episode:1-8 【雨の日喫茶】
本当に出てくるとは思わなかった。
今すぐに怪盗へと飛びついて捕まえるべきか、それとも怪盗からこちらに向かってくるのを待つべきか。
一色は目をパチリパチリと瞬きさせて、混乱したように怪盗を見て口を開く。
「あ、えっと……」
「大丈夫。私がこの不埒な輩を倒してあげるから」
ここで、怪盗を近寄らせるために一色に何かするのは不自然か。一色の肩を掴んでいた手を離し、フッと息を吐く。
狭い室内。一歩跳べば届くほどに近い。
気取られないように視線を一色へと向けながら、床を蹴って怪盗へ手を伸ばす。
「ッ! はやっ!?」
怪盗の高い声が部屋に響く。だが、身を伏せることで怪盗は俺の手を避けて、反対に俺の脚を取ろうとする。
何かの武道の心得があるのか、あるいは単に場慣れしているのか、怪盗の動きは早く正確だった。
脚を動かすのをやめて、地面を掴むように身構える。怪盗はタックルにも似た動きで俺を倒そうとしたが、単純な体格差がものを言い倒されることはない。
俺が怪盗に手を伸ばそうとしたとき、一色の焦ったような声が部屋に響く。
「ご、誤解です! 誤解っ! えっちなことをしてたわけじゃないですからっ!」
「えっ、そうなの? 失礼しました」
怪盗は衣服を翻すようにして後ろを向いて、両手足を床に付いて跳ねようとする。
この絶好のチャンスを逃すわけにはいかないと、手に何かが触れた瞬間に力強く掴む。
「ちょ、ちょっ!」
怪盗のしていた黒いマントを俺が掴んだことで、怪盗の首が締まる。苦しそうな声を聞いて、ほんの少し引く力を緩めると怪盗はマントを外して俺の視界を妨げるようにばさりと投げる。
「くそ、待てッ!」
「何が何だか分からないけど待たないよっ!」
マントを手で退かせながら走るも、怪盗は既に玄関へと向かっていた。
想定以上の身軽な動きに驚くが、それでも俺の方が幾分も足が速い。これならばすぐに追い付けると踏んで外に出たとき、怪盗は空にいた。
「今日のところは退散してあげよう。でも、婦女暴行をしようとするなら、この私が法的組織に代わってお仕置きするからね」
雨空と地面の中間に立つようにして、怪盗は俺を見下ろす。
黒いアスファルトの地面に似た色のハシゴ。サーカスや軽業師の技術のように、どこかに立て掛けられることもなく立っているハシゴの上に、怪盗がスカートをはためかせながら立っていた。
「……全力で追うが、落ちるなよ?」
「えっ、追ってきても疲れるだけだよ?」
遅れて一色がパタパタと走ってきて、怪盗を見上げて呟く。
「怪盗さんなのにいちご柄……」
「お前は何を見てるんだ」
「えっ、アキトさんも眺めてるじゃないですか」
視界に入っているだけだ。そう言おうとしていると、怪盗がバッとスカートを手で抑えて俺を睨む。
「こ、この色情魔っ!」
「ええ……」
怪盗は身体の態勢を変えることでハシゴを傾かせて民家の屋根の上に移動する。 そのままハシゴを回収し、別の屋根に掛けてその上を走っていく。
「うわ、すごい動きです」
「追うぞ」
まさかこんな方法で逃げられるとは思っていなかったが、とにかく追うしかない。雨で少し地面が滑るが、走るのに支障はない。
ある程度追いかけていると、怪盗は屋根の上で目立っていては振り切れないと思ったのか、俺の視界の範囲外に降りる。
おおよその場所を頼りに向かうと、ひとりの高校生らしい少女が軒先きで雨宿りをしていた。
あまりにも怪しい……というか、他に人がいないのだからコイツで間違いないだろう。
「おい、怪盗」
「えっ、な、何ですか? ナンパ?」
「いや、誤魔化されないからな」
体格も声も変わらない。とりあえず確保しようかと考えるが、もしも違ったらという考えが湧いて出てくる。
「……あのー、何ですか?」
「今日は朝から雨が降っていたから、雨宿りをするのは不自然だぞ」
「さらばっ!」
逃げ出した怪盗を追いかけようとしたところで、追いついてきた一色が何もないところで転倒し、道端で蹲る。
怪盗を追いかければ走る速さの差で捕まえられるだろうが、蹲っている一色がどうしても気になる。
怪我をしたとしても、子供ではないのだから自分でどうにでも出来るだろう。
怪盗を追いかけるのは今しか出来ない。今後、警戒されている状況で捕まえるのよりか、今捕まえた方が確実だ。
そう思いながら、振り返って一色の方に向かう。
「おい、大丈夫か?」
「……大丈夫じゃないです。 顔からこけました」
「ほら、見せてみろ」
蹲っている一色の顔をあげさせて、顔に付いている細かいゴミを手で払う。
痛みで蹲るほどなのだから怪我をしたのかと思ったが、顔は赤くなっているだけで傷はない。立ち上がらせて濡れた服を払ってやり、他に怪我もないことを確認する。
パーカーとズボンのおかげで直接地面に擦らなかったからだろう。
「だいぶ濡れてるな。仕方ないから戻るか」
目を何度も瞬きをさせて泣くのを堪えている一色の手を取る。
「ん、んぅ……ごめんなさい。捕まえるチャンスだったのに……」
「いや、俺は別に捕まえたいわけじゃないから構わない」
一色に価値があると思っているから、彼女の言葉を信じて絵を取り返そうとしているだけで、特別な思いがあるわけでもない。
面倒だが、また作戦を立てて捕まえればいいだけだ。
半泣きの一色の手を引いて戻ろうとしたところで、足音が背後から聞こえて立ち止まる。
「あ、えっと……大丈夫?」
振り返ると心配そうな表情をした怪盗が少し距離を置いて立っていた。
「……いや、逃げろよ」
「でも、私が逃げて君が追いかけてきたらシキちゃんを見る人がいなくなっちゃうし。それなら私も一緒に戻ってから、一度仕切り直した方がいいかなって」
「お前は何を言ってるんだ?」
「いや、だからね。シキちゃんが最優先でしょ? で、私が逃げたら追いかけて来られるから逃げられないでしょ? 私が逃げなかったら君も追いかけてこないでしょ?」
いや、そうなのだろうか。 納得は出来ないが、俺にとっては捕まえるチャンスが戻ってきたのだから納得したフリをしておこう。
三人で家に戻り、明るい場所で一色に怪我がないことを確認する。
「……んぅ、じゃあ、もう一回走ります?」
「取り敢えず一色は着替えてこい。風邪引くぞ」
一色にそう言いつつ、彼女にだけ見えるように指を二本立てて窓を指差す。
「んぅ……? 分かりました。置いていかないでくださいね?」
一色を見送りつつ、怪盗に目を向ける。
俺よりも少し背が低いくらいの、女性にしては少し高めの身長。 身体は細いが、一色のように華奢というわけではなく引き締まった筋肉をしていることが伺える。
ハシゴに登っていたときの柔軟性やバランス感覚を見るに、かなり身体を鍛えているのだろう。
怪盗と二人きりになる妙な空間の中、怪盗はポツリと口を開く。
「……アレ、何をしてたの?」
「アレって何のことだ?」
「シキちゃんを襲ってたの」
本当のことを言うべきか。嘘をついて今後とも同じ方法で呼び寄せられるようにした方がいいか。
少し考えて、口を開く。
「一色は可愛いから、その魅力に抗うことが出来ず……」
「……それなら、何で私が逃げたら追いかけてきたの?」
「ああ、それは……まぁ、何でもいいだろ」
誤魔化すのは無理と判断して、置きっぱなしで冷めたコーヒーに手を付ける。
「それより、シキちゃんってのはなんだ」
「ん? 普通にあだ名だよ。 会ったのは初めてだけど、文通はしてたから仲はいいんだよ」
どういう関係だ。
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