魔女の言葉は霹靂の如く

〈金森 璋〉

『魔女』の言葉は霹靂の如く

◆Episode.1 霹靂の如く現れし魔女◆


 真っ白な、記憶。

 正しくは、真っ白なだけじゃない。

 酷く悲しい記憶が、こびりついている。

 脳の中にこびりついている。

 どうして、そんな記憶があるんだ?

 答えは解らない。否、理解したくない。

 だって、もしも理解してしまったら――

 ――【対岸の火事】で済まなくなってしまうじゃないか。


 初夏の晴れ間が広がる、五月の日のことだ。

「ここ、か」

 増設を繰り返し、徐々に拡大の一途を辿る私立鈴蘭高等学校の廊下を大きくぐるりと回り、何下層か降り何階層か上って、渡り廊下を渡った先。


 第二書庫。


 第二書庫の扉の前に立った男子生徒は、息を飲む。この中にいるはずの人物に、用事があるのだ。この中に、入らなければならないのだ。

 しかし、いざ入らんとすると足がすくむ。しかし、噂の内容には目がくらむ。

 この場所には、こんな噂がある。


『第二書庫には魔女が住み、願いを聞き届けてくれる』


 こんな疑わしいとも言える噂が、この鈴蘭高等学校にはまことしやかにささやかれていた。

 男子生徒もそれを信じている人間のうちの一人だ。

 願いがある。『魔女』に。

 意を決し、男子生徒は扉をノックする。


こん、こん。


 乾いた音が廊下に反響した。廊下は、窓が無く薄暗い。光源といえば頭上でちらつく蛍光灯だけだ。細かい点滅を繰り返すさまには、ろくにメンテナンスがされていないことがうかがえる。

 数秒。数十秒。……部屋の主からの、返事はない。

「はぁ。馬鹿だな、俺も」

 男子生徒は信じた自分の愚かさを恥じ、頭をがしがしと乱暴になで回し、気分を振り切らんとする。

 アッシュブラウンの髪が揺れ、その下の、日本人にはやや珍しい、色素の薄い瞳が改めて扉を見る。学ランの袖をまくって、左手に巻かれた大仰なスポーツウォッチで時間を見た。もう、授業が始まるまでに時間がない。

「帰ろ。こんなところに来た俺が馬鹿だっ――――」


――――ばん!!


 男子生徒の顔の脇を、誰かの左手が掠めた。それだけではない。

 後ろを振り向きかけたところで無理に半身を返された。不意を突かれた行動だった。全く、何の反応もできなかった。

 何が起こったのか? わからない。

 しかし、目の前の少女を見て唐突に理解した。



「やぁ、久々のお客様だ」



 ああ、彼女が『魔女』なのだと。


 キスをしてしまいそうなほどの距離に、少女の顔が男子生徒に迫っていた。少女は男子生徒の顎に右の人差し指を当て、男子生徒の瞳をねめつける。

 その少女の瞳は猫の目のように見えた。黒い、漆黒に閃光が走る猫目石。それを想像させた。

「あ、あの、俺」

「『願い』を言いに来たんだろう? ねぇ、市村友希くん」

「なっ、どうして俺の名前!?」

「おやおや、その顔……ふふふっ、客人に相応しい、素晴らしい表情だ。『青天の霹靂』を見たかのようだね。だがこれは事実だ。傑作に佳作を重ねた小説よりも至極の奇妙な事実だ」

 少女は、鈴蘭高校の制服を着ていた。細い、細い、軽く力を入れたら折れてしまいそうな細い身体の持ち主だ。少女は小枝のような人差し指を徐々に市村の喉を、胸を、そして、心臓の上

をなぞっていった。

 市村の心臓が、肋骨の中でどくりと跳ねる。

「ここに、『願い』を秘めているのだね」

 猫のような瞳が、嬉しそうに市村の困惑した顔を覗き込む。

 願い、と言われてやっと自分がここに何をしに来たのか思い出した。だからこそ、訊く必要があった。

「あんたは、本当に」

「ああ、そうだとも」

 少女はひらりと身を返し、市村から離れ、まるでステージパフォーマンスでもしているかのように両手を広げ、宣言する。


「理の宮にありし真の奈落――『第二書庫の魔女』たるその当人、理宮真奈さ!」


 宣言を終えると、理宮は胸に右手を当て、スカートの裾をたぐり恭しく礼をした。

「どうぞ、お見知りおきを」

 言葉が、出なかった。代わりのように、思考だけが巡る。

(この人が、『魔女』なんだ)

 思考は、いくつかの可能性を探るが結局、その結論に戻ってくる。


がらぁん、がらぁ……ざ、ぁ――――


 先ほどまで【晴れていた空】に、突如として【霹靂へきれき】が、雷の音が鳴り響き、雨音が壁越しにまでも伝わってくる。

「さぁ、君の『願い』を聞かせてくれたまえ」

 にたり、と。おとぎ話に出てくる悪戯好きの猫のように理宮は笑う。

 その笑みに、市村は三度ためらった。だが、この『願い』を口にしなくては始まらない。

「俺、の」

 市村は、飲み込みかけた言葉を絞り出すようにして、吐き出した。





 突拍子もない願い。断られるだろう。まして、見知らぬ人間の記憶を取り戻してほしいだなんて。

 突っ返されることを覚悟して、市村は理宮の瞳から目をそらした。しかし、

「そうか、君はまだ」

 市村は理宮の声に、耳を疑った。

(俺のことを知っている?)

 反射的に、理宮の方を向く。

 一瞬。本当に一瞬。瞬きをする間もないくらいの短い刹那の間だけ――理宮が、泣きそうな顔をした。

 ような、気がした。

 だが市村が目を白黒させる間に、理宮の表情は先ほどの嫌味までも含まれていそうな意地悪っぽい笑みに戻っていた。

「記憶?」

「えっと、はい。俺の記憶……霧がかかって、なんだか俺が俺じゃないみたいで。常に霧の中にいるみたいっていうか。時間も、場所も、季節も、何もかもを無視して俺を取り囲んでいて」

「ふむ。続けて」

「……俺、おかしいんです。友達のことをよく思い出せなくなったり、先生とか、もっと、他のひとのことも。他の場所のことも。俺は寮に住んでいるんですけど、その周りでのことしか記憶がないっていうか」

 市村の言葉は徐々に尻すぼみになる。言葉に直せば直すほど、記憶の輪郭は曖昧になる。いつしか、この場所でのことも記憶からなくなってしまうのではないか。

 そもそも『願い』すら思い出せなくなってしまうのではないか。

 危惧している市村をよそに、理宮は思考し、市村の言葉を自分なりに噛み砕いた。

「へぇ。ふぅん。興味深いね。成程、成程。わかったよ理解した共感した」

 腕組みをして市村の話を聞いていた理宮は、何度かうなずいて、そして何かをひらめいたかのように指を一つ、鳴らしてみせた。

「君に呪いをかけようじゃないか。僕が『魔女』たる由縁であり、願いの対価にときに背負ってもらうもの。それを君に担ってもらおうじゃないか」

 やはり、対価が必要なのだ。全くの覚悟無しに来たわけではないが、市村にとって呪いという対価は恐ろしいものに思えた。

 何を、言われるのか。市村は理宮の視線に身構える。


「君への呪いは――僕に。この『第二書庫の魔女』たる【理宮真奈に惚れてしまうこと】だ」


 惚れて、しまう?

 それは自分の中に恋愛感情が生まれるということだろうか、と市村は考えた。文脈からしてそうなのだろう。

「それが、どうして呪いなんですか」

「なぁに簡単なことさ。君が君であるために、そして僕が僕であるために、僕は願いを叶えよう。だからその対価に、末永く、ずっとずっと未来まで、僕につきまとわれることになってもらおう」

「は、はぁ? なんですかその対価」

「ほう、嫌なのかい。いいんだよ、僕は君の『願い』を放り出して、責任無しに手放して、君からそっぽを向いたって」

 理宮の態度に、市村は押し黙る。

「この対価を飲むのなら、僕は君の『願い』を叶えてあげよう。君の記憶にかかる霧から解放してあげよう。『思いを晴らして』あげよう」

 市村の心の中に、〈恋〉という気持ちが本当に生まれるのだろうか。もし、生まれなかったとしたらどうしたらいいのだろうか。

 市村は考える。考える。考える……けれど、どうしても、この結論に至る。


「わかった、俺はその対価を、飲みます」


 大きくうなずいて、市村は理宮のことを受け入れた。

「グッド。それこそ『願い』に身を捧げるに相応しい態度だ」

 理宮は市村の態度を肯定し、交渉が決まったことを確認するために、握手をしようと市村の方へ右手を差し出した。市村は理宮の右手に、自身の手を重ねて言う。

「どうしてだかわからないけど、理宮さん、あんたを信用したくなったんです」

「わからない、ね。それでもいいんじゃないかい」

「なんか、なんだか、あんたを『理宮さん』って呼ぶことも、こうやって敬語になっちまうのも、懐かしいんです」

 ぐ、と。市村は理宮と繋いだ手に力を込める。

「俺は、あんたを知っている気がする。だから、俺は対価を背負います」

 謎の確証。不思議な信頼。戯言のような約束。

 それらを手に入れられたことが、市村は嬉しかった。そこに理由は見つけられなかったが、それでも、理宮のそばに居られると決まったことが、嬉しかった。

 市村は、初めて理宮に対し笑顔を見せる。

「それじゃあ、まずは――」



 この日、『第二書庫』の住人に『魔女の助手』が加わった。



【Continue to the next Episode】

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