大永元年の乱(六)

 古川盆地一帯を戦火に包む恐れもあった大永元年(一五二一)の乱は、かくして平和裡に収束した。三木勢は三佛寺城を引き払い、江馬時経も梨子打山の陣を高原殿村に向けて撤収した。

 江馬家家老河上かわかみ中務丞なかつかさのじょう重富しげとみは、主君江馬時経が江馬家下館に向けて北上し去るのを岩ヶ平城で見送ったあと、具足の紐も解かず、早速同城の本殿へと歩み入った。

「菊丸君、ただいま帰り申した。稽古を怠ってはいなかったでしょうな」

 大音声だいおんじょうにそう呼ばわる重富。

 菊丸と呼ばれた四歳ばかりに見える児童は、泣き出さんばかりの表情で柱の陰に身を隠す。

「なにをこそこそ隠れておいでか!」

 重富はずかずかと男児の元に歩み寄せると、その襟首を引っ掴んで鞠でも放り投げるように庭へと投げ出した。男児はといえば怯えの表情こそ見せはするけれども決して泣きはしない。泣けばもっと酷い目に遭わされることを知っているのだ。

「良き面構えでござる。さあ、この憎っくき爺の首、獲ってみせなされ」

 重富はそう言うと、差していた脇差を菊丸に向かって放り投げた。これを手に突き掛かってこいというのである。

 幼児特有の柔らかさを残す菊丸の丸っこい手が、似つかわしくない脇差を握る。菊丸は思い切って鞘を捨てた。言葉にならぬ悲鳴を上げながら重富に向かって突き掛かる。

 重富はといえば左手でその脇差を払いのけるや、右の平手で菊丸の頬を思い切りぶん殴った。

 もんどり打って倒れる四歳の児童。

「このひと月あまり、なにをやっていたか!」

 重富の大喝が中庭に響き、人がわらわらと集まってくるが止め立てしようという者はない。岩ヶ平城で繰り広げられる、これがいつもの光景だったからだ。

「もういっぺん来い!」

 涙をいっぱいに溜め頬を腫らした幼児が、重富の言葉に促され再度脇差を構えては健気に突き掛かるが、もとより結果は先ほどと同じである。

「脇差は最短距離で突き掛かるものでござる。かように冗長では仕留められる相手も仕留められませんぞ。さあもう一度!」

 突き掛かっては張り倒され、何度も起き上がる菊丸。その両頬は既に熟柿のように腫れ上がって見るも無惨である。そんな菊丸をこれでもかと張り飛ばしながら、重富は言うのだ。

「痛いか菊丸。

 本当の痛みというものはだな、小鴉丸こがらすまるのような名刀を喉に突き立てたときにこそ分かるものなのだ。そなたは本当の痛みというものを未だ知らぬ。

 そなたの母君は何故死ななければならなかったのか、何故そなたはこの爺に何度も張り倒されなければならぬのか。これは誰のせいなのか。ようくお考えなされ。

 さあもう一丁!」

 飽かずに繰り返し突き掛かってくる菊丸を張り倒しながら、重富は失意のうちに三郎左衛門尉正盛に降伏を願い出た、三年前のことを思い出していた。江馬惣領家累代の什宝、小鴉丸と一文字いちもんじの薙刀、そして青葉の笛を差し出したときに見せた、あの正盛のいやらしいにやつき。


 ほんらい張り飛ばすべきは正盛時経父子の横っ面であることを知らぬ重富ではない。


 一族庶流に過ぎず家格も河上家とさほど変わらなかった三郎左衛門尉如きが、江馬惣領家の名乗りである左馬助さまのすけをいまは子の時経に与え、まるでいままでもそうであったかのように惣領然として振る舞っていることが正しいことだとは、重富は思わなかった。亡き時綱と小春の遺児、菊丸は幼年ゆえに助命されたが、その母小春の出自が賤しかったことを表向きの理由にして、惣領たる地位を奪われている身である。庶流扱いとして岩ヶ平城の如き小城に逼塞を余儀なくされているが、これなど正盛時経父子による惣領家簒奪の歴史を隠し立てするための方便に過ぎないことなど、先刻お見通しの中務丞重富なのであった。

  かかる不正を正すためには、強くあらねばならない。


「強くなれ菊丸!」

 激しく息を吐き、疲れ果てて動かなくなった菊丸の胸倉を掴みながら、重富が吼える。


 復讐は未だ始まってもいなかった。

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