episode:2-13 【恋にのぼせて龍と成る】
「……出入り口は何個あるんだろうか」
「んぅ……めちゃくちゃ広いですから、たくさんあるのは分かりますけど」
「もしもの時のためにいくつか知っていた方が良さそうだな」
二人でビルから出る。久しぶりの日差しに眉をひそめると、一色は心配そうに俺を見る。
「傷、大丈夫です?」
「日が眩しかっただけだ」
こんなに気を使われていては、セーラに言われたことが出来そうにない。
そもそも女慣れしていない俺が上手く口説くなんてことは出来ないだろうが、ここまで気を使われていたらそれ以前の問題だ。
「交際してくれ」とでも言えば、一色からすれば断りにくいだろうから弱みに付け込んでいることになりかねない。
「んぅ……日傘、買ってきましょうか?」
「いらない。俺に気を使う必要はないからな」
「気を使ってるわけでは……。ごめんなさい」
「責めてるわけでも……」
以前のように話したいと思っても、上手くいかない。
一色は俺に対しての遠慮が大きく、俺も恋慕を自覚した上、役割として口説き落とす必要があったりと、以前とは状況が違いすぎた。
寂しい。と、感じてしまう。
うざったいほど輝いていた太陽に雲がかかり、陰りを見せる。
「……行くか、さっさと」
「……はい」
少し歩いて、電車に乗る。 平日の真昼間だからか人はいつもよりも少なく快適だ。
隣に座る一色は、メモ帳にカリカリと鉛筆を押し当てながら、電車の景色を見つめていた。
綺麗な横顔だ。
「怪盗さん、アキトさんのこと、心配してましたよ」
「……いい奴だな」
「いい人です。ヌードは描かせてくれませんけど」
「……そりゃ無理だろ。特にお前の絵は写実的すぎる」
写真以上に現実が反映されるものに、自分の裸を載せる勇気がある女はそうそういるものではないだろう。
羞恥とか、常識とか、それ以前の話だ。
「というか、ヌード描きたいのか?」
「描いたことがないので、興味はありますよ。……んぅ、まぁ、今回の趣旨からズレますけど」
「そういうものか」
「……いざ目にしたら、気恥ずかしさで直視出来ない可能性もありますけど。他人の裸なんて見たことないですから」
「親とかは?」
梅雨ほどに鬱陶しい季節はない。吐いた息と同じほど湿気った空気を吸う感触は気色悪く、常に天気を気にして外に出なければならないのも、湿気のせいで臭いが篭るのも気分が悪い。
隣を歩く少女の顔も、日の光を浴びていないせいか、暗く見えた。
「会ったことのない義父ならいたみたいですけど、もう亡くなったそうです」
義父に対してどこか他人行儀な言葉と態度だ。
「会ったこともないって……」
「そのままの意味です。実母に幼い頃に売られて、義父に絵を描くことを強制されて生きてきたんです」
「……そうか」
「んぅ……こんな話、信じるんですか?」
「そういう生い立ちの方がよほど信用出来る。むしろ、普通に学校に行ってました。なんて言われても嘘にしか感じられない」
「んぅ、酷くないですか?」
「それだけ、上手いって意味だ」
一色はゆっくりと口を動かす。
「……あの、聞かないでもいいんですけど」
電車が止まり、一色と外に出る。
「幼い頃、僕の絵を見た義父が、お金に物を言わせて買ったそうです」
「……現代の話とは思えないな」
「僕もそう思います。……義父は、物を正確に見ることこそが、絵に必要なものだと考えたそうです」
「正確に、か」
「バイアスというものがあります。好きなものはよく見えますし、嫌いなものは悪く見えます。新しいものと古いもの、偏見など、いくらでもあって、失くしても雨後のタケノコように生えてくるものです」
一色の話は、セーラのものと違い感覚的な要素が大きく、俺には少しばかり理解しがたい。
黙って聞いていると、一色は不安そうに顔を歪める。
「だから、一番大きい偏見を捨てろ。と……」
「一番大きい偏見?」
「……愛です。愛を持つな、と。だから、義父とは会ったことがありません。親子は特別な縁だから、会えば愛情が芽生えるかもしれないからです。だから、幼いころから頻繁に、世話役の女性が入れ替わりました」
自動販売機で飲み物を二つ買って、一つを一色に手渡す。
「住む場所も、よく変えられました。絵を描く道具も、食べる物も」
「……徹底してるな」
「一色という名前は、義父が付けたものです。色って字の意味を知っていますか?」
一色はベンチに座ってからコーヒーに口を付ける。
「普通に色のことじゃないのか?」
「それもあります。色を使うこと、絵のみをしろという意味です」
「……あと、色欲とかの性という意味もあるな」
「絵のみを愛せ、という意味です」
「仏教とかの言葉なら、世界という意味もあるか」
「それも……結局は同じ意味です。絵の世界にのみ生きよ、と」
一色は俯いて、呟くように言う。
「僕は、そうやって生きてきたんです」
俺に手を伸ばして、縦に線の入った俺の左手を触り、縦の線にそっと指を這わせる。
「僕は、悪い子なんです。義父がいなくなったのをいいことに、気に入った家を買ってそこに引きこもり、同じものばかりを口にして、同じデザインの服ばかりを着る」
「普通は、そうやって自分が好きなように選ぶものだろ」
「そうして選んだ結果が、これなんです」
左手が包まれる。
一色の手の温度は低く、暑いこの時期でも冷えているように感じる。握られているうちに、俺の手の温度が移ったのか、少しずつ暖かくなっていく。
「お前のせいじゃない」
「僕のせいです。僕のせいで……こんな傷が」
一色を慰めようとした瞬間、彼女の顔が笑っているのが見えた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。……僕のせいで一生消えない傷が出来て」
「……大丈夫か?」
「嬉しいんです。喜んだら、ダメなのに、絶対、ダメなのに」
「一色?」
彼女は泣きそうな顔で笑っていた。
「これは、僕が作った、僕の傷跡なんです。僕のなんです。僕が原因を作って、僕を庇って出来た。だから……こんなの、初めてで」
ぎゅっと、彼女は俺の手を強く、離さないようにと握りしめる。
何もかもが、愛着を覚える前に奪われていく生活。それの後に現れた、奪われることがない傷跡……あるいは傷跡ではなく、俺が一色を庇ったという事実だろうか。
「この手が、欲しいです」
一色の目は、絵を描いているとかのようにただ真っ直ぐで……ほんの少しの狂気を滲ませていた。
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