episode:3-6 【晴読雨攻】
セーラの返事はなく、彼女は一瞬だけヨミヨミに目を向けてぽりぽりと頰をかく。
「アッキーは姑息だよね」
ヨミヨミの目はこちらを向いている。彼はセーラに不満があるようには思えなかったが、俺がリーダーをやっても不満がないという程度の印象は持ってもらえたらしい。
「ヨミヨミは私の方を味方してくれるよね?」
「いや、セーラ、お前はない」
「なんでさ、酷いよヨミヨミ!」
「普段の言動を考えろ」
「こんなにヨミヨミに尽くしてるというのに! 酷い!私の心を弄んだんだね! リリィちゃんにチクってやる!」
「やめろ、アイツは関係ないだろ」
「ヨミヨミに心を弄ばれたって言ってやる!」
ヨミヨミとセーラはバタバタと会議室を動き回り、それに反応して赤ら顔のおっさんが首を上げる。
「あー、アキトー。 お前はアレだろ? そっちの岸井って子の安全が気がかりなんだろ。第一優先にしてやるから、おっさんに任せとけー」
「……角、だったか。 その言葉を信用するには」
「信用なんてする必要はないだろ。いざってなれば即席チームの命令なんて無視出来るんだ。その子の身を守る命令ではないと思ったら、無視して離れればいい。んで、そうじゃない限り従って、そのうち俺を信用してくれ」
赤ら顔のおっさんは、へらりと俺を見て笑う。
俺が答えられずにいると、おっさんは一色に目を向ける。
「嬢ちゃん、まとめ役ってのは案外忙しくて、時間が取れないぞ」
角の言葉に、一色は戸惑ったように俺の手を握る。
「じゃあ、嬢ちゃんに決めてもらうか。軽くしか話しは聞いてないけど、一番、重要なんだろ? アキトもそれなら納得出来るだろ?」
「……ああ、一色。俺でいいよな」
「えっと……その、僕は……」
一色は俺の手を握ったまま、俺から目を逸らす。
「角さん? に、お願いしたいです」
「おう、任せとけ。そこで遊んでるセーラとヨミヒトと将門もそれでいいな?」
床でこんがらがっている二人を見ながら角は尋ねる。
「俺はそれが一番だと思うが」
「うぇーい、まぁそれでもいいけどさー」
角は怪盗に目を向ける。
「うーん、私個人として、アキトくんのことは信頼してるけど、あなたの事はよく知らないからなんとも言えないかな。アキトくん経由でなら従うけど」
「それで充分だ。と、まぁ面倒な話はこれぐらいにしといて、あとは連絡先だけ交換して飲むとしよう」
「……ああ、分かった」
一色は俺から目を逸らしたまま困ったように呟く。
「あの、僕まだ……買ってないです」
「ああ、一色はまだスマホとか持ってないから、買ったら報告する」
「おー、分かった。たかしくんと円ちゃんは持ってるよな」
「アキトだ」
手早く連絡先を交換してから、怪盗が買ってきた菓子を適当にもらって一色の前に置く。
「んぅ……僕、食べませんよ?」
「菓子も食わないのか。というか、最後に食べたのいつだ?」
「んぅ……昨日のお昼に怪盗さんが作ってくれたので」
「……ほぼ丸一日何も食べてないな。いいから何か食べろよ。あと、後で飯も食いに行くぞ」
「うーん、ポテトチップスって口の中痛いから苦手なんです」
「なら、これは」
一色の前にチョコレートを置くと、彼女はうーんと困ったような表情をする。
「口の中がべとべとするのが気持ち悪いです」
「さきいか食うか?」
「口を動かすのが大変です」
「……お前って人間向いてないな。 まぁ、この中から一番マシなのを選んで食えよ」
「うう……じゃあ、チョコレートで」
一色は仕方なさそうに一口サイズのチョコレートを一つ手にとってパクリと食べて、近くにあった缶を手に取って喉の奥に流し込む。
「ちょっと待て、一色、ストップ。それ酒だ」
「んん? あっ、ご、ごめんなさいっ。そ、その、アキトさんが口を付けたあとなのにっ」
「それは別にいいんだが……味で気付けよ。大丈夫か?」
「だ、だだだ、大丈夫、です」
一色は顔を真っ赤に染めて、口元を抑える。
「……大丈夫じゃなさそうだな。仕方ないから、一色を休ませてくる。セーラ、ビールの残りを頼む」
酔うのが早すぎるような気もするが、顔を覗き込めば一色の視線は左右に揺れていて定まっておらず、耳まで真っ赤になっているので、酔っているのは間違いないだろ。
「よ、酔ってはないれひゅよ!」
「酔ってるだろ。どう見ても、立てるか?」
「い、いや、酔ってないでしゅからっ」
「呂律が回ってないぞ」
一色を立たせて、彼女の手を引いて会議室から外に出る。
少し脚が上手く動かせていないように見えるが、いつもこれぐらい歩くのが下手な気もする。
「あ、あの、アキトさん」
「どうした?」
「……えっと、本当に酔ってないですよ?」
「とりあえず、俺もお前も慣れてないんだから少し休んだ方がいいだろ。酔ってるか酔ってないかも判別出来ないだろ」
部屋に戻り、一色をベッドの上に座らせてから自分の荷物を漁る。
「アキトさん、どうしたんですか?」
「ああ、後で何か食いに行くだろ。それにスマホとかも買いに行く必要がある。その用意ぐらいはしておこうかと」
「あ……えっと、その前に、アトリエに寄ってもいいですか? その、あの服、同じ物を買ったので、それを着たいです」
「ああ、分かった。少しゆっくりしたら出るか」
一色は頷き、俺の枕をぎゅっと握りしめた。
◇◆◇◆◇◆◇
一色のアトリエは、いつ来ても少し落ち着く。染み付いたコーヒーの匂いか、顔料の匂いか。それとも照明の具合だろうか。
いや、隣に感じる、熱だろう。
「……あの、さっきは聞けなかったんですけど。怒ってます、か?」
「何がだ」
「その……まとめ役をするの、角さんにしてしまって」
「そんなどうでもいいことで怒るわけないだろ」
「でも、したかったんじゃないんですか?」
「元々面倒ごとはあっちに放り投げるつもりだった。気にするな」
一色の顔が晴れることはない。
窓の外に見える曇り空のように、雨が降ることも晴れることもせずにそれが続く。
一色はぺたりと、絵の具を手に取ってキャンパスに塗りたくる。
「僕、自分のことがよく分からないです。アキトさんは、しっかりしていて信頼出来ると思っていたのに……いつのまにか、知らない人に任せてました。その、アキトさんの思惑とかじゃなくて、僕がアキトさんを信じれてないのかもしれないと思うと……」
「……てっきり、一色は俺と離れると不安だから俺以外の奴を選んだのかと思っていた」
赤い絵の具の付いた一色の手がピタリと止まる。
カクカクとしたぎこちない動きで俺の方を見て、何度か瞬きを繰り返す。
「そうなんですか?」
「いや、知らないけど、角のあの説得に納得したなら、そうなのかと」
「……僕、アキトさんと一緒なら安心するんですか?」
「そうなのかと思っただけだ」
「……あの、ちょっといいですか?」
頷いて一色の近くに寄ると、彼女は赤く濡れた手のまま俺の両手を取り、ぬるりとした手で握り締める。
互いの指を絡ませ合うようにする。ぬるぬるとした感触の絵の具が徐々に暖かくなっていき、手の先が風呂にでも浸かっているように熱を持ち始める。
一色の細い指先は不思議と柔らかく、妙にこそばゆく気持ちがいい。
顔を赤く染めた一色は、薄桃色の唇をゆっくりと動かす。
「……んぅ、安心はしないです。アキトさんは?」
「するか、こんなもん」
好意を寄せている少女を相手に手を絡ませるなどして、安心など出来るはずがない。
心臓が強く動くのが分かる。腹の傷が開いてしまわないか心配になるほど、早く強く拍動している。
「……あの、様子、変ですよ?」
「問題ない」
「いや、でも……えっと、大丈夫なら、もう少し握っててもいいですか?」
くにゅくにゅと、絵の具を塗りたくるように一色の手が俺の手を撫でる。
女性慣れしていないからここまで動揺してしまうのか。いや、こんなことをされれば、誰でもこうなるだろう。
「ん、なんか、気持ちいいですね。こうするの」
「趣旨が変わっている」
「んぅ……安心ですか。アキトさんが近くにいないと、無理してても止めれないので、近くにいてくれた方が安心かもです」
「……そうかよ」
いつまで手を絡ませ合っているのか。
自分から離すようなもったいないことは出来ず、一色の指が動くままに受け入れる。
この指先が好きだ。細く柔らかくしなやかで白い。何より、この世のどんなものよりも精密に動く。
少し力を入れれば折れてしまいそうだ。だから、握るにしても応える程度で、欲望のまま掴んではならないだろう。
そう分かっているのに、そう分かっているから、強く、強く、強く、この手を自分のものにするように握り締めてしまいたい。他の誰にも触られないように。
「アキトさん?」
我慢をしていたつもり……ではあった。それでも知らず知らずの内に力を入れてしまっていたのか、一色は少し不思議そうに小首を傾げて俺を見る。
「……好きだ」
「ん、えっ? ……何がですか?」
「一色のことがだ」
「えっ……えっ……」
「事が終わるまで言うつもりはなかった。俺が一色の弱みを握っているような状況で思いを伝えるのは卑怯だからな」
勝手に言葉が出てくる、なんて事はない。回らない頭を無理に動かして、動かない乾いた舌をそのまま回すように言葉を発していく。
「だが、好意がないフリをしてスキンシップをするのも卑怯かとも思ってな。俺は一色を慕っている、だから、あまり触ってくれるな」
「あ、あの……僕……」
いつのまにか強く握ってしまっていた一色の手を離す。
彼女の手が、俺の身体を、とん、と押した。
「あ、す、すみません。痛くなかったですか」
「……傷なら大丈夫だ」
「……えっと、絵を描くので、その、集中したくて……」
「手を洗ったら出ていく。代わりに怪盗を寄越してもいいか?」
「は、はい」
何も考えないようにしながら洗面所で手を洗う。一色に押されたせいで服にべったりと赤い手形が付いてしまっていることに気がつき、小さくため息を吐く。
横目で一色が絵を描いているのを見て「じゃあまた後でな」と声をかけて、外に出る。
怪盗に電話をかけて、端的に来てほしいことだけを伝えて路地裏から表に出て、深くため息を吐いた。
「……あー、黙って手の感触楽しんでりゃ良かった」
フラれたのは人生で初めての体験で、非常に嫌な気分だが、まぁこれで良かったのだろう。
好意を隠して触り回すのは卑怯だ。
「いや、別に卑怯でもよかったか。そんなことはどうでも」
とりあえず、人とは会いたくないから自宅に帰るか。久しぶりに。
黙っていればデートも出来たとか、あの手をまだ握っていたかもしれないとか……そういうことばかりを考えてしまう。
ああ、馬鹿らしい。
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