永正江馬の乱(三)

 合算しても十指に満たぬ小勢が、高原郷を北へ、そしてまた北へと落ち延びてゆく。男どもは具足を帯びず喉輪を着すばかり、もとどりを切り髪を振り乱している者が大半であった。

 馬はたったの一疋。これに草鞍を敷いて騎乗するは、襁褓むつきにくるまれた嬰児を抱く時綱側妾小春である。白い素足は血に染まり、逃げる道中、駄馬一疋をようやく入手するまでは、徒裸足かちはだしでの逃避行を余儀なくされていただろうことを思わせるていであった。

 小春がその腕の中に、嬰児と併せ抱く笛の高貴な様が、斯くの如く落ち延びるより以前の彼等の栄華の一端を偲ばせ、いっそう哀れを誘う。笛からは三本の枝が伸び、そこから青々とした葉が芽吹いている。江馬惣領家累代の什宝の一、所謂「青葉の笛」である。

 青葉の笛を携えながら行く山の間道はそのほとんどが難所であった。

 激しく息をつきながら急峻な間道を上ろうという駄馬に手綱を結わえ、男どもは必死になって引っ張った。諸人に号令を下すのは河上かわかみ中務丞なかつかさのじょう重富しげとみである。主人である左馬助時重を失ったいま、累代の重臣も、江馬惣領家家宝たる名刀小鴉丸こがらすまるき、一文字いちもんじの薙刀を片手に気勢を上げる以外に身の置き所がない。

 重富の合図に従い、諸人が声を合わせて手綱を引っ張り駄馬を引き上げた。


 一行は山中に見つけた手頃な洞で一夜を過ごすこととした。

 手の者を要所に配し、洞の中にあるのは小春と小春の抱く嬰児、それにようやく焚き火を起こし終えた重富の三人だけであった。三人といっても、嬰児はむずがることもなくすやすやと眠るばかりである。

「手頃な枝を探して参ろう」

 そう言って洞を出ようとする重富に、小春は訊ねた。

「これから先、我等何処へ逃れ得ましょうや」

 重富は火の様子を見るふりをして視線を落とした。こたえづらいことを訊ねられた焦りが、重富の視線を小春から逸らさせたのである。

 なので重富には小春の表情は窺い知れなかったが、不安を隠さない様子で問いかける声音を聞けば、愁いに沈むその表情が目に浮かぶようである。重富は小春を励まそうとしてこたえた。

「そなたは何も心配する必要はない。ひたすら菊丸君の身だけを案じておればよいのだ。我等これより間道を抜けて越中国有峰を目指すつもりである。そこまで逃るればよもや菊丸君の御身辺に危難が及ぶこともあるまい」

「有峰に至って後は……」

 重ねて問う小春に、重富の言葉が途切れる。

 小春はもともと遊女であった。時綱が見初めて身辺においた女である。出自が高いとは到底いえず、したがってこのような危急に際してはその実家の勢力を当てにするわけにはいかない立場にあった。要するに一行には逃げる場所がない。

 越中国に無事至ったとして、なんの拠点も持たぬ有峰で落人の一行が長く自活できるとは到底思われぬ。高原殿村の居館を一族傍流江馬三郎左衛門尉正盛に焼き払われたいま、落人の一行は飛騨国内に寄る辺を持たぬ。寄る辺を持たぬが、有峰などに逼塞すれば、いずれ遠からず自滅に追いやられることなど火を見るより明らかである。小春はそのことを案じているのだ。

 そのことを考えあわせた上で重富は、

(いまは臥薪嘗胆、惣領家の誇りを捨ててでも正盛の膝下に屈するよりほか我等の生き残る道なし)

 と密かに思い定めていた。

 いまは血生臭いいくさを終えたばかりで敵味方とも気が立っている。降伏交渉の過程でどのような事態が激発するか知れたものではない。だが、有峰まで逃れてしばらくてば、これら落人の一行と三郎左衛門尉一党もやがて平静を取り戻すだろう。そのころまでは何とか有峰に自活するのだ。しかる後、江馬家什宝たる一文字の薙刀、青葉の笛、そして小鴉の太刀を差し出し降伏を願い出れば、三郎左衛門尉正盛とて無下にあしらうものでもあるまい。

 

 小春が抱く嬰児。

 落人の一行が希望を託すこの嬰児こそ、側室腹とはいえ非業の死を遂げた江馬時綱の血を引く唯一の男児菊丸であった。

(いまは屈辱に耐えて、菊丸君の成長を待つのだ。そうすればきっと……)

 雪辱を期して、煌々と燃える焚き火を瞳に映す重富の思索を打ち切ったのは、小春の声であった。

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