episode:2-4 【恋にのぼせて龍と成る】
外に出てまたしばらく適当に歩く。
「んぅ……荷物重くないですか?」
「そんなに重くはないな」
「……そろそろ帰りますか? 荷物増えちゃいましたし」
「それもそうだな。これ以上いても実はなさそうだ」
雨の中、運動不足の一色を歩かせるのもそろそろ限界だろう。
適当に切り上げるかと思っていると、妙に獣臭い……というよりも潮のような匂いを感じる。
気になって足を止めると、一色も同じように気になっていたのか、首を傾げて水溜りを見つめていた。
「……塩水?」
「塩? 何がだ?」
「この水溜り、雨水じゃなくて海水みたいな水です。色が」
そんなはずはないだろう。というか、そもそも雨水と海水の違いなんて、ほんのすこし屈折率が違うだけで、人間の色彩感覚で見分けが付くようなものではない。
水溜りを指先を付けて自分の鼻先にやる。海の匂いが、うすらと鼻腔に入る。
「……海水だな。よく分かるな」
「自慢なんですけど、僕って目が良いんです。それより……んぅ、なんでこんなところに海水があるんですか?」
「水槽を運んでいて零したとかじゃないか? ここだけだろ?」
「いえ、あっちの路地まで、ずっと続いてますよ」
妙な状況だ。多少零したぐらいなら分かるが、これだけの量の海水が道に散乱しているというのは、少しばかり考えにくい。
単純な興味が半分、もしかしたら今調べていることと関係があるのではないかという期待が半分。
一色も同じようなことを思ったのか、指し合わせることなく二人で路地へと進んだ。
パチャリ、と水の音がする。強くなってくる潮の匂い。
一色は瞬きをしながら、地面を見て傘を閉じた。
「……建物の隙間だからか、雨が降ってきませんね」
濡れた地面。強くなる潮の匂い。
ジトジトと暗いからだろうか、嫌な雰囲気が漂う。
パチャリ、と水の音がする。俺も一色も立ち止まっているのだから、別の誰かがいるのだろうか。
嫌な気配。この世ならざるものが寄るような、常識を脅かされる感触が、雨粒と共に首筋を伝る。
「……ありえないだろ」
それを見て発した俺の言葉は、雨音にかき消されていく。
それは、獣と呼ぶにはあまりに美しくおぞましい、生命を冒涜する姿を成していた。
全身を覆う白銀の鱗、ネコ科のようにしなやかな筋肉の流線、獣がような二足の脚で人がごとくに立ちて、人の眼で獣が睨む。
腕部と同程度の長さを持つ爪は、生命では持ち得ない『刃』に似ていた。
こんな生物がこの世に存在するはずがない。刃は換えが効く道具であるから優秀なのだ。
敵を切り裂く薄刃など、鋭ければそれだけ折れやすく、武器が折れてしまえば自然を生き残ることが出来なくなる。
刃という明確な殺意は、明らかな確かな悪意は、人の世にのみ存在する異物だ。
だから、この生命はおかしい。
自らを生かすためではない、敵を殺すための物を持つ生き物など、あまりにもおぞましい。
「……一色、下がれ」
状況を理解するのよりも先に、彼女の前に出て手で後ろに下がらせる。
あんな怪物を見て、よく悲鳴をあげなかったと一色を褒めてやりたい気分だが、そんな余裕がある状況でもない。
「少しずつ、足音を立てないように、だ」
一色の返事はない。恐ろしさに硬直させてしまっているのかと思い様子を見るが、違うことが分かる。
恐怖の表情ではない。 驚愕、嫌悪、そして羨望。
目を何度もパチクリとまばたかせた一色は、ポツリと呟いた。
「……シュイロン?」
あの化け物が、絵の中の美しい龍なのか? 絵のシュイロンは二足でもなければ、地上に適した身体をしていたわけでもない。
だが、よく見ると類似性がある。鱗の色や、堂々とした立ち振る舞い、見るものを圧倒する生命の気配。
「一色、逃げるぞ」
「……なんで、シュイロンが日本に」
「一色、逃げるぞ」
「それに、小さいし、汚いし、弱い、なんで……」
バケモノの目が、こちらへと向いた。
「ッッッ!! 一色、逃げろ!!」
音はない、バケモノの姿を見失う。バケモノに置き去りにされたかのような水溜りの波紋と、全身を襲う強烈な悪寒が、目にも止まらない速さのバケモノを捉えた。
目の前。左手は一色を庇うように彼女の肩を押し飛ばし、右手は掴んだ鞄を頭上に掲げて、バケモノの刃を防ごうとする。
バケモノの刃が鞄に当たった感触。時間がゆっくりと流れていく錯覚、歪んでいく鞄を離しながら全力で後ろに跳ねるが、地力があまりにも違いすぎた。
何が起きているのか理解するより前に、胸から腹に掛けて刃が薄く走っていく。
熱い。感じたのは痛みではなく、熱。胴から零れ落ちていく血液を見て察する。これは死んだな、と。
バケモノも同じように思ったのだろう。バケモノは俺から興味を失ったように目を一色の方に向けて、ゆっくりと歩みを進める。
骨や内臓までは届いていないようだが、切り口があまりにも深く大きすぎる。
出血量が著しく、じきに生命を維持するだけの血液すらも流れてしまうだろう。
救急車がきても間に合わない。 そう理解しつつ、フラつく身体を無理矢理立たせる。
「一色、逃げろ」
同じ言葉を再度繰り返す。
視界から失われていく色彩。意識を保っていられるのは、あと何秒間だろうか。
「あ、アキトさん! に、逃げましょう!」
正気に戻ったような反応を見せる一色。俺が足止めをしなければ逃げられないが、一色ひとりでは逃げそうにはない。
「……ああ、逃げるぞ。こけないよう、背後を見ずに走り続けろ」
パシャリ、と水溜りを踏みながら一色の方へと走るフリをする。それを見た一色も走り出し、俺は足を止める。
一色も必死だからだろう。上手く、俺が一緒に逃げていないことに気づかないでいてくれていた。
蛇と虎と人を混ぜたような異形の者は、一瞬だけ一色の方に向かおうとするが、一歩、俺がバケモノの方へと足を進めると、ギョロリとした人の目が俺の方に向く。
強く息を吐き出して、流れている自分の血液を掬い、鬱陶しく額に付いている髪をかきあげて固める。
血を失い力が抜けていく身体を無理矢理立たせながら、もう一歩。
「……来い」
俺の言葉が伝わったのか、あるいはただの獲物が立ち向かってくることに苛立ったのか、獣のように威嚇をしながらこちらへと飛びかかってくる。
刃となっている前肢。本物の刃のような鋭さはないが、それでも獣の速さで剣の間合いを持っている生き物には、初見ではほとんど対抗する方法はない。
一色が安全な場所まで逃げるのに、何秒かかる。路地から出るのに10秒、狭い道から広く人通りのある道に行くのが50秒。1分、それが最低限で、もっと言えば人が多くいる場所にまで行くのには5分程度は欲しい。
吠える必要はない。吠えた程度で怯むような生き物には見えない。
だが、声にならない声を張り上げて、前進して刃の付け根を掴む。振り下ろされる刃をその程度で止められるはずはないが、そこを軸にして身体を回す。
獣の刃を逃れて横を通り過ぎる。そのまま駆け抜けて、一色が出た場所とは別の道に出る。
振り返って追ってきた獣を見て、荒い息を吐き出す。
飛びかかってくる獣。息を整えつつ、手を前に出した。
「……それは、もう見た」
刃の側面に手の甲を押し当てて、自分の身体に触れないように流す。力の押し合いでは勝ち目はないが、質量に大きな差がある生き物ではないため、逸らすだけなら人間相手とそう変わらない。
むしろ、こちらの意図を理解していない分、幾らか楽なぐらいかもしれない。
逸らした刃の間合いよりも内側に入り、拳を獣の顔面に叩きつける。
どうせ死ぬのだから壊れても構わないと思って振るったそれは、思いの通りに指の骨が折れる感触がする。だが、それでも獣は仰け反ることすらない。
もう片方の手で、喉らしき場所をぶん殴る。これには流石に怯んだ様子を見せ、こちらに背を向ける。
逃げてくれるのかと期待した一瞬、青白い何かが視界の端に映る。
それがバケモノの尾であることに気がついたのは、振り回されたそれに吹き飛ばされ、壁に叩きつけられてからだった。
まともに受けた胴体と、壁に叩きつけられたことで背中に鈍い痛みと動かしにくさを感じる。
立ち上がることが出来ない。息をしようとして、口から血が漏れ出る。
あばらが折れて、肺に刺さったのだろうか。浅く呼吸するのも辛く、血液の不足に加えて、肺に血が溜まったせいで呼吸すらマトモに出来ず、意識が遠のいていく。
何秒、時間を稼げた。一色はもう安全な場所まで逃げれただろうか。
冷えていく身体。俺にトドメを刺そうとやってくるバケモノを見ながら、口角を上げる。
一色が逃げられたなら、まぁ許せる範囲だ。二人死ぬはずのところ、ひとり生かせたのだから勝ったと言っても差し支えないだろう。
死への恐怖や、こんなことをしなければ良かったという思いを忘れるように笑う。
俺へと刃を振り上げているバケモノの動きが止まる。バケモノの首が向いた方へと視線をずらすと、脚を震わせている小柄な少女が立っていた。
肩まで伸びている黒い髪、絵の具のこびりついた灰色のパーカー、洒落っ気のない七分丈のズボン。ここ数日で、何度も見た……幼いながらも整った顔立ち。
「あ、あ……は、離れてくださいっ! あ、アキトさんからっ!」
震えた脚、震えた声。普段よりも一層に下手な足取り。
けれど、こけることはなく、こちらへと走ってきて、俺の前に来て背を俺へと向けて手を広げる。
「大丈夫です。僕が、何とか……」
一色の小さな体が震えながら、逃げることなくバケモノの前に立つ。
何で逃げていないんだよ。俺がいないと気がついて、引き返してきたのか? 人を襲うバケモノがいるところに。
馬鹿だ、馬鹿だと思っていたが、あまりにも大馬鹿が過ぎる。
振り上げられたバケモノの刃。俺は無理矢理に身体を跳ねあげさせて、一色の頭の横から腕を突き出す。どうせ死ぬのだから、腕がなくなっても構わない。
刃と腕が触れ合い中指の先から腕にかけて刃が降りてくる最中、光の線が空中を走った。
足音が遅れて聞こえる。フラつきながらそちらを向くと幾何学的な未知の文字が浮いていた。
「……大丈夫か」
男の声が聞こえる。
倒れる体を一色に支えられるが、一色ごと雨に濡れた地面に倒れる。
「いや、違うな」
男は自分の言葉を否定し、もう一度、ゆっくりと口を開く。
「大丈夫だ。安心しろ」
嫌みがないほど、自信に満ちた声。
幾何学的な模様が男の周りに浮かび、発光する。
限界がきたのか、意識が遠のく。一色の整った顔が歪んで、雨に混じって大粒の雫が俺の頰に落ちる。
笑ってやろうとしたが、俺の意識は俺の意思に反して、暗闇へと落ちた。
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