episode:1-7 【雨の日喫茶】
「何をしてるんですか?」
コーヒーと絵の具が混ざった匂い。湯上りなのか、少女のしゃぼんの匂いが微かに混ざって鼻腔に入る。
天気は雨。しとりしとりと、傘がなくとも出歩ける程度の空模様が窓の外に見えた。
「大学の講義の復習。怪盗が来なければやれることもないしな」
「へー、何々……」
俺のノートパソコンを覗き込み、一色は「ゔっ」と間抜けな声を出す。
「日本語じゃないです……」
ノートパソコンを閉じつつ、一色が手にしている本に目を向ける。
彼女の胴体と同じほど横幅があり、両手で抱えるほどに厚い。爬虫類図鑑と大きく書かれた拍子には、昔流行っていたらしいエリマキトカゲの写真が載っていた。
一色の蔵書のほとんどが今持っている本と同じような何かしらの図鑑である。それを見ることを読書と呼べるのかは甚だ疑問ではあるが、絵だけ描き続けるのよりかはマトモな人間らしく感じる。
普段、忙しなくパタパタと動きまわっている一色だが、腕の中の図鑑の重みのおかげか今日は少しおとなしい。
いつもはボサボサの髪も今は落ち着いていて、普通の少女のようだ。
「それにしても来ないな、怪盗」
「んぅ……風邪とか引いたんでしょうか」
眉尻を下げながら『心配です』と呟いた一色は、白い人差し指の先をつつっとノートパソコンに添わせる。
「シュイロンの話をしてもいいですか?」
誘うような甘い声。『これ、ギリギリ犯罪じゃないよな?』と条例に引っかからないかを気にしながら、薄い桃色の唇がゆっくりと開くのを見てしまう。
生き物の話をするときとは思いがたいほど、いやに扇情的だ。
「ここではない世界。下品に表現するならば『異世界』であるラスリウネクスには七柱の龍がいました。僕が見たのはその内の二柱、金龍フォルド・エルベレゥグと水龍シュイロンです」
「……異世界ね」
一色が嘘をついているとは思えないが、荒唐無稽な言葉を信じられるかはまた別の話だ。
「金龍は四国ほどの大きさがありますし、表面は土や木に覆われているうえに、一切動かないので正直なところ山にしか見えませんでしたね」
「四国」
「まぁ、ただの大きいトカゲさんはどうでもいいです。あれはあれで好きですけど。シュイロンのような美しさはない」
ほう……と、一色は赤らめた顔のまま息を吐き出す。濡れた吐息が、ノートパソコンの上においていた俺の手に薄くかかる。
「人の人生には価値がある。と、僕は考えていました。どんなことを考えているのか、どんな神を信じていて、何を学んで、いかなる哲学を握りしめていて、親との関係や、友達とのたあいもない話」
パチリと開かれていた目は薄く開かれて、記憶を思い返すように遠くを見つめていた。
「人が息をすれば環境が変わって、それだけで死ぬような生き物がいます。目に見えないほど小さな生き物が」
一色はシュイロンの話をするときだけ、人が変わったような目をする。
普段は世界を愛してやまないような、どんな些細なことも見逃さないように大きく開かれた目が、ゆっくりと閉じられてゆっくりと開かれている。
「僕達はそれなんです。認識すら出来ないような、文字通り吹けば飛ぶような」
うっとりとした表情に、俺は眉をひそめてしまう。
あまり見たくないと思ってしまうが、話をするなとも言えない。
子供のような姿と声、けれど不思議と強く女性らしさを感じる。薄い腰付き、小さな臀部、細長い脚、どれも違う。話しているときの声色や表情のせいか。
「人を助けた徳も、嘲った悪も、すべて無価値なんてすよ。手を伸ばしても意味がない。泣いても笑ってもただ音がするだけで、ありとあらゆるすべてが……」
饒舌に語っていた一色は俺の顔を見て、いつもの不思議そうな表情をする。
俺の視線を追って自分の腰に目をやって、服の上からペタペタと腰を撫でて、首を傾げた。
「んぅ……何も付いてないですよ? まさか、僕のお尻を見てたってわけでもないでしょうし、何かありましたか?」
「いや、なんでもない」
「あっ、コーヒー飲みますか?」
「ああ、頼む」
「何杯いります?」
何杯? 砂糖をどれぐらい入れるかという意味か。
「なら二杯頼む」
ブラックのコーヒーを二杯渡された。
一色のシュイロンの話を聞きつつ、苦いコーヒーを口に運ぶ。
「それで、鱗の細かい造形が部位によって……」
「ちょっと待て一色」
パソコンの擬似乱数で決めた、家の中の見回りの時間だ。
もしも家の中の状況が把握されていたとすれば、定期的な時間で見回ってもそれから外れた時間に盗みに入られるだけだろう。
そのため、あらかじめランダムな時間に見回りをすることにしていた。
絵を保管している部屋の前で何事もないことを確かめる。一色の扉を隠したり机や椅子をあるように見せることが出来るほど写実的な絵によって隠しているトラップにも作動した様子がない。
来てもおかしくない時間だそうだから、やはりこちらの動きがバレているのかもしれない。そもそもが一色の虚言である可能性もあるが、それは考えないでおく。
「大丈夫でした?」
とてとてと付いてきた一色の問いに頷く。
「ああ……少し考えがある。一色の部屋に案内してくれないか?」
一色いわく『怪盗さんはいい人』らしい。
それが事実かは分からないが、話を聞くに犯罪者ではあるが悪人とは思えない。
自分なりの考えを押し通す強い意志と、それを成せる能力を持った人物である。というのが、怪盗への俺の評価だ。
一色に残した書置きの字の筆跡から、おそらく女。
どれだけ力があろうが、足が速かろうが、俺ならば捕まえることが出来るだろう。
とにかく見つけることさえ出来ればいい。
部屋に入る前、一色の前に指を一本立てる。盗聴を警戒して事前に決めていた指での合図だ。
指を一本立てるのは『俺に合わせろ』の意味であり、それを見た一色は楽しそうに人差し指を下に向ける。 『そちらに合わせる』だ。
ごっこ遊びのような合図は少し気恥ずかしく感じるが、一色はそんな気恥ずかしさを覚えていないのか、ワクワクとした表情を浮かべながら部屋に入ろうとして、扉の枠に脚を引っ掛けてこけそうになっている。
歩くのが下手すぎる。
ため息をつきながら一色の部屋に入ると、存外にこざっぱりとした片付いた内装が目に映った。
一色の身体のサイズに合わせた家具だからか、ベッドもダンスも机も、どれも小さい。自分の身体が大きくなったかのような錯覚を感じつつ一色の肩を掴む。
「ん、んぅ……? あ、と……どうしました?」
戸惑ったような一色の声。
いつも静かなこの家にいるから大きな声で話す必要がないからだろう、一色の声は小さくはないのに、雨に溶けるかのように響かないものだ。
それがより一層に、雨音に隠れるようにして発せられた。
一色がこけないようにゆっくりと彼女の細い腰を支えて、小さいベッドへと押し倒す。
「あ、あの……」
誤魔化すような微かな笑みが浮かんで、俺の顔を見てゆっくりと怯えたような表情に変わる。
小さい。そう呼ぶよりも幼いと表現した方が適切なのだろう。
ほとんど使っていないせいだろう。手足は衣服の上からでも分かるほど細く、力がない。
肩を掴んでいる手が、一色の両手に掴まれるが力を入れずとも引き離されることはない。
潤んだ一色の目が俺へと向いて、ふるふると首が横に動く。
もしかしてコイツ、意図が伝わっていなかったのか? そう考えて、もう一度人差し指を立てて一色に見せると彼女は怯えた表情のまま俺から目を逸らす。
「あ、合わせろと言われましても……あの、僕……こういうのは、したことないからわからないです……」
「……いや」
合図が伝わっていない。というか、誤解されている。
仕方なく、目を閉じて顔を真っ赤にして背けている一色に『怪盗を呼び寄せるためのフリだフリ』そう言おうとしたところで、ガタッと、廊下で音が鳴り、それから勢いよく扉が開く。
「少女を無理矢理手篭めにしようとするなんて許せんっ!」
扉の開いた勢いで風が起きて、扉を開けた人物の着ていた黒いスカートがふわりと揺れる。
ビッ、と俺に細長い指が向けられて、マスク越しに鋭い目が俺を刺す。
「この怪盗が成敗してやる!」
盗人に向ける言葉ではないが、いいやつかよコイツ。
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