②挫折

実家は坂を上ってすぐの分かれ道を、左に行った先にある和風の一軒家だ。

父が毎日、丹精込めて世話をする大きな松はまだ健在。

家を囲うコンクリート塀の外からでもよく見えるくらい、元気に幹を伸ばしていた。


「母さん……」


「お帰んなさい」

門の前、母が掃き掃除をしていた。その優しい声色や表情は5年経っても何も変わっていなかった。

毎日、私が学校から帰ってきた時に聞いた声。

その声を聞くと、とたんに情けなさが込み上げてきた。


―ごめんなさい。


そう、言おうと思った。言わなければと。

けれど、なぜか素直になれない。代わりに出た言葉は、


「久しぶり」


そんなありきたりで、ぶっきらぼうな言葉だった。


「元気そうね。今日、夜ご飯何食べたい? 東京では食べれんもん、母さんが腕によりをかけて作るから。何でも言って」


淡泊な娘に対して、母はどこまでも温かかった。


私は美容師になるのが夢だった。

憧れを抱き始めたのは、中学2年生の頃。

そして、本格的に目指すと決めたのが高校2年生の終わり。


当時、地元有数の進学校に通っていた私は、教師から猛反対を受けた。

「どうして、ここまで来て美容師なんだ。もったいない」

なんどもそう諭された。

けれど、そんな私の思いを尊重し、教師を説得してくれたのが母だった。


「学歴も大事かもしれんけど、あんたがしたいことをやってる姿を母さんは見たい」

そう、背中を押してくれた。

両親の援助のおかげで、高校卒業とともに上京し美容師の専門学校に通うことになった。

専門学校では、カットやパーマなどの実技的な技術を学ぶだけでなく、今までに聞いたこともない法律や衛生に関する知識なども勉強した。

都会での生活に慣れないことも多かったが、当時の私ははっきり“夢”に向かって進んでいるという感覚が楽しくて仕方がなかった。


専門学校を卒業し、美容師の国家試験に合格した。無事に就職も決まった。

高校の頃の友人はまだ大学に通っている人が多く、一足先に“大人”になれたことが嬉しかった。


就職し、アシスタントとして働く日々の中で少しずつ、少しずつ、その感覚は私に忍び寄ってきた。


夜遅くまでかかる掃除や明日の準備、ヘアアレンジの練習。

自分の想像した自分になれない、焦り。

焦りから来る失敗。

先輩からの叱責。

上手くいかない日々。


あ、これは“違う”。そう思ってしまった。

思ってしまったが最後、“違う”という感覚は、私の心の中をどんどん支配していった。


これは甘えだ。大丈夫。仕事なんて楽しいことばかりじゃない。

好きなことをやっているんだ、家族も応援してくれているんだ。

とても恵まれてるじゃないか。


私は喉の奥から溢れてくる“違う”に必死で蓋をした。

けれど、ついにこぼれ出てしまったのだ。


「もう無理っ……!」

気づけば私は、子どもみたいに泣きじゃくりながら母に電話をかけていた。



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