまって、泣いていた。
こんなとき。
「あのノートが、あったら」
そう思わずにはいられない。それだけの価値があのノートにあった。
滝沢が大事にしていたノート。あの中身を見られてはいけない。どうしても、見られるわけにはいかない。
「見られたくない……嫌……」
今日、何度目かになる涙を流す。滝沢の精神はもう限界だった。
どうやったら取り戻せるのだろうか。全く思いつかない。筒香のことだ。簡単にはあれを渡さないだろう。それどころか、いっそノートが開かないのならと棄却してしまう恐れさえある。
「そうだ」
……一つ。一つだけ。頼りになりそうなものはある。
滝沢が選択したのは、この学校でささやかれている噂。
『第二書庫の魔女』……『魔女は、願いを叶えてくれる』
そこに『魔女』がいるのであれば、願いを叶えてくれるはずだ。少なくとも、泣き寝入りするよりはよっぽど良いだろう。
決めた。
校内には、簡単に入ることができる。自習をする学生のために、基本的に校内は解放されているからだ。
思い立ってすぐ、滝沢は行動に移した。何を着ていこうか迷うのももどかしく、セーラー服を着こんでドアを開ける。
「待ってなさいよ、『魔女』」
そして、滝沢の『願い』もまた、叶うこととなる。
***
「人間の〈思い〉というのは、どうも重いね」
「はぁ、ダジャレですか」
理宮はいつもの場所、第二書庫の窓際、背の低い本棚の上に脚を組んで座り、突如そう言った。
一方の市村の方は、頭痛で保健室に運ばれたらしいと保健室の校医に知らされた。道理で記憶があいまいなわけだ、としながら、まだぼんやりとする頭をかかえ理宮のいる第二書庫へ向かった。
そして雑な心配を受けたのちに、理宮はそう言ったのだ。
「そんなツマラナイものを僕が放つと考えるのかい? 中々に低俗だね、君は」
「言い過ぎにもほどがありますよ!?」
思い切り突っ込んだ市村の方を見やり、理宮はやれやれ、といった風に首を振る。
「そうじゃない、重量があるというんだ。ぐっしょりと湿って、金属のように固く、海よりも深く、何よりも重い。そんなもの、背負うもんじゃあないね」
「人の『願い』を叶えようって人が何、言ってるんですか」
市村のそれは当然の疑問だった。
誰かの『願い』というものは、どうしたってそこに思いが乗るものだ。それが重いものであれ軽いものであれ、何かしらが付与されていることに変わりない。
しかし『魔女』たる理宮は、思いを背負うものではない。そう言うのだ。
「いやいや、『願い』を叶えるからこそだよ。僕はその思いを理解し共感し思念を分かち合う必要がある。それはとても重要なことで、なおかつ酷く恐ろしいことだな、と考えたのだ」
「考えて、どうするんですか」
「……他人には、任せられないと思ってね」
「はぁ」
「〈思い〉が『願い』に変わるとき、『願い』が【運命】に変わるとき、昇華されるものは何だろうね」
理宮は、目を閉じる。自分の言葉を噛み砕き、心を整えているかのように。
(この間の思考実験みたいだな)
何かが何かに変わるとき、そこにあった何かが奪われる。何かとは、何か。
市村では考えが及ばない。何も考えられないわけではないが、市村の中に解は無い。まして、例の思考実験そのものでさえ正解を出せなかったのに、理宮の思考に追いつこうなど、無理な話だ。
そうまでしても理宮は『願い』を叶えることに固執する。理宮の謎の行動が、何を原理にしているのか市村にはわからない。
一つ言えるとするならば、理宮にとって『願い』を叶えるという行為は背負い込んだ使命。そうとでもしないと、理宮の行動が腑に落ちない。
(何考えて、こんなことやってんだろうな)
理宮はゆっくりと開いた目を細め、第二書庫の扉の方を見ている。
まるで、誰かを待っているかのように。
「今日、僕はね。とある人の〈思い〉を継がなければならない」
市村が理宮の言葉にさらに首をひねると、突如。
こんこん
ノックの音が、第二書庫に響いた。
***
深夜。
学校に忘れ物をしてきたのだと嘘をついて、二人組で行くことで保証をされているということを逆手に取って、筒香と滝沢は第一寮の裏にいた。
恋人たちが逢引きをするという樹の下。二人がそこで対峙して、しばらくの時間が経っていた。
筒香は幸せそうに、滝沢の身体に寄り添っている。
――絶頂。
幸せそうな表情を浮かべながら、滝沢への愛を囁き、幸福感に浸っている。
滝沢は気怠そうに、滝沢はその樹にもたれかかっている。
――違う。
滝沢は、絶命していた。ぐったりと樹に体重を預け、斜めになっている樹に支えられるような形でそこにあり、死体となっていた。
「うぅ、ふふぅ。ふふ、ぅ。伊織、ちゃぁん……」
『願い』は自分で叶えてしまえば良い。『魔女』の言葉通り、叶えてしまえばいい。
手に入れてしまえば良いのだ。筒香自身の手で。
滝沢のノートの中身は、結局、見ることができなかった。〈心〉を覗くことはできなかった。
それでもいい。『願い』は叶うのだ。『魔女』と、自分の力で叶えてしまえばいいのだ。
それがこの行為に至った経緯だ。
生物系の授業を履修していた筒香の手先にはためらいがない。
滝沢の皮膚を、肉を、切り裂いていく湿った音が続く。内臓を傷つけないように、筒香は慎重に〈作業〉を進めていく。
やがて、たどり着く。滝沢の――心臓に。
紅く輝くそれは、命の塊だ。滝沢の身体を動かしていた大切な臓器だ。
筒香は滝沢の心臓を傷つけないように、肋骨の軟骨を切り取り、血管から少しずつ解放して、あらわにする。
その心臓を、あらかじめ用意していた保存液の入った、両手で持ってようやく支えられるほどの大きさの瓶の中に漬けた。
「これでぇ、これでぇ……伊織ちゃんの【心を手に入れられた】ねぇ……」
数十分程度の凶行。入念に準備をして臨んだ筒香だ。返り血に汚れた自分をウェットティッシュで拭き、私服と全く同じ服を瓶が入っていた鞄から取り出し、着替え、身なりを整えた。
「さぁ、帰ろうねぇ、伊織ちゃん」
筒香は、その場から立ち去る。
残されたのは、滝沢〈だった〉ものだけだ。
それが明るみに出たのは、夜が朝に変わってからのことだった。
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