◆Episode.2 恐慌と凶行◆


 濃密。

 そこに流れる空気は、どろりと濃く、じっとりと密に湿っていた。

 くすくす、と少女の笑い声。

 私立鈴蘭高等学校の、第一寮からほど近い茂みの中。そこは、恋人たちがよく逢引きに使うという木陰だ。

 木陰の中には、少女の影がふたつ重なっていた。寝間着と部屋着の中間のような、この季節の気温では風邪をひいてしまいそうだ、とも思える格好で、一人は樹にもたれ、もう一人はその影に対峙し、寮から届くわずかな光を頼りにして暗闇にいた。

「ねぇ、伊織いおりちゃん」

「なに、筒香つつごうさん」

「私ぃ、幸せだよ。本当にぃ、本当に幸せだよぉ」

 幸せだ、と唱えながら、筒香はるかは笑う。滝沢伊織を、想い人を目の前にして、笑う。

「私ぃねぇ。『魔女』さんにぃ『お願い』をしてきたのぉ」

「そんなもの信じるなんてどうかしてるわ」

「そうかなぁ、どうかなぁ」

 筒香は、なおも笑う。

「私の『お願い』はぁ……」


 きん、と。冷たい音が鳴った。


 金属が、夜闇に現れる。刃渡りの短い、果物ナイフ。暗い世界の中で、少ない光源を受け刃をぎらつかせる。

「それで何をするつもり? 脅しでもするのかしら。そんなことしても、わたしは」

「私のものにぃ、ならないっていうんでしょぉ」

 わかってるよぉ、と言いながら筒香はどんどんと樹にもたれている滝沢へと近づく。

 どうせ脅しだ。高をくくり、滝沢は目線をそらす。今までも似たようなことが何度かあった。その度に、滝沢は適当にあしらってきた。

 今回も、そうするつもりだった。だが。

「これでいいのぉ!」

 まさか、と思う前に、刃は滝沢の腹に吸い込まれていた。

 滝沢の口から嗚咽が漏れる。一瞬遅れて、滝沢の口の中で血液が蹂躙した。

 内臓をかき回す濡れた音が響く。

「が、あ、つつ」

「だぁいじょうぶぅ、わたしはぁ、これで」

 何度も、何度も、筒香は短い刃渡りを回数でカバーするように滝沢の腹に差し込む。切れ味は滑らかで、桃のような柔らかい果実に刃が入るかの如く滝沢の腹は刻まれていく。

 何十回目になっただろうか。滝沢の意識が、途切れた。失血によるものか、ショックによるものか。心臓が止まったのか、意識が落ちただけなのか。それらは全て、不確定だったが。

「これで――」

 筒香の凶行は、終わった。


 ***


 理宮真奈と市村友希が出会い、そして二人が『魔女』と『助手』という関係を持ってから少しの時間が経っていた。

 とは言っても、それは〈市村の体感で〉の話だ。

 記憶が、時間と場所という軸が不安定な市村にとって、理宮と過ごした思い出というものは少ない。

 それなのに、何故か〈理宮と少しの時間を過ごしてきた〉という実感があった。それは市村にとても不思議な感覚で、寮のベッドで目覚めるたびに、理宮のことを思い出せるという奇跡に感動を覚える毎日だ。

 しかし、『願い』を告げたのは五月のある日。今日のカレンダーが示すのは――四月の、二十一日だ。

「あーあ、あーあーあーあ。暇だ。新学期が始まったというのに、僕は暇を持て余しているよ。退屈だ。実に退屈だ」

 市村のもどかしさをよそに、理宮は昨日、四月の二十日にもそうしていたようにぼやいている。

「仕方がないでしょう。ここって結局、噂にはなってても〈学校の七不思議〉的な位置づけなんですから」

「そうは言ってもね、市村くん。僕という人間はこの『第二書庫』の住人としてこの部屋で過ごす以外の方法をほとんど知らないのだよ。だからこの場所に何がしか面白いことが舞い込んでこないと、暇と退屈が押し寄せてきて溺れてしまいそうになるのだ」

「とうとうと語られても困ります」

「全く。この一大事を理解しないとは。それでも『助手』かい?」

「まあ、一応は」

 言ってみたものの、市村にはその自覚がまだ薄かった。ここの住人になったとて、何をするわけでもなく、授業の合間や自習時間、単位と単位の間や休み時間を縫って『第二書庫』に入り浸るという生活を続けていた。

 これで『助手』になっているのか、という問いは、むしろ市村から投げかけたい気分だった。

「そうだ、市村くん。とある思考実験をしようじゃないか」

「しこうじっけん?」

「そう。思い考える実験だ」

 理宮は意地悪そうな、おとぎ話に出てくる猫のように笑う。

「試験管の中に、一羽のひよこがいる。まだ生まれて間もない、ふわふわの黄色いひよこだ」

 市村はそれを想像する。ぴいぴいと鳴きながら、不器用に手羽を動かすひよこを思い浮かべた。

「それを――すりつぶす」

「すりっ!?」

「そう。ミキサーでもジューサーでもミルでもすり鉢でも何でもいい。とにかく、原形をとどめなくする。そして、細胞のひとつも欠けないように集めて試験管に戻す」

 脳内でひき肉になってしまったひよこを思い浮かべ、市村はげんなりとしてしまった。そんな市村の表情が面白いと言わんばかりに、理宮は次の質問を投げかける。

「さて。ではこの試験管の中から〈何が失われた〉だろうか?」

「え、え?」

「何も失われていない、ということは無しにしよう。それでは実験の意味がないからね。ここからは確かに何かが失われた。さて、それは何だろうか。そうそう、答えは一つにしぼってくれよ」

 市村は、考える。魂、命、生きる能力、そんなものが正解に思える。

 考えた結果、市村が行きついたのは

「……愛情、ですかね」

 という答えだった。

「ほう、それは何故?」

「ひよこ、可愛いじゃないですか。それをひき肉にするんですよね。そんで、それを食べずに捨てるわけですよね。それって、愛情なんてもの持ってたらできないことだと思うんですよね。まあ――」

「まあ、何だい」

「あ、いや、えっと」

 続けようとした一言を、市村は理宮の前で飲み込んだ。

 まあ、の続き。



 その言葉を、飲み込んだのだ。

 どうしてこんな確信があるのか、わからない。そもそも市村は自分のこともあやふやだというのに、この思考実験の結果においては、この言葉をはっきりと伝えることができる。

 自分の思考が、恐ろしかった。少なくとも、市村の心の中にこんな狂気が眠っていることを、理宮に知らせたくなかった。

「いいさ。いつか教えてくれよ。今じゃあなくていい」

「そう、ですか」

「そうだよ。だって」

 理宮は、視線を扉に向ける。


「面白いことが始まりそうだからね」


 理宮は、狂暴な笑みを浮かべる。市村は理宮の表情に、背筋が凍った。

 獲物を見つけた獣の目。玩具を見つけた無垢な猫の目。

 どう表現したところで、理宮の笑顔が狂暴なものであることに変わりない。理宮の目線の先、扉に何か変化があるのか。市村も理宮の視線の先を追った。

 すると。


こん、こん。


 乾いた、ノックの音が飛び込んできた。

 『第二書庫』に客人が来たのだ。それはつまり、『願い』を聞いてほしいという人間が来た、ということに直結する。

「どうぞ、お客人」

 凛とした理宮の声が、ドアの向こうの人物の行動をうながす。

「失礼しまぁす」

 聞こえたのは、ねっとりとした甘い声。

 開かれた扉から入ってきたのは、栗毛色をしたくせ毛が印象的な、あどけない表情の女子生徒――筒香はるか、だった。


「叶えてほしい『お願い』がぁ、あるんですぅ」


 そして、凶行が始まった。

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