惣領家の怨念(二)
この報を得て俄に活気づいたのは岩ヶ平城の河上富信である。永正江馬の乱において父重富と共に越中有峰まで逃れたときには十一歳の幼年に過ぎず、曾ては菊丸同様父に張り飛ばされて歯が立たなかった子供も、いまや生年十八に達し、大人の仲間入りを果たして意気軒昂、いまとなっては重富を打ち負かすことが当たり前になるまでに成長していた。富信自身、身体の底から湧き上がってくるような自分自身の力と、日々大きく強くなっていく己が身体に酔い痴れていたころでもある。
なので彼は正盛死すとの報を得てなお、ことを起こそうとしない父重富に焦れて
「父上、なにを躊躇しておいでか。正盛亡き今、菊丸君を押し戴いて逆徒時経を討ち滅ぼすはこのときをおいて他にないではありませんか」
と勧めること頻りであったが、重富はかかる進言に腰を上げるふうもない。
ただひと言、
「時期尚早」
とこたえるのみである。
「時期尚早もなにもあったものか! 父上は臆したか!」
幼年のころよりこの日あることに備えて鍛えに鍛えてきた富信のこと。旧主時重時綱父子の仇討ち、そして惣領の家名奪還こそが父重富より与えられた人生の目的だった富信にとって、その目的を与えた張本人がこの絶好の機会に尻込みしていることは、堪え難い鬱憤であった。
「父上は城の隅ででも震えているが良いわ!」
富信が鬱憤交じりに放ったひと言は重富を激昂させた。
「言うに事欠いて臆病者などと呼ばわるか」
「そうでなくてなんと呼びましょう」
顔を真っ赤にして怒鳴り返す富信に対し、さすがは年長の重富である。激昂して言い返しはしたがすぐに冷静さを取り戻して
「わしが敵と見做しているのはひとり時経のみにあらず。時経の背後に何者があるか、知らぬそなたでもあるまい」
と諭すように言った。
「直頼ごと屠ってみせます」
三木家と時経との間に交わされている友誼を知らぬ富信ではない。それを承知でなお挙兵に及ぼうというのだ。
だが重富は富信のように、三木直頼と江馬左馬助時経の両者の盟約を軽視してはいない。
時重時綱父子は、前面に三木直頼、背面に三郎左衛門尉正盛の両敵を受けて滅ぼされたのだ。いま起これば、これと同様の弊に陥ることは明白であった。「時期尚早」とはそのことを踏まえての言葉であった。
「それほどまでに言うのなら……」
重富は鑓を手に取り岩ヶ平城の庭に出て構えた。重富が幾度も菊丸と、そして富信を張り倒し地に這わせた稽古場である。
先へ進むというのなら自分の屍を越えていけ。
重富はそう言っているのだ。
父親相手に啖呵を切った富信も、後に引かぬ覚悟であった。
「覚悟召されよ」
富信もまた、そう言いながら鑓を構えた。
次の瞬間から膂力に任せ重富の鼻先にどんどん鑓を突き出す富信。重富は躱すのが精一杯だ。開始早々庭の隅に追い詰められる重富。
ただ、父に対する鬱憤が昂じてこのようなことになったとはいえ、その命まで奪ってしまうつもりもなかった富信のことである。隅に追い詰められ逃げ場を失った父に対し、
「お命までは頂戴致しません」
と言いながら、鑓を大きくぶん回した。柄によって
しかし鑓は空を切った。
重富は追い詰められながらも、富信が振り回した鑓をかいくぐって泥まみれになりながらこれを躱したのだった。重富は富信の懐に飛び込んだ形となって、鑓を捨て徒手にて
馬乗りを許した富信は必死になって身をよじらせる。戦場では首を掻かれかねない劣勢である。富信があまりに大暴れするので、重富ははね飛ばされた。ただそれは、自らの力によって父をはね飛ばしたように富信が錯覚しただけの話であった。重富は自らの判断で優位を解いたのだ。
すかさず体勢を立て直そうという富信だったが、はね飛ばしたとばかりに考えていた父に、後頭部の辺りを押さえつけられて四つん這いの体勢から起き上がることが出来ない。重富は空いている片手で富信の腰帯を掴むと、その頭の方向に出し投げを打った。
富信は腹ばいになった。
重富は富信の背後に馬乗りになってその
「まだまだだな」
重富は勝ち誇るふうでもなく、荒い息に紛れ込ませるように言った。蹶起を押し止めようという重富の執念が引き寄せた勝利であった。
組み伏せられた富信はといえば、最近では勝って当たり前だった相手に久々に蒙った黒星とあって悔しさを隠さない。
「ええい、このような体たらくでは仇討ちもままならぬ。生きていても仕方がない。ほんとうに首をお取りなされ!」
と半ば自暴自棄のように叫ぶ。
「取らん!」
重富は掴んでいた髻を放して拘束を解いた。
「今日は偶然にも勝ちを得たが、これほどの使い手を無駄に死なせては我が目論見の成るものも成らぬ。
ただ、三木があるうちは如何に正盛が死んだとはいえ蹶起など時期尚早である。わしの存念は飽くまで菊丸の擁立にある。そなたが命を擲つのはそのときであって今ではない。無駄に死ぬな。ようく覚えておけ」
重富はそれだけ言うと、泥を払いながら悠然、邸内へと引っ込んだのであった。
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