永正江馬の乱(四)

「御家老殿、如何致しましたか。有峰に至って後は……」

 小春の声で我に返る重富。

「うむ。有峰に至って後は、そこにて自活し地衆を募り、菊丸君の成長を待って亡き殿の弔い合戦をば……」

「嘘です」

 小春は呆れたように言い、続けて

「本当に、御家老殿は嘘を吐くのが下手」

 と言うと、さすが歴戦の河上重富も慌てた様子を誤魔化すことが出来ず、

「嘘ではない。俺は本当に……」

 と抗弁するのが精一杯だ。実際旧主の仇討ちは成し遂げなければならないと思ってはいる。ただ、いま重富が言ったようなやり方で成すべきものではないし、成るとも思われぬ。

 小春が看破したとおり、その場限りの虚言に違いなかった。

 小春は続けた。

「嘘です。

 だって私たちが越中有峰になんの縁を持つというのです? どうして私たちのような落人に味方する人々がいると信じられますか? 私にだって分かる道理が分からない御家老殿でもございますまい。有峰に自活して地衆を募るつもりだなんて、嘘に決まってるではありませんか。

 正直に教えて欲しいのです。これから先、どうするおつもりなのかを」


 およそ、人の生まれながらに有する性質は、出自の高低などには左右されないものである。

 小春の天性は甘い虚言より苦い真実を好む。その場限りの虚言を虚言と見抜き、苦い真実に対して無策であることを自他に許さない。

 江馬家累代の重臣河上中務丞重富が、元は一介の遊女に過ぎなかったこの女に一目も二目も置く理由がこれであった。

 射るような小春の視線を浴びては、これ以上の虚言など無駄である。重富は汗みどろになりつつ不本意ながらと前置きして

「正盛に赦免を願い出る以外に方法があるか」

 と、ばつが悪そうに自らの存念を白状した。

「あらかたそんなところだろうと思っていました。

 出来もしない弔い合戦などに希望を託して、菊丸様を無駄に死なせるようなことは御家老殿に限って致すまいと信じていましたが、行く末をしっかり考えてくれていることが分かり、改めて安心致しました。御家老殿の本心を知ればこそ、心安らかに身を横たえることが出来るというものです」

 重富は小春のこの言葉に拍子抜けした。この誇り高い女であれば、亡き時綱の敵、一族の裏切り者である三郎左衛門尉正盛に屈することを諒解するなど、とても思われなかったからだ。だが案に相違して、小春は正盛との降伏交渉を許容した。

 いままで殊更隠し立てしてきたのは何だったのだろうかと脱力する重富の腕に、小春は菊丸を託して言った。

「大殿(左馬助時重)も殿(時綱)も、いまはもうこの世にはありません。この子の烏帽子親になるべきは御家老殿しかありません。子の顔をよく見ておいて下さい」

 一族の裏切りにより滅亡の淵に追いやられた江馬惣領家最後の希望。その菊丸がいま、我が腕に抱かれて静かな寝息を立てている。自分はその菊丸を守り、育て上げなければならないのだ。

 そう思うと、重富の胸の裡に言いようもなく熱いものがたぎる。江馬惣領家累代の重臣としての血だ。その血が、いままさに沸騰している。


 重富が感動の余韻に浸っていたそのとき。

 重富の腰から小春が奪い取ったのは小鴉の太刀であった。

「何を致す!」

 重富の大喝によって、ついさっきまでこの場を支配していた静寂は唐突に破られた。菊丸が目を覚まし、火がついたように泣き叫ぶ。重富は咄嗟に小春から小鴉丸を奪い返そうとするが、菊丸を抱いたままではそれもままならない。

 小春は重富を近付けまいとするかのように、小鴉丸の諸刃の切っ先を重富に向けたまま言った。

「菊丸様のことを、どうかくれぐれもよろしく頼みます。

 泥に這いつくばって日々をようやく生きていたわたくしを、殿は拾ってくれました。

 私は……私だけは、殿より蒙ったその御恩を忘れるというわけにはいかないのです。でもそれは私一人の存念で、御家老には菊丸様を立派にお育て申し上げねばならないという大事なお役目があります。

 私はこの場にて喉を突き、冥土までも殿に付き随う所存ですが、御家老は決して早まってはなりませぬ。

 正盛時経父子を我が怨敵と思い定めて、将来きっと、きっと仇討ちの成就を」

 とまで言うと、この誇り高い女は二尺五寸(約七十六・五センチメートル)の刀身に、取り出した懐紙を巻いて、切っ先を自らの喉に突き立てその場に突っ伏した。

 あっと言う間の出来事であった。

「小春ーッ!」

 重富が叫んで後、洞に響くは菊丸の泣き声の他にない。

 呆然と立ち尽くす重富。


 一族の裏切りにより惣領家が滅亡の危機に瀕しているいま、時綱に最後まで忠節を尽くしたのが、元は下賤の身に過ぎなかった小春だった。惣領家に取って代わらんとの野望を醜くも発露した三郎左衛門尉正盛の如きには及びもつかぬこの忠節!

 

 菊丸の身をくるむ襁褓むつきに、滴がぽたりぽたりと落ちる。何かと思えば見開かれた重富の両眼から流れ落ちる血涙である。

「泣くな菊丸! 泣いたからとてもはや父母は帰らぬ! 今日より以後、仇討ちを果たすまでは心安らかに眠ることなど適わぬと思い定めよ! 

 ええい、泣くなと言うに!」

 泣くな泣くなと言いながら自らも涙をこぼす重富の怒号は、嬰児の泣き声と相俟って、怒りに打ち震え復讐を誓う猛獣の咆哮の如く、山々に不気味にこだましたのであった。

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