episode:1-5 【雨の日喫茶】
ぱたぱた、という足音を聞いて振り返る。
烏羽色の濡れた髪。ほんの少し赤くなった頰と、絵の具まみれのものではない小綺麗なパーカーとズボン。
指先も白く細いことがよく分かる。
「んー、どうですか? 僕の絵は」
小首をこてりと傾げた一色は、期待するような目を俺に向けた。
すごい、美しい、そう口にしようとしたが、俺の耳に入った俺の言葉は、それとは違うものだった。
「シュイロンの絵は残していないのか?」
一色は目を開いて、手にしていたタオルをぼとりと床に落とす。
「……ごめん、なさい。あの、もしかして……あまり、ペンキがかかっていなかったんですか?」
「いや、大丈夫だ。少し気になっただけで」
価値観を奪われる絵を目にしたのではないか。そう心配している一色にペンキでほとんど見えなくなっているシュイロンの絵を見せて、言い訳するように言葉を続ける。
「単純にここまでの画家が描く傑作を見たいと思っただけだ」
「ならいいんですけど……。ちゃんと、残してはいないですよ。盗まれた一作を除いてですけど」
「そうか。……一色が描いた中で一番の絵はどれだ?」
「……盗まれた絵です。連作シンリュウという名前の、十二枚で一組の、シュイロンを描いた絵ですね。……まぁ、モチーフがいいだけですけど」
一色はそう答えたあと、不思議そうに俺を見つめる。
「あの、シャワー浴びないんですか?」
「ああ、借りる。それはさておいて、怪盗を捕まえたいんだったか」
「あ、はい。ちょっと難しいかもしれませんけど」
「人手がないなら、手伝わせろ」
驚いたような表情を一色が浮かべた。
困惑したのか視線が泳いでから、一瞬だけ目が合ってすぐに目線がずれる。
「えっと、何でですか?」
「その絵が何億の価値があるのかは知らないが、見て見ぬ振りをするには大きすぎる」
「お金とか、払えないですよ?」
「必要ない。走るのには自信があるから、出たら捕まえてやる」
一色はほんの少し迷った様子を見せてから頷く。
「あ、ありがとうございます」
俺が言うのもアレだが、こんな簡単に頷いて詐欺とかにあったりしないのだろうか心配である。
少し嬉しそうな一色に風呂場まで案内され、さっさとシャワーを浴びる。
「着替えとタオル置いておきますね」
「ああ、助かる。男物の着替えなんてあるんだな」
「今から作ります」
そんな無茶なと思ったが、一色の絵を描く速さを考えるとあり得ないとも思えない。
頭にこびりついたペンキをお湯で流すと、水性のものだったのか簡単に溶けていく。
ついでに心地の悪い汗を流す。勝手にシャンプーやらボディソープやらを使うのもよくないかと考えて、適当に強く擦って無理矢理に落とす。
脱衣所の方の扉が開く音が聞こえる。まさかもう出来たのかと思い、一色が出て行ったのを確認してから扉を開けると、俺が着ていたものと同じようなデザインの服が置いてあった。
洗濯して乾いたのか? と思ったが、この短時間でそのはずはない。 バスタオルで水滴を拭ってから触ってみると、少し質感が違う、タグがない、と元々着ていたものとは違うものであることが分かる。
興味深く見ていると、あることに気がつく。
「……手縫いか、これ」
信じがたいほど均一な縫い目ではあるが、ミシンで出来るような縫い方ではなく人の手によるものだということが分かる。
人を見る目があるとか、才能を見抜くとか、俺がそんな洒落たことを出来るわけではなく、ただひたすらに一色が凄まじいせいで理解させられる。
彼女は化け物である。と。
手早く体を拭いて服を着る。ドライヤーを探すが見つからないので諦めて脱衣所から出て、喫茶店らしい部屋に戻る。
「服のサイズ合ってました?」
「それは問題ないが、ドライヤーとかないのか?」
「んぅ、置いてないです」
服に使えるような布はあって、ドライヤーはないのか。
まぁアトリエ的な場所なのだったらありえなくはないか、そう思うがシャンプーやらはあったのだから不思議だ。
「それで、アキトさん。本当に手伝ってくれるつもりなんですか?」
「基本的に大学の講義がない時間になるけどな」
「んぅ……僕の運動能力では捕まえるの難しいので助かりますけど。本当にお金はないので、絵しか渡せないですよ?」
エアコンの風で髪が乾くのを感じながら、彼女が書いている絵を見る。
「なら、お前の自画像が欲しい」
「え、ええ……何ですか、それ」
一色はほんの少し笑い。ぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「任せとけ。とりあえず、今まで盗まれた物と状況からさらっていくか。髪が乾くまでは帰るのもアレだしな」
「了解、です。 絵を描きながらでもいいですか? 手を動かしてないと落ち着かないんです」
「なら、美味そうな飯の絵を頼む」
「ご飯の絵はちょっと苦手で……」
気まずそうに顔を歪めてそう言いながらも、一色はペタペタと絵の具を指先で混ぜてチョンチョンと少しずつ描いていく。
「まず、大前提なんだが……犯人はあの怪盗で間違いないのか?」
「間違いないとは言えませんけど『おかげで子供達が救われました。ありがとうございます。』と、お馴染みの文句を書いた紙が置いてありましたし、あとお金も置いてたので」
「……金?」
「生活に使ったりとか、そういうためのものらしいです。『絵を描くために50万円ください』って書いたメモを机の上に置いてたら置いてくれたりしてくれますよ。それにいつの間にか冷蔵庫が設置されて、時々ご飯が入れられてます」
「……それ怪盗なのか? 親じゃないのか?」
「僕、父母がいないので怪盗で合ってると思います」
絵を盗んでいくが、生活の補助をしてくれるし、言われただけ金も出してくる。正直な感想を言えば、意味が分からない。
「怪盗さんは悪い人ってわけじゃないと思うんです」
「いい人とは思えないが……。返せとは言わなかったのか?」
「書いては見ましたけど断られました。代わりに他の絵を描くからとも交渉しましたが、交渉の余地はないようです。どうにも、金払いの良い人の手に渡ったみたいで」
細い指先からぽとりと絵の具が垂れる。俺は近くに置いてあった雑巾とバケツを手に取って、先程ぶちまけたペンキを拭ってバケツの上で絞っていく。
「とりあえず、取り戻すには捕まえるしかないか。ここでも絵を盗まれてるんだよな。何回やられたんだ?」
「えーっと、半年ぐらい前に引越しした当日に一回、それから毎月来るので、六回ぐらいですね」
「警察に相談とか、何かしらの対策は?」
「警察には行ったんですけど……『僕の絵が盗まれた』と言っても信じてもらえなくて……」
一色は落ち込んだように俯く。
たしかに、実際の一色の腕を知らなければ『何言ってるんだコイツ』としか思えないだろう。
小さく華奢な体格も、幼げなかんばせも、少し舌足らずな敬語も子供のもののようにしか感じられない。
こんな少女が自分の絵を盗まれたと言っても、子供同士の揉め事か虚言かと思うのも無理はないだろう。
一色の描いた料理の絵は、不思議と美味そうに見えない。肉汁の溢れているハンバーグだが、どうにも不味そうというか……。写真と見た目が変わらないのに、不思議と味が想像出来ない。
「俺が言えばいけるか?」
「んー、そうかもなんですけど、警察に捕まえてもらうと犯人と話す機会がなさそうなんですよね」
「絵を取り返す機会は減るか。まぁ、何度も挑戦出来るのなら、俺が無理なようなら警察に相談すればいいか。侵入経路とかは分かるのか?」
「全然分からないです。寝る前には鍵もちゃんと締めてるんですけど……」
いや、この前、鍵開いてただろ。
そう思いながら、とりあえず家の作りを知るところから始めることにする。
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