episode:2-1 【恋にのぼせて龍と成る】

 コーヒーと絵の具の匂いが混じった空気。

 ここ数日で随分と嗅ぎ慣れた空気に、吐息を溶かすように口を開いた。


「俺なんて描いても面白くはないだろ」


 少女は答えない。固い背もたれに体重を預けながら少女に目を向ける。

 普段とは違った真剣な表情。コロコロと変わるのも子供らしくて可愛らしいが、こうやって集中している姿は凛々しさも混じり、幼げながらも美しく、思わず見惚れてしまう。


「……写真が写実的な描写を成せているか、と、考えてみると。 存外にそれは、現実からは遠いように感じるのです」

「そうか? そのままを切り取ってるように見えるが」


 一色は絵を描くときも口を動かす。それは集中せず、注意が散漫になっているからではなく、その逆で頭の中を整理しきれず独り言を止められないだけだ。

 故に俺が返事をしたところで、彼女の創作には何の影響もない。


「人には二つの目があるのに、カメラは一つしか目を持っていません。解像度も人の目の方がよほど優れていて、色彩に至っては誰の目にも明らかなほど、現実とは違う」


 薄桃色の濡れた唇が、微かに動きながら俺に向く。


「低い声がして、僕の唇が微かに揺れるのを感じます」


 絵の具の付いていない一色の左手が彼女の唇を撫でる。

 喉奥から這い出ようとする情欲を飲み込み、コーヒーで胃の奥に流し込んだ。


「あなたの心を、感じるんです」


 まるで口説き文句のようだ。ぬるい熱が、喉奥へと流れて腹に留まる。


「……怪盗の言っていた暦史書管理機構だが、おおよその見当はついた」

「見て描くという行為は、必ずその人によるフィルターがかかってしまいます。描く対象は自分よりも大きいか小さいか、好きか嫌いか」

「名前しか伝えられなかったから、単に名前からの推測でしかないが……。怪盗は性格がいい。名前だけで正当が導き出せるから、それだけを伝えたんだろう」

「でもそのフィルターは決して

悪いものではないと、僕は思うのです」


 互いに、一方的に話す、会話とは呼べない何か。

 けれど、自分勝手な気持ちの押し付け合いと呼ぶには、俺は一色のために動きすぎていて、一色は俺を強く見つめていた。


「暦史書、暦史書管理機構。共にネットでも図書館でも名前の出ない言葉だ。だが、一色の絵の価値を思うと、小さな組織だから名前が出ないとは考え難い。つまり、安っぽい表現にはなるが、いわゆる秘密組織といった具合なのだろう」

「瞳の虹彩や指紋、個人のみが持つ情報が人の認識によって描く時にねじ曲がるのか、というと、それは否です。表面上の情報はそのまま絵に描くことが可能です」

「組織の名前から考えるに、歴史書をもじったもので、管理しているものは、おそらくそれに似た書物。ある程度古い書物を保存するなら、空気の管理やら無菌室やらと、かなり電力を食うし、相応の規模が必要だ。個人宅でやろうものなら、一瞬でバレるだろう。大型の店舗か、公共施設に隠れてやっていると見るのが自然」


 一色はビッ、と指を走らせて息を吐き出す。


「心を描く、です。人というフィルターを通すことによる技術を、僕はそう呼ぼうと考えているのです」

「ある程度の歴史があり、規模があり、人の出入りがあり、書物の出入りがある。……公文書館、辺りが妥当だろうな。怪盗の性格の良さを信じればだが」


 一色は頷いて、俺に問う。


「コーヒー淹れますけど、何杯です?」

「一杯でいい」


 一色の淹れたコーヒーに口を付けてから、一色に尋ねる。


「行くか?」

「んぅ……一緒にきてくれます?」

「俺は行くが、一色はどうするかを聞いているつもりだった」

「……でも、危険があるって怪盗さんが」

「お前に自画像を描いてもらう約束をしてるからな。それが欲しいから手伝ってやる」

「……僕自身の自画像ぐらい。今すぐにでも、描いていいんです」


 その一色の言葉を聞いて、思わず顔をしかめてしまう。

 まさか『お前が心配だから』『お前の力になりたいから』などと小っ恥ずかしいことを素面で言えるはずもない。

 誤魔化すように一色の額へデコピンし、彼女から顔をそらして窓の外を見る。


 今日も外は暗く、居心地の悪い雨模様だ。


「明日、大丈夫なら行くぞ。まさか忍び込むわけにも行かないから、怪しい人間を見つけるまで周囲を張り込む予定だ。今日はちゃんと寝とけよ」


 こくり、と、一色は申し訳なさそうに歪めた顔のまま頷いた。



 ◇◆◇◆◇◆◇


 朝早くから雨の中、通行人を見張り続ける。


「んぅ……地味ですね」

「まさか不法侵入するわけにもいかないからな。ひとまずは何かおかしなことがないかを探るしかない」

「おかしなこと、ですか?」


 一色は大きな傘を俺とは反対の方向に傾けながら、不思議そうに首を傾げる。

 既に見張りを始めてから二時間ほどは経っていて、雨ということや一色の体力の不足もあり、立っているだけでも辛そうだ。


「特にないな。まぁ、あったとしても素人がパッと見でおかしいと気がつくほど適当なものではないから妥当か」

「何しに来たんですか……」

「とりあえず、適当にどこかで休むか」


 これ以上見張っていても大して実はないだろう。

 理想としては、一色の姿を見た暦史書管理機構とやらに所属している奴が話しかけてくる事を期待していたが、そこまで甘くはないか。


 適当に歩いて見つけた喫茶店に入り、昼食とも言えない早い時間だが軽く食事を摂ることにする。


「あっ、僕、アイスコーヒーでいいです」

「お前、朝も食ってないだろ? 少しは腹に入れておけよ」

「……食べましたよ?」

「アレルギーとかないよな。適当に頼むぞ」

「んぅ……」


 適当なセットを2つ注文する。

 スケッチブックと鉛筆で絵を描いている一色を見ながら、いくつか考えていたことを話す。


「完全に怪盗の言葉が本当として、魔法使いが本当にいるのか。と、考えている」

「本当ならいるんじゃないですか?」

「勘違いしているとか、何かの比喩表現か。例えば一色の絵の技術も『これが魔法である』と言われたら頷くしかないしな。物理法則を超えているとかそういう魔法なのか、それとも技術の上にあるものなのか。ということだ」

「……突然めちゃくちゃ褒められてびっくりですけど。……僕は怪盗さんに魔法使いと呼ばれたことはないですね」


 嬉しそうに一色はそう口にして、運ばれてきたコーヒーに手を付ける。


「なら、魔法使いは実際に魔法を使うんだろうな。それで、何故かその暦史書とやらと関係があると」

「繋がりが分からないですよね。それに加えて僕の絵まで関係してるとなると」

「そうだな。それも確かにそうだが、僅かにではあるが分かることもある」

「……分かること、です?」


 軽食のサンドイッチが運ばれ、一色は音を立てないようゆっくりと皿を押して、俺の方へと二つとも置こうとする。


「こら、ちゃんと食え。……俺は今まで生きてきた中で魔法が実在するとは思っていなかった、一般的には知られていない技術というわけだ」


 一色は観念したようにサンドイッチを手に取り、いつも話すときのような小さな口の開き方で、ちびちびと食べていく。


「それに、魔法使いとやらは自分達で取りに来ずに、怪盗から絵を購入した。案外大したことがないか、存在が露見するのを恐れているかのどちらかだな」

「……んぅ? 暦史書管理機構の発見と、どう繋がるんです?」

「俺が最初から言ってるだろ『向こうから接触してきてくれるのが理想だ』と」

「……んぅ?」


 サラダをモシャモシャと無表情で食べている一色を見ながら続ける。


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