惣領家の怨念(一)

 七年前に惣領家江馬時重時綱父子を滅ぼした江馬三郎左衛門尉さぶろうざえもんのじょう正盛は、惣領家累代の名乗りである左馬助さまのすけを自身は終生名乗らなかった。飽くまでも旧惣領家に尽くそうという家中の一派に配慮したためである。

 たが、かかる特例措置も自分の代までであり、嫡男時経には左馬助を名乗らせることは正盛にとって、そして旧惣領派ともいえる河上中務丞重富あたりにとっても既定路線と理解されていた。


 今を遡ること四年前の大永元年(一五二一)、時経は水無みなし神社の本殿屋根葺き替え工事に伴い、同社に修理料二十貫を勧進している。水無神社は飛騨国一宮であって、修理料を寄進することは国内有力豪族の当然の義務と考えられており、時経はその際、「江馬左馬助時経」名義でこれをおこなっている。「飛州志」所収一宮棟札文詞によってその事績は明らかである。

 いわば時経は、飛騨国一宮水無神社の修理という国内の公式事業の場で、高らかに江馬惣領家継承を宣言したというわけである。


 永正江馬の乱において一度は飛越国境まで逃げ延びた江馬菊丸一行も、間を置かず江馬家累代の家宝を差し出して正盛時経父子に赦免降伏を願い出ていた。

 新生江馬家は、先の大永元年の乱では盟友三木直頼と共に古川包囲陣に名を連ね、国内の最大勢力たる三木直頼との同盟を揺るぎないものにしていた。


 その上での「江馬左馬助時経」名義での水無神社修理料勧進である。


 いまや河上中務丞なかつかさのじょう重富しげとみ他、家中における旧惣領派と呼ばれる一派からも、そのことについて異論が噴出する余地はなかった。正盛時経父子による江馬惣領家簒奪は、少なくとも正盛にとって寸分の隙もないように思われたのであった。

 そう確信してからというもの、正盛は一気に老け込んだ。

 主家に取って代わるという年来の野望を果たし、嫡男時経による支配が盤石とみた途端、病臥することが増えたのである。


 病に臥す正盛は不意に、自らの両の掌を見た。

 その掌がみるみる血に染まっていく。

「うわぁぁッ!」

 正盛は人目も憚らず取り乱した。近習どもは慌てて駆け寄せその身を抱き起こし、

「大殿! 大殿!」

 とその名を呼ぶが、正盛は

「寄るな! 寄るでない!」

 と叫ぶばかりである。

「御屋形様を呼んで参れ!」

 尋常ではない正盛の惑乱に接した近習は、この場に時経を呼び寄せるよう同僚に言った。

 異変を耳にした時経は急ぎ正盛寝所を訪ねた。だが寝所に父の姿が見当たらぬ。ただその寝所に、こんもりと盛り上がった掛け物の山があるだけだ。

「父上は何処いずこにおわすか」

 困惑を隠さず時経は、正盛近習にそう問いかける。

 近習は申し訳なさそうにこたえた。

「大殿は、あの掛け物にくるまっておいでです。何かに怯えるように、うわごとのようなことを呟きながら……」

 時経は意を決して掛け物を剥ぎ取った。

 するとそこには掛け物の一端を病者とは思えぬほどの力でしっかりと握った父の姿があった。

「父上、しっかりなされよ。時経が参りましたぞ。なにも恐れることはございません」

 しかし正盛にその声は届いていないかのようだ。ただがたがたと震えながらうわごとのように

「寄るでない、寄るでない」

 と繰り返すのみである。

 問答にならぬ父子のやりとりの間に、近習が割って入った。

「斯くの如く意思疎通もままなりませぬ。よくよく耳を傾ければ、そのお言葉の中に時重時綱父子の名が含まれているところを見ると、或いは両名の怨霊が大殿に……」

 近習がそこまで言うと、時経は

「言うな!」

 と言葉の続きを制した。

 父は死に際し、自らが滅ぼした江馬惣領家の時重時綱父子の怨霊に苛まれているのだ。同じことは自分の死に際にもきっと起こるだろう。やがて自分にも訪れる死が、時重時綱父子の怨霊と共にやってくるということは、時経にとって堪え難い恐怖であった。

「怨霊など、ばかばかしい!」

 時経はそのように言うと、震える父をそのままに、逃げるようにその寝所をあとにした。

 

 旬日を経ずして正盛は逝った。

 時に大永五年(一五二五)八月十五日。「飛州志」所収円城寺過去帳により、


  金仙宗文大禅定門


 の戒名を授与されたことが明らかとなっている。

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