episode:2-5 【恋にのぼせて龍と成る】

 死後の世界か、あるいは死ぬ直前の夢の世界か。

 大昔に住んでいた狭い家の中だった。何年前まで住んでいたのだったか、確か幼稚園から小学校に上がるときごろに引っ越したのだから、十三年ほど昔か。


 その時に読んでいた絵本代わりの兄のお古の参考書が手の中にある。

 死ぬ前に見る夢だからか、落ち着く気の利いた場所だ。


 少し手狭に感じるのは、幼い頃の自分の体ではないからだろう。懐かしさを覚えて母の姿を探すが、どこにも見当たらない。


 顔も覚えていないからだろう。夢の中にも出てきてくれないのは。

 あるいは、夢の中に出てくるのも嫌なほど、俺を嫌っているからかもしれない。


 外は雨が降っていた。臆病な俺は雷が鳴るのが恐ろしく、雨が降る度に雷が落ちるのではないかと怯えて、母にしがみついていた。


 玄関に置いてあったビニール傘を手に取って、愛おしい家から逃げるように外に出る。

 道を歩きながら少し目を上に向けると、雲が薄い方と濃い方に分かれていることに気がついた。


 少し逡巡してから、雲が濃い方へと足を運ぶ。

 強くなる雨音、傘を持つ手が雨の落ちる振動を感じる。


 普段なら人や車も通る道だが今は誰もいない。そのことに心地よさを感じながら、雨を味わうようにゆっくりと、雨の濃い方へと足を進めていく。


 気がつくと、先ほどの家からは数県ほど離れた場所にまできていた。大学と自宅の間のシャッター街の道だ。

 人が一人もおらず、いつも以上に寂れているが、その寂しさもバケツをひっくり返したような大雨が誤魔化してくれていた。


 いつもの調子で路地裏に入り、濡れたドアノブを引いて中に入る。

  コーヒーの香りが鼻腔に入る。


「……一色?」

「いいえ、残念ながら」


 人の気配を感じ喫茶店の奥を覗くと、コーヒーカップを二つ持った男が、温和な笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。


「……いや、よかった」

「どうしてですか?」

「死後の世界なら、俺の無駄死にだった。夢の中なら、笑っているあいつの顔を思い出せそうにないから、きっと泣いている姿で出てきただろうからな。死ぬ前の夢でも泣き顔を見るなんて、辛気臭くて堪ったものじゃない」


 机の上にコーヒーが置かれる。


「気が利かないな。一色なら『何杯飲みます?』と聞いてきている」

「ふふ、申し訳ありません。何杯飲みますか?」

「一杯で充分に決まっているだろ。馬鹿か」


 笑みを崩さない男は、椅子に座るよう促すように俺を見て、俺は渋々それに従って腰掛ける。


「……俺は死んだのか」

「冷静ですね。驚かれる方が多いのですが」

「賢ぶっているだけだ。夢ってのはあくまでも記憶の整理だ。俺の知り合いには品のいい男なんていないからな、知らない記憶を夢見ることはない。これが夢ではないってことぐらいは分かる」


 コーヒーに口を付ける。丁度良い濃さで、風味もよく、無駄なエグ味も感じない。


「ここは死と生の境界です。いえ、正確には、死せるものが選ぶ場所」

「……ああ」

「貴方には二つ、道があります。ひとつは永遠の世界で生きること、もうひとつは再び生まれ直すこと。どちらを選んでも構いません」


 どうやって選べばいいのか男は提示しなかったが、なんとなく理解する。

 傘を持って外に出る。行きたい方へと歩いて決めればいいのだろう。


 ただ、雨が強い方に向かって歩く。その道がどこへ向かっているのか、雨粒の落ちる線があまりに多く数歩先の景色すら見ることが出来ない。


 水溜りに足が嵌る。いや、水溜りではない。

 鼻に入る潮の匂い。いつのまにか降っていた雨も海水に変わり、強い波を全身に受けて引きずりこまれていく。


 引き込まれた水の中は、外に比べて雨の音もなく静かで、雨の線がないおかげでよく見える。


 生き物がいない、岩と砂と水だけの世界だ。

 ぐるりと波に回されてしまうが、雨の喧騒よりかは幾分か心地よい。


 不意に、視界の真ん中に何かの生き物が映る。

 俺よりも遥かに巨大な蛇。否、それは蛇と呼ぶにはあまりに美しい。


 青と白銀の鱗。知性を思わせる瞳。流麗かつ強靭な身体が少し動くだけで、俺の全身が揺さぶられる。


 ──許すな。


 それは日本語ではない。人間の発音出来る声でもなく、それどころか音ですらない。

 頭の中に響く、龍の『意思』。


 ──許すな。


 許すな。って、何をだよ。そう考えた俺の頭の中を覗いたように、龍の言葉が続けられる。


 ──我が贋物を、決して、許すな。


 その言葉の直後、抵抗が許されないほどの力が全身に降りかかる。

 波が強い、大渦に飲み込まれた。そう呼ぶことすら出来ないほどの、大きすぎる力の奔流。方向や上下どころか、自分の身体がどうなっているのかも分からない。


 あるいは時間の感覚や思考すら見失うほどの、絶対的な力。

 ただそれに、飲み込まれた。

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